第8話
文字数 6,644文字
私とバニラは、並んで、エレベーターを待った…
そして、ふと、気付いた…
…どうして、このバニラが、ここにいるのか?…
ふと、気付いた…
まさか、偶然では、あるまい…
当然、なにか、用事があって、このクールの本社ビルにやって来たに、決まっている…
このバニラは、私の夫の葉尊の父、葉敬の愛人であり、子供まで、産んでいる…
だから、今、ここにバニラがやってきても、おかしくはないのだが、やはりというか、仕事場にやって来ることは、普通ないだろう…
それは、例えば、バニラは、仕事がモデルだが、その仕事場に、私の夫の葉尊が、顔を出すようなものだからだ…
絶対ないとは、言えないが、なにか、特別な用事でもない限り、普通は、ありえない…
…ということは?…
…ということは、普通に考えれば、私の夫の葉尊に呼ばれて、やって来た…
そう考えるのが、正しいのではないか?
ようやく、私は、その事実に、気付いた…
だから、私は、バニラと並びながら、
「…バニラ?…」
と、声をかけた…
「…なに? …お姉さん?…」
「…オマエも、やっぱり、葉尊に呼ばれたのか?…」
と、聞いた…
すると、バニラは、その美貌を歪ませた…
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…まさか、そんなこと、今頃、気付いたの?…」
「…なんだと?…」
「…まさか、このバニラ・ルインスキーだって、お姉さんのように、暇じゃないのよ…」
「…私のように、暇じゃないだと?…どういう意味だ?…」
「…だって、お姉さんは、専業主婦でしょ?…」
「…そうさ…」
「…だったら、暇じゃない…」
「…バカにするな!…」
私は、怒った…
「…専業主婦だって、暇なんかじゃないさ…」
「…ちょっと、それは、子供がいたりする場合でしょ? …お姉さんは、葉尊との間に、子供はいないでしょ?…」
「…」
「…たしかに、専業主婦は、暇というのは、言い過ぎかもしれないけれども、専業主婦のお姉さんが、このモデルのバニラ・ルインスキーよりも、忙しいわけはないでしょ?…」
…たしかに…
…言われてみれば、その通りだった…
…反論できんかった(涙)…
「…葉尊もリンダのことで、色々頭を悩ませているのよ…」
バニラが、言った…
その言葉で、私は、ようやく、今日、葉尊にいきなり呼び出されたのは、リンダの一件だと気付いた…
いや、
やはり、それは、おかしい…
仮に、リンダの一件で、呼び出されたとしても、会社というのは、おかしい…
会社に呼び出すのは、おかしい…
普通に考えれば、自宅だ…
リンダの一件というのは、おかしい…
私は、思った…
そして、相変わらず、このバニラは食えん女だと、思った…
私に今、本当のことを、言ったか、どうか、怪しいものだからだ…
私にウソを言った可能性が、高いからだ…
私は、さっき、用心するのは、矢口トモコ…
あのスーパー・ジャパンの矢口トモコだと、考えたが、やはり、このバニラにも、油断するわけには、いかないと、気付いた…
そして、それを思えば、この矢田トモコの周りは、敵だらけだと、今さらながら、気付いた…
バニラも、敵…
矢口トモコも、敵…
信頼できるのは、夫の葉尊ぐらいのものだ…
いや、
夫だけではない…
夫の父の葉敬も、なぜか、私を気に入っている…
しかし、
しかし、だ…
そこまで、考えて、気付いた…
夫の父の葉敬は、このバニラの愛人…
ということは、私とバニラを選べと言われれば、当たり前だが、バニラを選ぶ現実に、だ…
葉敬が、どうして、私を気に入っているのか、わからないが、たとえ、私を気に入っていても、バニラを選ぶに違いない…
なにしろ、バニラとの間には、幼い娘まで、いるのだ…
