第32話

文字数 5,631文字

 私は、矢口のお嬢様との電話を終えると、すぐに、リンダに電話した…

 即断即決…

 それが、私だ…

 モタモタとしていることは、性に合わない…

 だから、なにも、考えることなく、リンダに、電話した…

 まあ、リンダのことだ…

 私からの頼みを断ることなど、ないだろう…

 私は、単純に考えた…

 これで、あの矢口のお嬢様に、恩を売れる…

 私は、そう考えながら、電話が、繋がるのを、待った…

 まもなく、電話が繋がった…

 「…リンダか? …私だ…矢田だ…矢田トモコだ…」

 勢い込んで、言った…

 が、

 返って来たのは、

 「…この電話は、ただいま、電波が届かない場所にあるか、電源を切られています…」

 という、メッセージだった…

 私は、呆然とした…

 肩透かしを食った気分だった…

 こんなにも、私が、勢い込んで、リンダに頼もうとしているのにもかかわらず、肝心のリンダが、電話に出んとは?

 思わず、私は天を仰いだ…

 天=天井を仰いだ…

 天は我を見放したか?

 昔、見た八甲田山の映画の有名なセリフを口走った…

 が、

 こんなことに、負ける矢田トモコではない…

 こんなことで、挫ける矢田トモコではない…

 リンダが、ダメなら、もう一人いる…

 私は、すぐさま、そのもう一人に電話をかけた…

 電話は、すぐに繋がった…

 「…ハロー?…」

 生意気にも、英語で、返って来た…

 次に、

 「…どなた?…」

 と、聞いてきた…

 だから、

 「…私だ…矢田だ…矢田トモコだ…」

 と、名乗った…

 すると、なぜか、

 「…なに、お姉さん…こんな時間に?…」

 と、不機嫌そうな声が聞こえてきた…

 「…バカ…バニラ…用事がなければ、オマエなんかに、電話をかけるか?…」

 と、言った…

 すると、バニラが、激怒した…

 「…ちょっと、お姉さん…夜の十時に、いきなり、電話をかけてきて、その言い草はなに?…私にケンカを売っているの?…」

 もっともな言い分だった…

 今は、夜の十時だった…

 考えてみれば、あの矢口のお嬢様は、どうして、こんな真夜中に、電話をかけてきたのだろ?

 今さらながら、思った…

 「…いや…」

 思わず、私も、バニラの剣幕に尻込みしたというか…

 ふと、気付くと、いつのまにか、

 「…す、すまんかった…」

 と、バニラに謝っていた…

 そして、心の中で、あのお嬢様を呪った…

 矢口のお嬢様を呪ったのだ…

 「…一体、なんのよう?…」

 バニラが聞いた…

 だから、私は、ここぞとばかりに、

 「…リンダのことさ…」

 と、言った…

 「…リンダ…ちょっと、お姉さん…どうして、リンダのことを、私に聞くの? …私は、バニラよ…」

 「…そんなことは、わかっているさ…でも、今、電話したら、リンダが、電話に出んのさ…」

 「…ちょっと、だから、私に電話をしたわけ?…」

 「…そうさ…」

 私は、答えた…

 すると、なぜか、

 「…」

 と、沈黙があった…

 全然、声が聞こえて来んかった…

 だから、

 「…どうした? バニラ? …聞こえてるか?…」

 と、私は、聞いてやった…

 すると、

 「…この…バカ…おチビ! なんで、そんなことを、私に聞いてくるの? …私は、リンダのマネージャーでも、なんでもないのよ…」

 と、電話の向こう側から、怒鳴ってきた…

 思わず、私の耳の鼓膜が破れるかと、思うほどの大声だった…

 言われてみれば、当たり前のことだった…

 当たり前のバニラの怒りだった…

 私は、バニラの機嫌を取るべく、

 「…いや、オマエなら、リンダと仲がいいから、なにか、知ってると思ってな…」

 と、下手に出た…

 小声で、下手に出たのだ…

 が、

 バニラの怒りは収まらなかった…

 「…私は、リンダのマネージャーじゃない!…」

 と、激怒した…

 すでに、取り付く島もなかった…

 「…とにかく、こんな時間にかけて来ないで…隣で、娘のマリアも寝ているの?…」

 「…マリアが?…」

 私は、思わず、絶句した…

 あのマリアが、バニラの横で、寝ていたとは?

