第171話

文字数 4,780文字

 …いよいよだ…

 私の胸が、高鳴った…

 私の大きな胸が高鳴った…

 すると、だ…

 思いがけなくも、苦しくなった…

 私の大きな胸が、きつく着物に、縛られていたからだ…

 まるで、息をするのも、苦しくなった…

 隣の矢口のお嬢様は、すぐに、私の異変に気付いた…

 「…どうした? …矢田?…」

 「…い、息が、苦しい…」

 私は、言った…

 「…着物を着ているからだ…」

 お嬢様が、喝破した…

 「…なにより、オマエは、胸が大きい…だから、余計に、胸が、締め付けられて、苦しいんだろう…」

 お嬢様が、説明する…

 たしかに、その通りだった…

 この矢口のお嬢様の言う通りだった…

 「…まったく、人騒がせのヤツだ…」

 矢口のお嬢様が、呆れたように、言う…

 「…この扉の向こうで、みんな、オマエを待っているゾ…」

 「…私を待っている?…」

 「…そうだ…」

 このお嬢様に言われて、私も、気を取り直した…

 たしかに、気分は、悪い…

 お世辞にも、良くない…

 が、

 これは、やはりというか…

 この鳳凰の間という、大きな扉の前に、いるからだと、気付いた…

 これから、離婚式が、行われる…

 この矢田と、葉尊の離婚式が、行われる…

 普通に考えても、なにか、大きな式が、行われれば、緊張するところだが、それが、この帝国ホテルとなると、緊張の度合いが、マックスというか…

 この平凡な矢田トモコが、耐えられるプレッシャーを、遥かに、超えていた…

 だから、冷静に考えれば、それこそが、この気分が、悪くなった真の原因だと、気付いた…

 そして、それに、気付くと、少しばかり、気分が、良くなった…

 なにしろ、この扉を、開ければ、離婚式…

 ハッキリ言って、この矢田になにも、落ち度が、ないのに、離婚とは、普通ならば、頭に来るところだが、それも、仕方ないかも、しれんかった…

 なぜなら、この平凡な矢田トモコと、台湾の大富豪の、息子が、結婚したのだ…

 この結婚が、間違っていると、今さらながら、気付いたのだろう…

 そう考えると、納得した…

 怒る気にも、なれんかった…

 「…大丈夫か? …矢田…」

 傍らのお嬢様が、心配そうに、聞いた…

 「…大丈夫です…」

 私は、短く答えた…

 「…ちょっと、この晴れ舞台に、緊張しただけです…」

 「…そうか…」

 お嬢様が、言った…

 「…だったら、この後、扉を開けるゾ…」

 「…わかりました…」

 そう言って、お嬢様は、大きな扉を開けた…

 そして、二人して、部屋の中に入った…

 鳳凰の間に入った…

 私は、一瞬、

 「…オオッー」

 とか、

 「…ワアー」

 とか、

 声が、聞こえると思った…

 が、

 そんなことは、まったくなかった…

 中は、いわゆる、立食パーティーで、大勢の人間がいただけだった…

 ちょうど、テレビや映画で、見るパーティーと同じだった…

 当たり前だが、中にいる人間は、誰も、私や、矢口のお嬢様に、気付かなかった…

 というより、皆、おしゃべりに、夢中だった…

 私は、急いで、葉尊を探した…

 私の夫の葉尊を探した…

 が、

 見つからんかった…

 私は、どうしていいか、わからんかった…

 慌てて、

 「…お嬢様…」

 と、矢口のお嬢様を振り返ったが、いなかった…

 私は、ビックリした…

 つい、今の今まで、私の隣に、いたはずなのに…

 だから、急いで、探した…

 が、

 見つからんかった…

 なにしろ、ひとが、大勢過ぎる…

 これでは、私のように、着物でも、来ていれば、目立つから、別だが、普段着のお嬢様が、すぐに、見つかるはずも、なかった…

 私は、一人ぼっちだった…

 まさか、こんな大きな会場で、一人ぼっちになるとは、思わんかった…

 正直、寂しかった…

 どうして、いいか、わからんかった…

 とりあえず、私は、この会場の、一番、前に行こうと思った…

 なにしろ、今日のこのパーティーのメインは、私…

 私と葉尊だ…

 このパーティーは、私と葉尊の離婚式だと、思うからだ…