私は、そんなことを、考えた…
考え続けた…
すると、
「…お姉さん…一体、なにを、そんなに難しい顔をして、考え込んでいるの?…」
と、隣に並んだバニラが声をかけた…
だから、私は、とっさに、
「…バニラ…オマエのことさ…」
と、答えた…
「…私のことって?…なに?…」
「…オマエが、さっき、私とした約束をキチンと、守れるのか、考えたのさ…」
「…約束って?…」
「…さっき、見た、矢口トモコと、私のやりとりさ…」
「…」
「…アレを口外しない約束だろ?…」
私の言葉に、バニラは、考え込んだ…
しばし、悩んでいた…
「…つまり、お姉さんは、こう言いたいのね…あの矢口トモコとのやりとりだけじゃない…今後、私に、お姉さんに逆らうような真似はするなって、警告しているわけね…」
…ウソォ?…
…どうして、そうなるんだ?…
…そこまでは、考えんかった…
「…つまり、これ以上、私が、お姉さんに、歯向かえば、金輪際、娘と遊んでやらないと、言いたいわけ…」
私が、驚いて、バニラの顔を見上げると、バニラが、その彫刻のように、整った美貌で、私を、憎々しげに睨んでいた…
私は、恐怖した…
私は、純粋な日本人…
当たり前だが、目が黒い…
だから、バニラのような青い目は、普段、あまりお目にかかったことがない…
その青い目が、怒り出すと、日本人のような黒い目が、怒るよりも、もっと怖い…
なんというか、ゾッとする怖さというか…
青い目が怒ることで、冷たい怖さを感じるのだ…
本来、気の弱い私は、そんなバニラの目を見て、心底怖くなった…
恐怖で、一瞬のうちに、身体中の血の気が引いた…
「…バニラ…許せ…私が、悪かった…」
と、言いたかったが、あまりの恐怖で、口が動かなかった…
ただ、その場に立ち尽くしていた…
恐怖で、立ち尽くしていた…
すると、まもなく、
「…お姉さん…」
と、バニラがゆっくりと、私に声をかけてきた…
私は、あまりの恐怖で、長い言葉をしゃべることも、できなかった…
だから、ただ、
「…なんだ?…」
と、だけ、呟いた…
なんだ? の3語だけなら、言えたからだ(涙)…
「…スイマセン…」
と、バニラが、丁寧に腰を折って、私に詫びた…
私は、驚いた…
まさか、このバニラが、こんなに丁寧に、私に詫びるとは、思っていなかったからだ…
まさか、この根性の歪んだ、バニラが、こんなに、へりくだって、私に接するとは、思わなかったからだ…
まさに、恐るべし…
娘の存在、恐るべし、だ…
「…お姉さん…また、うちの娘と遊んであげて下さい…よろしくお願いします…」
バニラが、心のこもった態度で、私に頼んだ…
私は、一体、なぜ、こういう展開になったか、わからなかったが、これを利用しない手はないと、思った…
だから、私は、私の大きな胸の前で、腕を組んで、
「…わかれば、いいのさ…」
と、もっともらしく言った…
「…さっきも言ったように、私は、オマエを試したのさ…」
「…試した?…」
「…そうさ…さっき、私と、矢口トモコのことを、決して口外しないと、約束して、まだ、その舌の根も乾かないうちに、私の悪口を言う…それは、約束外のことだが、そんな女に、大事な約束を守れると思うか?…」
「…」
「…オマエはダメな女だ…その美貌にあぐらをかいて、今日まで生きてきたに過ぎん女だ…」
「…ハイ…」
「…だから、オマエは、ダメなのさ…」
「…ハイ…」
「…少しばかり、美人に生まれたからって、周囲からチヤホヤされて生きてきたから、甘えがあるのさ…だから、オマエは、正直、その美貌が衰えるまで、その曲がった性根は、治らんだろ?…」
「…」
「…そして、ある日、オマエは、自分が歳を取って、周囲の人間が、誰もオマエをチヤホヤしなくなる…それで、初めて気付くのさ…オマエの持つ魔法が消えたと…」