 す…すまんかった…

 と、思った…

 まだ、3歳のバニラが寝ているのに、夜中に電話をかけて、すまんかったと、思った…

 私は、

 「…すまんかった…」

 と、言って、電話を切ろうとしたところ、

 「…あ、矢田ちゃん…」

 と、突如、電話の向こうから、マリアの声がした…

 「…そうさ…私さ…」

 と、私は、答えた…

 すると、

 「…あっ…矢田ちゃんだ…矢田ちゃんだ…」

 と、嬉しそうなマリアの声が聞こえてきた…

 「…ママ、矢田ちゃんだ…」

 と、バニラに言う声が聞こえてきた…

 「…そうね…」

 バニラの声が、それまでとは、打って変わって、穏やかになった…

 優しくなった…

 これは、ラッキー…

 実に、ラッキーだった…

 私は、思った…

 マリアは、私が好き…

 これで、バニラの態度が変わるからだ…

 「…矢田ちゃん…遊ぼ…遊ぼ…」

 電話の向こう側から、マリアが言ってきた…

 が、

 いくらなんでも、電話の向こう側のマリアと遊ぶのは、無理だった…

 できんかった…

 …一体、どうすれば?…

 悩んでいると、

 「…お姉さん…」

 というバニラの声が聞こえてきた…

 「…なんだ?…」
 
 「…さっきのリンダの件ですが…」

 と、切り出した…

 「…なにか、知っているのか?…」

 「…ハイ…リンダは、ただ、スマホの電源を切っているだけだと、思います…」

 「…なんだと?…一体、どうして、そんな真似を?…」

 「…プロだからです…」

 「…プロ?…」

 「…リンダも29歳…肌の衰えを防ぐため、いつも、しっかりと、睡眠を取ります…そのために、スマホの電源を切っているのだと、思います…」

 「…そうか…」

 私は、言った…

 そう言われれば、わからんでもない…

 リンダも、29歳…

 失礼ながら、もう、若くはない…

 だから、プロとして、しっかりと、睡眠をとって、肌のコンディションを整えてるのだろう…

 そう言われれば、わかる…

 そう説明されれば、わかるのだ…

 「…プロだな…」

 私は、感嘆して、言った…

 「…ハイ…」

 バニラが、さっきまで、激怒していたときとは、一転して、殊勝に、答えた…

 私は、それまでのバニラの態度と、あまりにも、違い過ぎるので、驚いた…

 それもこれも、マリアがいるからだ…

 マリアが、私を好きだからだ…

 だから、マリアのためにも、私と、仲たがいすることは、できない…

 バニラにとって、マリアは、あまりにも、大きな存在だと今さらながら、気付いた…

 マリアという娘の大きさに、気付いた…

 「…矢田ちゃん…遊ぼ…」

 またしても、電話の向こうから、マリアの声が聞こえてきた…

 私は、どうすれば、いいか、わからんかった…

 すると、電話の向こう側で、

 「…矢田ちゃんは、もう遅いから、今夜は寝るそうよ…マリアも寝なさい…」

 と、優しく言う声が聞こえた…

 「…うん…矢田ちゃんが寝るなら、マリアも寝る…矢田ちゃん…おやすみ…」

 「…おやすみ…マリア…」

 私は、返した…

 どうしても、子供相手だと、この矢田トモコも優しくなる…

 無防備になる…

 愛想が良くなる…

 そういうことだ(笑)…

 「…お姉さん…それでは、これで失礼します…」

 バニラが、礼儀正しく、言った…

 だから、私も、礼儀正しく、

 「…バニラ…こんな時間に、突然、電話をかけて、すまんかった…」

 と、詫びた…

 ホントは、こんな時間にかけて、礼儀もなにもあったもんじゃ、なかったが、それは、言わんかった…

 言えば、私に不利になる…

 この矢田トモコに不利になるからだ(笑)…

 「…それでは、失礼します…」

 バニラが丁重に言って、電話が切れた…

 そして、その夜は、それで、終わった…

 
 翌朝になって、私は、早速、リンダに電話をかけた…

 実は、私は、せっかち…

 せっかちな性分だった…

 だから、翌朝、夫の葉尊を会社に送り出すと、すぐに、リンダに電話をかけた…

 一刻も早く、リンダに連絡したかったのだ…

 すぐに、リンダは、電話に出た…

 「…ハイ…」

 「…リンダか?…」

 「…ハイ…そうです…」

 「…私だ…矢田だ…矢田トモコだ…」

 私は勢い込んで言った…

 一刻も早く、リンダに言わないと、まるで、リンダが、どこかに逃げ出すような気がしたのだ…

 「…お…お姉さん?…」

 リンダが、驚いた…

 「…どうしたの? こんな朝早くから…」

 「…どうしたも、こうしたも、ないさ…実は、リンダ…オマエに、頼みがあってな…」

 「…頼み? …どんな?…」

 「…仕事の話さ…ビジネスの話さ…」

 「…ビジネスの話…どうして、お姉さんとビジネスの話を?…」

 リンダが、当たり前のことを、言った…

 だから、

 「…実は、昨夜、矢口のお嬢様から、電話があったのさ…」

 「…矢口のお嬢様? …それ、誰?…」

 「…誰と言われても…日本の激安スーパー、スーパージャパンの社長令嬢さ…」

 「…スーパージャパン? 知らないわ…」

 「…し、知らない?…」

 私は、思わず、絶句した…

 まさか…

 まさか、このリンダが、あのスーパージャパンを知らないとは?

