第36話

文字数 6,424文字

 「…リンダ…離せ…」

 私は、怒鳴った…

 「…さっさと、私を離せ…」

 大声を出した…

 だから、一体、何事かと、周囲の人間が、私たちを見ていた…

 それに、気付いたリンダは、すぐに、私を離した…

 「…スイマセン…」

 と、私に詫びた…

 私は、それよりも、リンダが、そんな恰好で、私を抱き締めたことで、パンツが見えないか、どうか、不安だった…

 ハリウッドのセックス・シンボル…

 世界中に知られた、リンダ・ヘイワースが、私を抱き締めたことで、私が、リンダの腕の中で、ジタバタした…

そのせいで、リンダのワンピースが揺れて、パンツが、見えれば、それは、やはり、リンダ・ヘイワースのイメージを損なうものだからだ…

 「…オマエ…二度とするなよ…」

 私は、リンダに言った…

 リンダは、

 「…ハイ…」

 と、頷いた…

 「…いいか、これは、私のためじゃない…オマエのためだ…」

 「…私のため?…」

 「…そうだ…こんな衆人環視の場で、オマエが私を羽交い絞めにすれば、ひとが見る…
私は、当然、もがくし、そうなれば、オマエのその短いワンピースが乱れて、パンツも見える…つまり、リンダ・ヘイワースのイメージが、台無しだ…」

 私は、言った…

 私の言葉に、リンダは、

 「…」

 と、考え込んだ…

 「…リンダ・ヘイワースは、ハリウッドのセックス・シンボル…たとえ、パンツが見えても、それは、映画の中だけ…金を払った者だけが、見ることができるんだ…それを肝に銘じておけ…」

 私は、言った…

 力強く、言った…

 実は、この言葉は、受け売りだった…

 昔、見た芸能プロダクションの社長が、言った言葉の受け売りだった…

 その芸能プロダクションに所属する人間は、当時、皆、若い女の子で、水着の姿で、大きな胸を売りにしていた…

 が、

 テレビでは、一切、水着は見せない…

 普通に服を着ていた…

 しかし、雑誌や写真集では見せる…

 つまり、彼女たちの水着姿を見るには、雑誌や写真集を買わなければ、ならない…

 そういうことだ…

 それが、その芸能プロダクションの社長の戦略だった…

 それと、同じことを言ったのだ…

 事実、リンダもまた、それを実践している…

 リンダは、普段は、ヤンという名前で、男装している…

 男の格好をしている…

 リンダの姿をするのは、仕事のときだけ…

 今回もまた、リンダ・ヘイワースとして、日本で、CMの仕事を受けるかもしれないから、リンダの格好をして、このクールの本社にやって来たのだ…

 私は、それを思った…

 そして、なにより、リンダ・ヘイワースの格好をすれば、当然、派手になる…

 だから、否が応でも、周囲の注目を浴びる…

 ゆえに、常に言動に気をつけなければ、ならなくなる…

 一挙手一投足が、周囲の注目を浴びるからだ…

 それが、誰よりも、わかっているから、リンダは、普段は、ヤンという男の格好をしているのではないか?