 そう考えて、一人で、歩き出した…

 すると、だ…

 一斉に大きな歓声が、沸いた…

 周囲が、どよめいた…

 この会場=鳳凰の間の扉が、開いて、二人の美神が、入って来たからだ…

 リンダと、バニラだった…

 リンダは、真紅のロングドレス…

 バニラは、ブルーのロングドレスだった…

 二人とも、周囲を圧倒していた…

 まさに、美神…

 美の女神の登場だった…

 二人の登場で、この会場の空気が、一気に華やかになった…

 私は、二人とは、遠く離れていたが、二人の登場は、すぐに、わかった…

 なぜなら、二人が、長身だからだった…

 目に見えて、長身…

 ヒールを履けば、二人とも、190㎝超の長身だ…

 リンダは、175㎝…

 バニラは、180㎝…

 それが、ヒールを履くから、ひと際目立つ…

 それに、なにより、二人は、美人だった…

 金髪碧眼の美人だった…

 だから、会場にいる、全員の目が、二人に、注がれた…

 その会場にいる全員には、当然ながら、この矢田トモコも、含まれていた…

 含まれていたのだ…

 そして、二人が、今いる位置は、この矢田トモコの位置とは、遠い…

 すごく離れていた…

 そして、あの二人と、この私が離れた距離こそが、私との差というか…

 距離感だと思った…

 この平凡な矢田トモコとの距離感だと思った…

 この矢田トモコが、せっかく着物に着替えて、この会場に、やって来ても、誰も、見向きもしない…

 本来は、今日の主役は、私のはずだ…

 この矢田トモコのはずだ…

 私と葉尊の離婚式だから、おそらく、これが、この矢田トモコの人生最後の晴れ舞台だった…

 今後、誰と再婚しようと、今回のように、帝国ホテルで、大勢のひとを集めて、盛大に祝うなどとは、どうしても、思えないからだ…

 にも、かかわらず、誰も、私に気付かない…

 私が、平凡なルックスだからだ…

 本当は、今日のパーティーの主役は、私…

 この矢田トモコのはずだ…

 にも、かかわらず、私は、圏外というか…

 相手にされてなかった(涙)…

 そして、それこそが、私の立ち位置というか…

 この矢田トモコの本来の立ち位置だと、気付いた…

 あの華やかな、リンダや、バニラとは、本来、別の世界というか…

 この矢田トモコとは、別世界の人間だった…

 二人とも、大げさでなく、眩しい…

 眩しいほど、美しかった…

 大げさではなく、美しかった…

 同じ女の私でも、惚れ惚れした…

 魅入った…

 それほどの差だった…

 それを思うと、私は、恥ずかしかった…

 まるで、これまで、リンダとバニラと、私が、同じだと、思っていた…

 同じ人間だと、思っていた…

 それが、恥ずかしかった…

 あまりにも、違い過ぎる…

 私は、彼女たちを見て、この場から、去りたかった…

 消え去りたかった…

 自分は、ここにいる人間ではないと、あらためて、気付いたのだ…

 本当は、この会場から逃げ出すことは、ありえないが、できれば、この会場から、逃げ去りたかった…

 一刻も早く、逃げ去りたかった…

 だから、ホントは、こんなことは、しては、いけないと、思いつつも、つい、足が、部屋の扉の方に、向いた…

 つい、無意識に、この会場から、逃げ出したくなったからだ…

 と、

 そのときだった…

 誰かが、いきなり、私の手を掴んだ…

 私は、その手に、引っ張られた…

 …な、なんだ?…

 …一体、なんだ?…

 …一体、誰だ?…

 私は、パニクりながらも、私の手を掴んだ相手の顔を見た…

 葉尊だった…

 私の夫の葉尊だった…

 いや、

 違う…

 葉尊そっくりだが、違う…

 葉尊ではない…

 私の夫、葉尊ではない…

 葉問だった…

 夫の一卵性双生児の弟の葉問だった…

 黒のタキシードを着た、葉問だった…

 「…オマエは、葉問…」

 私は、言った…

 思わず、叫んだ…

 「…一体、どうして?…」

 私は、言った…

 すると、だ…

 「…今日は、お姉さんの晴れの舞台…これを、見逃すことは、できません…」

 「…私の晴れの舞台? 離婚式が、か?…」

 が、

