第170話

文字数 4,281文字

 「…矢田…なにをしている? …行くゾ…」

 お嬢様が、言った…

 私は、即座に、

 「…ハイ…」

 と、答えた…

 このお嬢様の前では、まるで、臣下…

 臣(しん)、矢田だった(涙)…

 それは、ずっと前の日本の総理大臣、吉田茂が、天皇陛下に対して、

 …臣(しん)、茂…

 と、言ったのと、似ている…

 まさに、臣下…

 なぜか、わからんが、この矢田は、この矢口のお嬢様の臣下だった…

 臣下だったのだ(涙)…

 私と、お嬢様は、並んで、帝国ホテルの廊下を歩いた…

 誰が、見ても、双子…

 あるいは、姉妹だった…

 が、

 主役は、私…

 この矢口のお嬢様ではない…

 それは、二人の格好を見れば、わかる…

 私は、着物…

 この矢口のお嬢様は、ただの私服だったからだ…

 その二人が、並んで歩いている…

 だから、同じ顔でも、私が、主役だった…

 主役だったのだ…

 そんなことを、考えていると、

 「…矢田…」

 と、お嬢様が、声をかけた…

 「…なんでしょうか?…」

 「…今日まで、ご苦労だった…」

 …ご苦労?…

 …どういう意味だ?…

 悩んだ…

 が、

 これから、行われるのは、離婚式…

 だから、これまでのねぎらいの言葉だと、受け取った…

 これまで、柄にもなく、金持ちの葉尊と結婚して、ストレスが、堪ったと、お嬢様は、思ったのかもしれない…

 が、

 本当のところは、わからない…

 だから、ただ、

 「…ありがとうございます…」

 と、だけ、返した…

 そう言えば、無難と言うか…

 波風が、立たないからだった…

 すると、だ…

 「…矢田…オマエにこれをやろう…餞別だ…」

 と、いきなり、なにかを、渡した…

 …餞別?…

 そうか、餞別か?…

 私は、悟った…

 このお嬢様と、今日を限りに、二度と会わない…

 そう言いたいのかも、しれんかった…

 私は、なにを渡されたか、わからんかったが、渡されたものを、見て、驚いた…

 なんと、キットカットだった…

 「…どうだ? …オマエの好物だろ?…」

 矢口トモコが、からかうように、言った…

 その私同様の、細い目を、さらに、細めて、言ったのだ…

 そして、その矢口のお嬢様の顔を見て、私は、ゾッとした…

 文字通り、ゾッとしたのだ…

 私は、これまで、一度も、キットカットが、好物だと、このお嬢様に、言ったことはない…

 が、

 このお嬢様は、知っていた…

 つまり、だ…

 …矢田、オマエのことは、なんでも、お見通しだ…

 と、このお嬢様は、言っているのだ…

 …この矢田のことは、なんでも、知っているゾ…

 と、脅したわけだ…

 それに、気付いた私は、文字通り、ブルった…

 震撼した…

 だから、ホントは、この場で、土下座して、

 「…お嬢様…どうか、お許しを…」

 と、詫びるところだが、さすがに、それは、できんかった…

 今、私は、着物を着ている…

 それだけで、目立つ…

 しかも、この場所は、帝国ホテル…

 そんな場所で、土下座できるはずもなかった…

 だから、

 「…お嬢様…」

 と、声を潜めて、言った…

 「…なんだ?…」

 「…お嬢様は、すべてを、お見通しなんですね?…」

 「…すべてを、お見通し? …どういうことだ?…」

 「…隠さないで下さい…」

 私は、低いが、ドスを利かせた声で、聞いた…

 真剣に聞いた…

 いや、

 真剣に聞かざるを得なかったのだ…

 すると、だ…

 「…葉尊さんのことか?…」

 全然、予想外の言葉が出た…

 …葉尊のこと?…

 …一体、どういうことだ?…

 まさに、藪をつついて蛇を出すような事態になった…

 「…どういうことですか?…お嬢様?…」

 私は、真剣に聞いた…

 聞かずには、いられんかった…

 が、

 矢口のお嬢様は、直接は、言わんかった…

 「…葉尊さんは、悪い人じゃない…」

 と、ポツリと言った…

 「…悪い人じゃない? …葉尊は、善人じゃ、ないんですか?…」

 「…この世の中に、聖人君子はいないゾ…」

 「…聖人君子は、いない? …どういう意味ですか?…」

 「…聖人君子は、神様と同じだ…そんな人間は、この世に存在しない…」

 「…」

 「…葉尊さんも、聖人君子ではない…だが、安心しろ…」

 「…安心?…」

 「…悪人ではない…」

 「…」

 「…それに、矢田…オマエには、もう一人いるだろ?…」

 「…もう一人いる? 誰が、ですか?…」

 「…そこまで、アタシに言わせるな…」

 矢口のお嬢様が、笑った…

 …葉問のことか?…

 とっさに、気付いた…

 っていうか、このお嬢様、葉問を知っているのか?

 驚いた…

 っていうか、たぶん、この矢田のことは、すべて、調べ尽くしているんじゃないか?