 私は、今さらながら、それを思った…

 考えた…

 私の言葉に、リンダもまた考え込んでいた…

 「…スイマセン…お姉さん…」

 と、しおらしく、私に謝った…

 だから、私は、ここぞとばかりに、

 「…リンダ…オマエはダメな女だ…」

 と、重々しく告げた…

 「…ハイ…」

 「…オマエはダメな女だが、今は、私が付いている…オマエの面倒を見てやろう…」

 私は、言った…

 重厚に言ったのだ…

 自分でも、名言だと思った…

 これ以上ないタイミングで、言ったのだ…

 が、

 その反応は、なかった…

 なにも、なかったのだ(怒)…

 代わりに、

 「…お姉さん…行きましょう…」

 と、リンダは、冷たく言って、目の前に、到着したエレベータの扉が、開いたので、さっさと、歩き出した…

 私は、実に、不満…

 不満だった…

 が、

 なにも、言わなかった…

 文句をたれなかった…

 それは、私が大人だからだ…

 35歳の立派な大人だからだ!…

 所詮は、リンダは、浮世離れした、有名人…

 この矢田トモコのような平凡人の感覚とは、違うのだろう…

 普通なら、

 「…お姉さん…ありがとうございます…どうか、これからも、私の面倒を見てください…」

 と、頭を下げて、私に教えを乞うところだ…

 が、

 それが、なかった…

 なかったのだ(怒)…

 やはり、元は、一般人だが、今は、成功した有名人…

 調子に乗っているのだろう…

 私は、思った…

 そう、思って、無理やり、自分を納得させた…

 
 私とリンダは、二人きりで、エレベータに乗った…

 誰も、いっしょに乗り合わせなかった…

 理由は、単純で、社長室は、最上階にある…

 このエレベータは、社長室専用ではないが、高層階用だ…

 つまりは、1階から、20階までは、あのエレベータ…

 21階から、40階までは、そのエレベータと決まっていて、それ以上が、このエレベータなのだ…

 そして、多くの会社が、そうだが、高層階ほど、常務など、お偉いさんが、いる…

 だから、そこへ行くエレベータは、あまり、利用する人間が少ないわけだ…

 それと、リンダ…

 リンダ・ヘイワース…

 リンダが、短いワンピースで、色気を全開にして、立っている…

 すると、大抵の人間が、男女を問わず、同じエレベータに乗り合わすことを、躊躇った…

 つまり、誰もが、自分とは、違うオーラを全開にして立っていれば、気後れする…

 そういうことだ(笑)…

 だから、このエレベータの中は、私とリンダだけだった…

 私とリンダは、二人だけで、エレベータに乗っていた…

 互いに無言だった…

 目も合わせなかった…

 私は、正直、リンダの態度が不満だったから、自分から、リンダに話しかけるのは、嫌だった…

 が、

 リンダが、なぜ、私に話しかけないのか、わからんかった…

 また、そんなことは、どうでもよかった…

 私は、これから、あの矢口のお嬢様と、再会することで、頭の中が、一杯だった…

 あのお嬢様は、曲者(くせもの)…

 油断ができん…

 なにを考えているか、さっぱりわからんかった…

 この世の中で、なにが、怖いかといえば、なにを考えているか、わからない人間ほど、怖いものは、ない…

 そういうことだ…

 相手が、なにを考えているか、読めれば、簡単に対策を立てることができる…

 だが、なにを考えているか、わからなければ、対策を立てようが、ない…

 そういうことだ…

 あのお嬢様は、変幻自在というか、正直、わけがわからん(笑)…

 わけのわからん女だった…

 だから、困るのだ…

 
 エレベータのドアが開いて、目的の社長室に着いた…

 この社長室を訪れるのは、前回、あのお嬢様と、6年振りに再会して、以来だ…

 6年…

 言葉にすれば、一言だが、実際に、振り返ってみれば、あっという間だった…

 誰もが、そうだろう…

 中学を卒業して、すでに、二十年経つが、たまに、当時の同級生を目にすると、

 …ああ、あれから、二十年経ったんだ…

 と、感慨深くなる…

 それと、同じだ…

 まして、29歳から、今の35歳の6年は、近い…

 短い…

 小学校の入学から卒業の6年とは、雲泥の差だ…

 子供の頃の6年は、めまいがするほど、長いが、29歳からの6年間は、一瞬だ(笑)…

 私は、思った…

 考えた…

 私とリンダが、エレベータから降りて、社長室のある最上階に立った…

 そして、社長室に向かった…

 入り口には、社長秘書がいた…

 私とリンダの姿を見ると、

 「…奥様…リンダ様…お待ちしておりました…」

 と、恭しく、頭を下げた…

 私は、

 「…ご苦労…」

 と、言って、会釈した…

 我ながら、実に、いい気分だった…

 まさか、こんな日が来るとは、思わんかった…

 夢にも、思わんかった(爆笑)…

 あの、派遣社員だった、矢田が、なぜか、日本を代表する総合電機メーカー、クールの社長夫人として、ここにいるのだ…

 正直、これは、夢…

 夢だと、思った…

 が、

 同時に、これは、夢ではないとも、思った…

 なぜなら、私は、いつものスタイルだからだ…

 いつものというのは、着古した白いTシャツに、履きなれたジーンズと、スニーカーだからだ…

 だから、夢ではないと思った…

 これが、夢ならば、私も、もっと、きらびやかな格好をしているに違いないからだ…

 きらびやかな格好?