 葉問は、これには、答えんかった…

 おそらく、私に気を遣ったのだろう…

 そう思った…

 これが、最後で、この葉問とも、今後、二度と会うことは、あるまい…

 だから、

 「…これまで、色々すまんかったさ…」

 と、葉問に礼を言った…

 「…葉問…これまで、オマエにも、世話になったさ…」

 と、再び葉問に礼を言った…

 私としては、珍しいことだった…

 この矢田トモコ、35歳…

 実は、あまり、ひとは、褒めんかった…

 別に、私が、性格が悪いわけではない…

 が、

 褒めんかった…

 だが、この葉問だけは、褒めた…

 自分でも、意外だった…

 どうしてだか、わからんかった…

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…みんなが、お姉さんを待ちかねてます…」

 「…みんな?…」

 「…そうです…」

 …そうか…

 …みんな、早く離婚式が、始まらないかと、内心、思っているんだ…

 …すまんかったさ…

 私が、ここで、逃げ出せば、離婚式の開催が、遅れる…

 すると、この会場に、集まった人間に、迷惑をかける…

 それは、できんと、思った…

 そんなことを、すれば、葉尊の顔に、泥を塗ることになる…

 葉尊の父、葉敬の顔にも、泥を塗ることになる…

そんなことは、できん…

 思えば、葉敬こそ、この矢田トモコの恩人だった…

 この平凡な矢田トモコと、息子の葉尊の結婚を許してくれた恩人だった…

 普通なら、絶対、許さない…

 なにしろ、台湾の大富豪の御曹司と、日本の平凡な家庭の娘…

 しかも、私は、美人でも、なんでもない…

 ルックスも平凡…

 頭も平凡…

 家柄も、平凡…

 そんな、すべてが、平凡なのが、私…

 矢田トモコだった…

 おまけに、葉尊よりも、6歳年上だった…

 そんな平凡な矢田トモコと結婚を許してくれたのが、葉敬…

 だから、考えて見れば、一番の恩人だった…

 私と葉尊の結婚の、一番の恩人だった…

 私は、そんなことを、考えながら、葉問に、引っ張られる形で、会場の一番前に言った…

 すると、だ…

 当然のことながら、恩人の葉敬の姿が、見えた…

 当たり前だった…

 葉尊と私の離婚式だ…

 葉尊の父の葉敬がいて、当たり前だった…

 私が、葉問に連れられて、葉敬の前に出た…

 すると、

 「…おめでとうございます…お姉さん…」

 と、葉問と同じく、黒のタキシード姿の葉敬が、開口一番告げた…

 葉敬は、ニコニコと、すごく嬉しそうだった…

 私には、なにが、なんだか、わからなかった…

 私と葉尊の離婚式が、そんなに嬉しいのかと、思った…

 葉敬は、これまで、私の味方だと、思っていたが、やはり、違うのかと、思った…

 やはり、息子の葉尊が、大事なのかと、思った…

 が、

 考えてみれば、当たり前だった…

 私が、いかに、葉敬に気に入られようと、血が繋がった自分の息子の方が、大事に、違いなかった…

 私は、あらためて、そんな簡単なことに、気付いた…

 そんな私の内心の思いが、私の表情に、出たのだろう…

 「…お姉さん…なにか、不満でも…」

 と、葉敬が、遠慮がちに聞いた…

 私は、

 「…」

 と、答えんかった…

 どう、答えていいのか、わからんかったからだ…

 離婚式は、不満だが、かといって、これまで、夢を見せて、もらった恩がある…

 台湾の大富豪の息子と半年間だけだが、結婚できた夢を見させて、もらった恩があった…

 だから、不満は、なかった…

 すると、だ…

 葉敬が、

 「…スイマセン…お姉さん…」

 と、詫びた…

 「…お姉さんは、控えめだから、こんなパーティーは、気に入らないかもしれません…だから、これは、私の我がままです…」

 「…我がまま?…」

 「…ハイ…どうしても、お姉さんと葉尊の結婚の半年を記念して、パーティーを開きたかったのです…」

 葉敬が、言った…

 仰天の言葉だった…

               

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