第124話

文字数 5,174文字

 この矢田トモコ、35歳…

 実は、人情に厚い女だった…

 受けた恩は、忘れん女だった…

 リンダは、私の友人だ…

 その友人が、下手を打って、性同一性障害だと、告白する…

 その結果、リンダのファンが、まるで、クモの子を散らすように、消滅したら、可哀そうだと、思ったのだ…

 そんなことを、考えていると、いつのまにか、葉敬が、頭を上げていた…

 当たり前のことだ…

 いつまでも、頭を下げていることは、ありえない…

 「…さあ、お姉さん…なにか、食べましょう…」

 葉敬が、明るく言った…

 「…つい、おしゃべりに、夢中になって、しまいました…」

 葉敬が、照れ臭そうに、言う…

 そして、チャイムを押して、店の店員を呼んだ…

 店員は、すぐに、やって来た…

 葉敬は、メニュー表を見て、すぐに、アレコレ、注文した…

 私と、同じだった…

 二人とも、即断即決…

 メニューを開くや、すぐに、オーダーを決めた…

 実に、素早い(笑)…

 私は、自分で言うのも、おかしいが、グズグズするのは、嫌だった…

 とりわけ、メニューを見ても、ちっとも、決められん人間は、嫌だった…

 男も女も、そんな人間は、大嫌いだった…

 我慢できんかった…

 だから、過去に、そんな男と、一度だけ、デートして、逃げ出した経験がある…

 この矢田トモコが、高校時代のときの、ことだ…

 アレは、黒歴史…

 この矢田トモコに、とっての黒歴史だった…

 あっては、ならん黒歴史だった…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…お姉さんは、実に、メニューを決めるのが、素早い…」

 と、葉敬が、驚嘆の声を上げた…

 だから、私は、

 「…グズグズするのは、嫌いなんです…」

 と、つい、言ってしまった…

 言ってしまってから、我ながら、

 …マズい…

 と、思った…

 が、

 口にしてしまったものは、仕方がなかった…

 綸言汗の如しと言うヤツだ(笑)…

 が、

 私の言葉に、葉敬は、頷いた…

 「…同じです…私もお姉さんと、同じです…」

 と、嬉しそうに、私の言葉に、同意した…

 「…時は、金なりというわけでは、ありませんが、私は、事業を通じて、常に、判断を、求められます…そのときに、それは、明日とか、明後日とか、言ってられません…そう言えば、後日、仕事が溜まるだけだからです…だから、その場で、決められるものは、すぐに、決めます…即断即決…それが、メニュー選びにも、つい出てしまう…」

 葉敬が、照れ臭そうに、言う…

 そして、そう言ってから、

 「…でも、せめて、食事のメニューぐらいは、ホントは、もっと、ゆっくりと、決めたいのが、本音です…」

 と、付け加えた…

 私は、どう言っていいか、わからなかったので、

 「…そうですか…」

 と、だけ、言った…

 いわゆる、相槌を打ったのだ…

 が、

 私が、そんな、適当な相槌を打っただけでも、この葉敬は、楽しそうだった…

 まるで、私を、目の中に入れても、痛くないほど、溺愛している…

 そんな感じだった…

 一体、なぜなのか?