 自分でも、その言葉に、疑問を持った…

 きらびやかな格好って、一体、なんだ?…

 私は、六頭身の幼児体型…

 どんな格好をしても、その体型は、隠せん…

 隠せんのだ!

だから、公の場では、着物を着る…

 それが、一番、私の体型をごまかすことができるからだ…

 きらびやかな格好などというものは、このリンダや、あのバニラに合っている…

 あのバカな、根性曲がりのバニラに合っている…

 私は、思った…

 美人で、長身…圧倒的な美の持ち主…

 私が、いくら着飾ろうと、所詮は、六頭身の幼児体型…

 どうあがいても、リンダやバニラに勝てるはずがない…

 私は、今さらながら、それを思った…

 そんなことを、考えながら、ふと隣のリンダを見た…

 リンダ・ヘイワースを見た…

 相変わらず、美しい…

 美しいの一言だ…

 圧倒的な美の持ち主…

 それが、この矢田トモコと、二人で、並んで、社長室の廊下を歩く…

 実に、不思議な気分だった…

 実に、似合わない(苦笑)…

 完全な凸凹コンビだった…

 やはり、このリンダと、合うのは、女なら、あのバニラ…

 バニラ・ルインスキー…

 そして、男なら、葉尊…

 私の夫の葉尊だ…

 葉尊は、長身のイケメン…

 実に、合っている…

 このリンダと似合っている…

 私は、今さらながら、思った…

 リンダと葉尊は、幼馴染(おさななじみ)…

 学校で、出会って、すぐに、肝胆相照らす仲になったと言っていた…

 要するに、気が合ったのだ…

 葉尊は、幼いときに、自分の不注意で、双子の弟の葉問を、事故で、亡くした…

 そのトラウマで、自分の中で、無意識に葉問を作り出した…

 言うなれば、蘇らせたのだ…

 事故で、無くした、弟の葉問を、再生したのだ…

 生き返らせたのだ…

 一方、このリンダといえば、実は、性同一障害…

 つまり、カラダは女だが、心は、男というやつだ…

 だから、学生時代もヤンという名前で、男の姿をしていた…

 が、

 それを、葉尊は、すぐに見抜き、お互いが、好きになった…

 つまり、互いに、相手の持つ悩みを共有できたということだ…

 私は、それは、わかったが、本当に、そうか?

 とも、思った…

 リンダと葉尊の関係は、話ではわかる…

 理解できる…

 が、

 そこに、男女の愛情はあるか否かというと、怪しい…

 実に、怪しい…

 極論すれば、男女の間に友情は、成立するかという話になる…

 これは、難しい…

 実に、難しい(笑)…

 私のような平凡な女ならいい…

 私にも、男の友人は、いるし、その男たちとは、別段、男女の関係でも、なんでもない…

 しかし、リンダのような美人なら、話は別だ…

 葉尊のようなイケメンなら、話は、別だ…

 しかも、二人とも、世界的な有名人と、台湾の大金持ちの御曹司…

 ただの美男美女の関係ではない…

 そんな美男美女が、本当に、二人の関係は、友情だけで、愛情は、ないと言っても、信じていいのか、わからない…

 葉尊とリンダの間に男女の関係が、あっても、おかしくはない…

 いや、

 ないほうが、おかしい!

 ないほうが、おかしいのだ!