 そう、気付いた…

 思えば、今回も、私は、このお嬢様に、利用された…

 いいように、利用された…

 が、前回との違いは、前回は、この矢田は、まだ葉尊と結婚していなかった…

 それが、今回との違い…

 当然、このお嬢様は、それを知っていた…

 そして、この矢田を利用するに、当たって、どういう方法を使ったか、わからんが、身辺調査をしたに違いない…

 この矢田トモコの身辺調査をしたに違いない…

 「…もう一人が、オマエを守ってくれる…」

 お嬢様が、続けた…

 「…私を守ってくれる?…」

 葉問が、か?…

 「…矢田…オマエは、幸せ者だ…」

 「…私が、幸せ者?…」

 「…そうだ…」

 「…どうして、私が、幸せ者なんですか?…」

 「…オマエは、誰からも、好かれる…決して、敵を作らない…」

 「…」

 「…そんな人間は、滅多にいない…アタシが、知っているのは、オマエぐらいのものだ…」

 「…」

 「…それに、オマエは、頼りない…」

 「…頼りない?…」

 「…だから、いいんだ…」

 「…どうして、いいんですか?…」

 どうして、頼りないのが、いいんだ?

 さっぱり、わかんかった…

 普通は、頼りがいがある方がいいだろ?

 わけが、わからんかった…

 「…誰かが、助けてくれる…オマエは、ひとに恵まれている…傍から見ても、それは、わかる…これまでも、オマエが、困ったときには、必ず誰かが、現れ、オマエを助けてくれたはずだ…」

 「…」

 「…リンダさんも、バニラさんも、なにか、あれば、オマエを必ず、守ってくれる…オマエの力になってくれる…もう一人の男と、いっしょに、な…」

 矢口のお嬢様が、断言した…

 そして、このとき、初めて、もう一人の男と言った…

 つまりは、名前こそ、出さないが、ハッキリと、葉問と言ったのと、同じだった…

 「…アタシが、出来るのは、ここまでだ、矢田…」

 「…ここまで?…」

 「…そうだ…ここまでだ…後は、すべて、オマエの力で、動け…そして、周囲の人間を、頼れ…オマエは、ひとに恵まれている…そのひとたちのために、動け…きっと、オマエが、動いた、十倍、いや、大げさに、言えば、百倍…オマエに帰って来る…報酬ではないが、帰って来る…」

 矢口のお嬢様が、真剣に言った…

 その細い目を、さらに、細めて、真剣に、言ったのだ…

 ハッキリ言って、吹き出す寸前だった(笑)…

 言っている中身は、いい…

 まともなことを、言っている…

 が、

 その言っている当人が、やはりというか、私そっくりでは、説得力がなかった…

 これが、私が佐々木希のそっくりさんで、同じように、佐々木希のそっくりさんが、言ったのなら、わかる…

 なぜなら、美人だからだ…

 が、

 平凡極まりない、私そっくりの人間から、言われても、説得力は、皆無に近かった(笑)…

 しかも、威厳もなにもなかった(爆笑)…

 そして、そんな矢口のお嬢様を、見て、今さらながら、ルックスの大事さが、わかったというか…

 自分そっくりの矢口のお嬢様を見て、痛感した…

 ルックスの重要さが、あらためて、わかった…

それが、一番の収穫だった…

 ハッキリ言って、お嬢様の言葉よりも、そっちの方が、収穫だった(笑)…

 「…アタシは、オマエが、羨ましい…」

 「…私が、羨ましい?…」

 「…そうだ…誰からも好かれ、愛される…しかも、オマエは、無意識というか…まったく、気にしない…にも、かかわらず、周囲から、愛される…」

 「…」

 「…世の中には、オマエと真逆に、誰からも好かれない人間も、大勢いる…」

 「…大勢…」

 「…そうだ…大半は、わがままで、どんなときも、自分の意思を通したい人間だが、稀に、オマエのような人間もいる…」

 「…私のような人間?…」

 「…同じわがままを言っても、愛される…その違いだ…」

 「…」

 「…まあ、オマエが善人だという前提があるのだろうが…」

 「…」

 「…いずれにしろ、羨ましい限りだ…」

 そう言うと、お嬢様は、黙った…

 後は、無言で、歩き出した…

 私は、このお嬢様の言葉を、聞いて、あらためて、考えた…

 自分の能力を、だ…

 正直、自分は、平凡…

 平凡、極まりない女だ…

 ルックスは、平凡…

 頭は、平凡…

 生まれは、平凡…

 すべてが、平凡だ…

 が、

 このお嬢様の説明では、まるで、私が、非凡のような扱いだ…

 たしかに、私は、自分で、言うのも、なんだが、誰からも好かれる…

 敵は、いない…

 が、

 それは、偶然というか…

 ただ、そんなものかと、思った…

 だが、これは、もしや、私だから…

 自分のことだから、わからないのかも、しれんかった…

 誰もが、そうだが、自分のことは、わからない…

 例えば、佐々木希のような美人に生まれて、周囲から、

 「…凄い、美人…」

 とか、

 「…凄い、カワイイ…」

 とか、言われても、本人は、それほど、実感しない…

 おそらく、そんなものかと、思っているだろう…

 変な話、非凡な才能を持って生まれても、自分のことは、わからない…

 例えば、わかりやすい話、ボクシングで、世界チャンピオンになっても、

 「…オマエも、頑張れば、なれるよ…」

 と、冗談ではなく、本気で、言うかも、しれない…

 なぜなら、自分が、できたからだ…

 なぜなら、自分が、世界チャンピオンになれたからだ…

 だから、オマエも、頑張れば、なれる…

 それを、本気で、言うかもしれない…

 自分が、才能に恵まれていても、その本人は、わからない可能性が、高い…

 自分は、できる…

 だから、オマエもできる…

 皮肉でも、なんでもなく、そんなふうに、考えていても、おかしくはない…

 他人は、できないが、自分は、できる…

 それが、才能であるということに、気付かないからだ…

 私は、この矢口のお嬢様の言葉から、そんなことを、考えた…

 考えながら、帝国ホテルの中を、このお嬢様と、並んで、歩いた…

 そして、まもなく、目的の鳳凰の間に着いた…

               
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