 一体、どうしてなのか、さっぱり、わからんかった…

 私は、別に、美人ではない…

 平凡だ…

 平凡、極まりない女だ…

 が、

 この葉敬は、明らかに、私が、好きだった…

 それは、私にも、わかった…

 これは、誰でも、同じだろう…

 自分を好きか、嫌いかは、接していれば、わかるものだ…

 そして、自分を好きな人間を、誰もが、基本的に、嫌いになることは、ありえない…

 それは、例えば、下心があれば、話は、別だ…

 相手のお金が、目当てだったり、カラダが、目当てだったり、下心が、あれば、別だ(笑)…

 が、

 この葉敬には、下心がない…

 それは、明らかだった…

 だから、私は、安心した…

 安心して、葉敬と、過ごせた…

 葉敬は、私に、これまでの自分の事業の失敗を、面白おかしく、聞かせてくれた…

 普通は、葉敬ほどの、人物ならば、自分の成功話を延々と、聞かせるものだ…

 が、

 葉敬は、真逆だった…

 事業にかかわらず、若い頃の失恋話など、自分の失敗ばかりを、面白おかしく、私に聞かせてくれた…

 そして、それは、私をリラックスさせるためだと、じきに、気付いた…

 私は、葉敬と、二人だけで、話すのは、初めてだった…

 だから、葉敬が、私に気を使ってくれているのだった…

 誰でも、そうだが、それまで、二人だけで、話したことのない人間と、二人きりで、話すときは、緊張するものだ…

 まして、私と、葉敬は、義理の親子…

 葉敬は、私の夫の葉尊の父だからだ…

 しかも、私と葉敬は、同居していない…

 私と葉尊は、日本で暮らし、葉敬は、台湾で、暮らす…

 だから、普段は、接点がない…

 だから、余計に、気を遣うのだろう…

 普段、接点がないからこそ、余計に、相手に嫌な思いをさせないように、気を遣うのだろう…

 私は、葉敬の失敗談を、そう見た…

 そう、睨んだ…

 
 結局、私は、葉敬と、そのファミレスで、何時間も、過ごした…

 つまりは、オスマン殿下が、セレブの保育園の授業を、終えるまで、そのファミレスで、過ごしたわけだ…

 傍のものは、そんな、私と葉敬を、どう見ているのだろうか?

 わからんかった…

 ただ、葉敬が、一方的に、話し、笑い、おおいに、場を盛り上げた…

 私は、楽しかった…

 ただただ、楽しかった…

 なにより、葉敬が、私に気を遣ってくれるのが、嬉しかった…

 台湾の大企業、台北筆頭CEОの葉敬が、この日本の平凡な私に、気を遣ってくれるのが、嬉しかったのだ…

 
 「…では、そろそろ、行きましょう…」

 お昼を回ったころ、葉敬が、告げた…

 「…ハイ…」

 私は、頷いた…

 そして、それが、最後とまでは、いわんが、葉敬と、楽しく過ごすことが、できた、数少ない機会になった…

 原因は、オスマン殿下だった…

 この後、私は、葉敬とクルマに乗り、オスマン殿下の通う、セレブの保育園に向かった…

 が、

 なにか、胸騒ぎというか、嫌な予感がした…

 そして、それは、葉敬も、同じだったようだ…

 後部座席に、いっしょに、座る、葉敬が、私を見て、

 「…お姉さん…なにか、緊張している様子ですね…」

 と、声をかけた…

 私は、黙って、頷いた…

 「…」

 と、なにも、言わんかった…

 いや、

 言えんかったのだ…

 原因は、わからんが、なにか、気分が悪いというか…

 胸騒ぎがした…

 別に、思い当たるフシは、なにも、なかった…

 が、

 なんとなく、嫌な気分だった…

 そして、それは、葉敬も、同じだったようだ…

 だから、

 「…それを言えば、お義父さんも、緊張している様子ですね…」

 と、声をかけた…

 すると、葉敬は、あっさり、それを認めた…

 「…なんというか…花嫁の父の気分になったというか…」

 と、照れ笑いを浮かべて、苦笑した…

 「…花嫁の父の気分…ですか?…」

 言いながら、つい、こちらも、笑いそうだった…

 なにしろ、花嫁=マリアだ…

 マリア=3歳の幼児だ…

 その3歳のマリアを好きな男を見に行くというだけで、これだけ、緊張するとは?

 もう少しで、吹き出す寸前だった(爆笑)…

 そんな私の心の内側が、表情に、出たのだろう…

 「…お姉さん…笑わないで、下さい…」

 と、葉敬が、私に懇願するように、言った…

 「…おかしいのは、わかりますが、これは、真実です…」

 「…真実?…」

 「…そうです…マリアは、まだ3歳です…誰かの元に、嫁ぐのは、まだ20年は、先でしょう…ですが、その日が、来るのが、怖いというか…」

 「…怖い?…」

 「…ハイ…怖いです…ですが、同時に、嬉しいような…例えるならば、ジェットコースターに乗るような気分とでも、いえば、いいのでしょうか?…」

 「…ジェットコースターですか?…」

 「…そうです…お姉さんも、ですが、ジェットコースターに乗る前は、嬉しいような、怖いような…ちょっと、ドキドキします…あの気持ちと、似ています…」

 「…」

 「…私は、葉尊には、悪いが、女のコが、欲しかった…」

 「…女のコ?…」

 「…そうです…男にとっては、女のコ…娘は、もしかしたら、永遠の憧れかも、しれません…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…ほら、男は、キレイだったり、カワイイ女のコを、見たりすれば、そのコと、付き合ったり、結婚したりすることを、夢見るでしょ? …ですが、当たり前ですが、娘には、それが、できない…」