 日本で、有名なスーパージャパンを知らないとは、思わんかった…

 だから、思わず、

 「…あのスーパージャパンだゾ…」

 と、繰り返した…

 が、

 リンダは、

 「…あの、も、この、もないわ…知らないものは、知らない…」

 と、キッパリ、断言した…

 私は、唖然とした…

 そして、同時に、考えた…

 自分自身の間違いに、気付いたのだ…

 あの、矢口のお嬢様が、言うように、自分自身、調子に乗っていたことに、気付いたのだ…

 なぜなら、当たり前だが、このリンダは、ハリウッドのセックス・シンボル…

 日本の事情に疎い…

 それが、たまたま、今、日本にいるだけ…

 ハッキリ言えば、リンダの背後にいるというか…

 リンダが、私の夫、葉尊の実父、葉敬に世話になっているから、その縁で、葉尊のいる、日本にいるだけだ…

 だから、日本の事情に詳しいわけはない…

 なにより、リンダは…リンダ・ヘイワースは、ハリウッドのセックス・シンボルと呼ばれるほどの社会の成功者…

 その成功者が、日本の激安スーパーを知らなくても、おかしくともなんともない…

 当たり前のことだ…

 つまりは、この矢田が悪いのだ…

 夫の葉尊と知り合って以来、縁あって、このリンダやバニラと親しくなった…

 が、

 本当は、このリンダとバニラは、私とは、別世界の人間だった…

 異世界の人間だった…

 リンダとバニラは、世界中に知られた有名人…

 稀に見る成功をした、お金持ちだ…

 ハッキリ言えば、この矢田トモコと、リンダとバニラとでは、通う店も違うし、食べる物も違う…

 おおげさに言えば、この矢田トモコと、皇族をいっしょに、論じるようなもの…

 いかに、仲が良くても、生まれも育ちも違うから、話が通じない部分も、いっぱいあるのだ…

 それを、これまで、すっかり忘れていた(涙)…

 おそらくは、リンダもバニラも、とうに、その事実に気付いていただろうが、私に遠慮して、言わなかったに違いない…

 私に気を使って、言わなかったに違いない…

 私は、その事実に気付いた…

 気付いたのだ…

 「…どうしたの? …お姉さん?…」

 私が、電話口で、黙っているのを、不審に思った、リンダが、聞いてきた…

 私は、いつものように、

 「…なんでもない…なんでもないさ…」

 と、言おうとしたが、やはりというか…

 そんな気力もなかった…

 今さらながら、自分の置かれた状況に気付いた…

 生まれの違いに気付いたのだ…

 だから、つい、

 「…すまんかった…」

 と、詫びた…

 気のせいか、精も根も尽き果てた気分だった…

 世界が、一気に灰色になった気分だった…

 まだ、朝の八時なのに、今日は、すでに、終わったような気分だった…

 「…どうして、お姉さんが、詫びるの?…」

 電話の向こうで、リンダが不思議そうに聞いた…

 だから、私は、一瞬、ホントのことを、言おうかどうか、迷ったが、

 「…リンダ…いや、リンダだけじゃない、バニラもだが、私とオマエたちとの置かれた環境の違いに気付いたのさ…」

 と、力なく言った…

 「…環境の違い? …なに、それ?…」

 「…オマエたちは、成功者だ…私のような庶民とは、違う…それを、これまで、忘れて
いたのさ…」

 「…どうして、お姉さん…いきなり、そんなことを…」

 「…オマエが今、スーパージャパンを知らなかったからさ…」

 「…スーパージャパンを知らなかったから?…」

 「…私なんか、子供の頃から、馴染みの店さ…私は、庶民さ…オマエたちとは、違う…それを思い知ったのさ…」

 私は、力なく、言った…

 「…今まで、私に付き合ってくれて、礼を言うゾ…」

 私が、言うと、

 「…ちょっと、お姉さん…どうしたの? …どうして、そんなに落ち込むの?…」

 と、私を心配した…

 「…まさか…お姉さん?…」

 「…まさか…なんだ?…」

 「…お姉さん…死ぬつもりじゃ…」

 「…な、なんだと、死ぬ? …どうして、私が、死ななきゃ、ならんのだ!…」

 いきなり、私の闘志に火が点いた…

 いや、

 闘志というのは、正確な表現では、ないかもしれん…

 ただ、

 「…死ぬ…」

 と、言われたのが、気に入らんかったのだ…

 「…なんで、私が死ななきゃ、ならんのだ!…」

 私は、怒った…

 すると、電話の向こう側から、

 「…良かった…安心した…」

 という、リンダの声が漏れてきた…

 「…安心しただと?…」

 私が、怒ると、

 「…それこそ、いつものお姉さん…」

 と、リンダが、嬉しがった…

 私が怒ると、なぜか、リンダが、喜んだ…
 
 私は、リンダが、どうして、喜ぶのか、さっぱりわからんかったが、少なくとも、リンダが、機嫌を損ねていないことだけは、わかった…

 だから、もしかしたら、あの矢口のお嬢様と約束した、CMの件も、うまくいくかもしれないと、考えた…

打算した(笑)…

                
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