 私は、思った…

 もしかしたら、

 ふと、思った…

 葉尊は、私を妻にしたまま、リンダを愛人にして、手元に置きたいのかもしれない…

 そう気付いた…

 葉尊が、なんで、私を選んだのか、今もって、不思議だが、とりあえずリンダのような美女を手に入れているから、はっきり言って、妻が、どんな女でも、構わないのかもしれない…

 リンダ・ヘイワースよりも、美しい女は、世界中探しても、滅多にいない…

 皆無というわけではないが、滅多にお目にかかれるものではないからだ…

 だから、とりあえず、美人は手に入れたから、それ以外の女を選んだのかもしれない…

 誰でも、そうだが、フェラーリを手に入れたから、もう一台、フェラーリを手に入れるよりも、日常に使う足として、使う、別のタイプのクルマを手に入れたい…

 たとえば、軽自動車など、最適だ…

 小さいから、小回りは、利くし、なにより、日本の道路事情に合っている…

 だから、それと同じで、すでに、リンダ・ヘイワースという絶世の美女を手に入れたから、普段の女は、私でいいと思ったのかもしれん…

 平凡な矢田トモコで、いいと、思ったのかもしれん…

 それに、台湾の大富豪の御曹司が、私のような平凡な女と結婚することで、庶民をアピールできる…

 あんな、もの凄いお金持ちなのに、あんな、どこにでもいる平凡な奥さんをもらってという話だ…

 所詮は、自己アピール…

 私と結婚したことは、単なる宣伝に過ぎないのかもしれん…

 私は、思った…

 今さらながら、考えた…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…なにを、考えているの?…」

 と、リンダが聞いた…

 まさか、

「…リンダ…オマエと葉尊のことさ…」

とは、言えんから、

「…」

と、黙った…

とっさに、なんと答えていいのか、わからなかったからだ…

そんな私の返答にリンダが笑った…

だから、

「…なにが、おかしい?…」

と、尋ねた…

「…だって、お姉さん…いつもなら、知らんさ…私はなにも知らんのさ…とでも、言って、ごまかすのに…」

 たしかに、言われてみれば、その通りだが、今回は、そんな気力はなかった…

 悩みが、深すぎた…

 ヘビー過ぎたのだ…

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…どんな悩みも、生きていれば、消えるものよ…」

 「…なんだと?…」

 「…いえ、生きていれば、悩みは尽きない…今のお姉さんの悩みは、なくなっても、すぐに、次の悩みがやって来る…だから、今のお姉さんの悩みは、じきに消えるということ…」

 …うまいことを言う…

 私は、思った…

 たしかに、リンダの言う通りだ…

 どんな人間も悩みはあるし、その悩みは尽きない…

 そして、今、悩んでいる悩みは、解決しても、しなくても、じきに消える…

 そして、あらたに別の悩みが、生じるものだ…

 私は、思った…

 「…だから、そんなことで、ウジウジ悩んでも仕方がない…時間の無駄…悩むなら、これから、会う矢口のお嬢様のことを、考えて…」

 リンダが言った…

 私は、驚いた…

 まるで、私が、リンダのことを考えていることを、見抜いたようだったからだ…

 「…リンダ…オマエ、私がなにを考えているか、わかるのか?…」

 「…お姉さんが今、考えているのは、私のことでしょ?…」

 「…どうして、わかる?…」

 「…さっきまで、私を見ていたのに、今は、むっつりと、黙り込んで、私を見もしない…だから、わかったの?…」

 「…」

 「…どうせ、お姉さんのことだから、この格好を目にして、私と葉尊の仲でも、疑ってたんじゃないの?…」

 …まさに、その通り…

 …その通りだった…

 「…どんなことでも、疑えば、きりがない…」

 リンダが、笑った…

 そして、

 「…だから、この格好は嫌なの…リンダ・ヘイワースは、嫌なの?…」

 と、笑った…

 「…どういう意味だ?…」

 「…だって、この格好で、男の傍に寄れば、その男の妻や恋人は、私に、夫や恋人が取られるかもと、いつも不安になる…そして、私を敵視する…それが、困るの…」

 私は、リンダの言葉に、唖然とした…

 たしかに、リンダの言葉は、わかる…

 わかるのだ…

 私でさえ、リンダと葉尊の仲を疑った…
 
 普段、リンダと仲がいい、私ですら、葉尊がリンダに取られるのでは? と、疑った…

 ならば、他人なら、もっと、疑るだろう…

 なぜなら、このリンダに匹敵する美人は、滅多にお目にかかれないからだ…

 「…だから、リンダ・ヘイワースになるのは、嫌なの…」

 リンダが言った…

 至極、当たり前のことだった…

                
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