 「…」

 「…でも、娘には、自分の血が、通ってます…だから、大げさに、言えば、自分の分身とも、言えます…」

 「…分身?…」

 「…そうです…だから、余計に、カワイイ…とりわけ、マリアは、親の私の欲目だけではなく、美人です…大きくなって、美しくなったマリアの姿を早く、見てみたい…」

 葉敬が、実に、嬉しそうに、言う…

 「…そして、そんなことを、考えると、今日、これから、マリアを好きだと言う、オスマン殿下にお会いするのは、マリアが、将来、ボーイフレンドを、私に紹介する予行演習になるかもしれない…」

 「…」

 「…だから、余計に、ドキドキするんです…」

 葉敬が、照れ臭そうに、言う…

 私は、そんな葉敬を見て、なんだか、この葉敬を好きになった…

 台湾の大物実業家でも、素顔は、普通の父親…

 どこにでもいる、普通の父親だ…

 そう思えると、壁がなくなったというか…

 すごく身近に感じた…

 まるで、今、私と葉敬が、いる距離が、心の距離のように、距離感が、近くなった…

 そして、そんなことを、考えていると、すぐに、オスマン殿下と、マリアの通う、セレブの保育園に着いた…

 「…お姉さん…着きました…」

 葉敬が、言った…

 「…降りましょう…」

 その言葉に促されて、私と、葉敬が、クルマから降りた…

 セレブの保育園の正門の前に立った…

 が、

 なにか、変だ…

 なにが、変なのか、わからないが、変だった…

 目の前のセレブの保育園が、なにか、シーンと、静まり返った感じだった…

 なにしろ、保育園だ…

 普通なら、子供たちの声が、外にいても、ガヤガヤと、聞こえるはずだ…

 が、

 そんな声は、まったくしなかった…

 あるいは、これは、私が、保育園をよく知らんからかも、しれん…

 が、

 普通なら、もっと、にぎやかなはずだ…

 私は、そう思った…

 すると、私と、葉敬の近くに、スーツ姿の男が、やって来た…

 そして、私と葉敬の前に、立った…

 「…失礼ですが、この保育園になにか、ご用ですか?…」

 丁寧な口調だが、まるで、ケンカを売るような感じだった…

 嫌なヤツ…

 とっさに、思った…

 が、

 葉敬は、大人だった…

 私同様、その男の口調に、嫌悪感を抱いていたろうに、

 「…この保育園に、私の娘が、通っているので、迎えにやって来ました…」

 と、穏やかに、告げた…

 「…そうですか…」

 相手は、納得した様子だった…

 そして、たった今、私と葉敬が、乗って来た黒塗りの高級車を見た…

 いかにも、金持ちの子息が、通う、セレブの保育園に通う父兄のクルマに、ふさわしいと、思ったのだろう…

 納得の表情だった…

 すると、今度は、葉敬が、

 「…それで、アナタは?…」

 と、返した…

 こちらの身分を聞いた以上、そういう、オマエは、誰なんだと? 

 と、訊き返したわけだ…

 すると、

 「…申し遅れました…」

 と、言って、相手が、警察手帳を見せた…

 「…警察の者です…」

 「…警察?…」

 葉敬が、驚きの声を上げた…

 「…失礼ですが、警察の方が、どうして、ここに?…」

 「…この保育園に、今、凶悪犯が、園児を盾に立てこもっているという情報を得て…」

 …なんだと?…

 私は、驚いた…

 ことも、あろうに、保育園の園児を人質に取るとは?

 なんと、極悪非道な!…

 人間の風上にも、置けん!…

 私の正義心に、火を付けた…

 火を点けたのだ…

 「…それで、犯人は? …」

 と、葉敬は、聞いた…

 「…立てこもった犯人の身元は、誰か、わかったのですか?…」

 すると、一転して、その警察の関係者の口調が、重くなった…

 「…日本人では、ありません…」

 と、言いにくそうに、言った…

 「…日本ではない? …だったら、外国人ですか?…」

 葉敬が、聞いた…

 「…言いにくいのですが、その通りです…ただ、これ以上は…容疑者の身分が、高くて…とりわけ、容疑者の国と、争うと、石油が、この日本に、入って来なくなる、恐れが、あるので…」

 …石油が、入って来なくなる?…

 …それって、もしかして?…

 …もしかして?…

 私は、つい、大声で、

 「…それって、ファラドですか?…」

 と、聞いた…

 途端に、警察関係者が、目を丸くした…

 「…そ…その通りです…立てこもった容疑者の名前は、ファラド…サウジの王族です…」

 警察関係者が、言った…

 私は、仰天した…

                  
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