「…魔法が消えた?…」
「…若さという魔法さ…いくら、美人でも、歳には勝てん…オマエが40歳になれば、23歳の今のオマエに接するように、世の男たちは、接してくれんさ…」
私は、断言した…
「…だから、その日のために、私は、オマエに、世の中の渡り方を教えてやってるのさ…平凡な女が、どうやって、世の中を渡ってゆくのか、教えてやってるのさ…」
私は、もっともらしく、断言した…
実に、もっともらしく、言い切った…
実は、それまで、そんなこと、1㎜も考えたことは、なかった…
文字通り、1㎜も、だ…
だが、
このバニラのへりくだった態度を目の当たりにして、考えた…
このバニラの風上に立てるのは、今しかないと、気付いたのだ…
この平凡な矢田トモコが、世界を股にかけたトップモデルに勝てるのは、今しかないと、気付いたのだ…
こんなチャンスを見逃すことはできない…
まさに、千載一遇のチャンス…
これを逃せば、二度とないチャンスかもしれなかった…
だから、私は、腕を組みながら、バニラに説教した…
そして、なぜか、私は、腕を組んでいたが、視線は、上を見ていた…
身長159㎝の私は、身長180㎝のバニラを見上げるしかなかったからだ…
私は、立派に腕を組みながら、バニラの言葉を待った…
すると、まもなく、
「…申し訳ありませんでした…お姉さんが、そんな深い考えで、私に接していたとは、気付きませんでした…」
と、詫びた…
私は、気持ちが良くなって、自然と、鼻の穴を大きく膨らませながら、
「…わかれば、いいのさ…」
と、告げた…
このバニラ…
バニラ・ルインスキー…
世界的に著名なモデルが、私に屈服した瞬間だった…
私の手下になった瞬間だった…
私は、この瞬間を、生涯、忘れまい…
この感動した瞬間を、生涯、忘れまい…
なにしろ、世界を股にかける、絶世のモデル…
バニラ・ルインスキー、そのひとが、私の手下になったのだ…
私の配下になったのだ…
冷静に、考えれば、これほどの感動はなかった…
本当ならば、私の立場ならば、ペンと色紙を持って、バニラの元に、行き、
「…バニラさん…お手数ですが、サインを頂けないでしょうか?…」
と、土下座せんばかりに、頭を下げて、頼むところだ…
しかも、相手は、このバニラ…
ビックリするほど、根性のねじ曲がった女だ(爆笑)…
性根のねじ曲がった女だ(爆笑)…
だから、私が、土下座せんばかりに、頭を下げて頼んでも、きっと、その日の気分次第で、
「…今日はダメ!…」
とか、言って、サインしてくれない可能性が高い…
私は、思った…
一方、そうは言いながらも、仮に、バニラにサインをもらっても、私は、後生大事に、家宝のように、そのサインを大事にするかと、問われれば、それも、怪しかった…
やはり、世の中、金だ…
金が大事だ…
ヤフオクやメルカリで、見て、3千円や、5千円では、サインは、売らんが、2万ぐらいすれば、心が揺らぐ…
5万円ならば、すぐにでも、売り出すだろう…
私は、思った…
つまりは、この場合は、この矢田トモコが、
「…バニラさん…スイマセン…サインをお願いします…」
と、言ったことへの対価が、5万円なのだ…
そう考えれば、この矢田トモコが、わざわざ、このバニラ風情に頭を下げたことにも、十分納得する価格だった…
なにしろ、5万円だ…
私のバイトの時給は、千円ちょっと…
それに比べて、このバニラに頭を下げるだけで、5万円なのだ…
つまり、この5万円は、いわば、この矢田のプライド…
矢田トモコのプライドの価値が、5万円だった…
つまり、頭を下げるのに、5万円、もらえれば、簡単に頭を下げますよ、と、言っているのと、同じだった…
ふーむ…
そう、考えると、この5万円は、高いのか、安いのか、さっぱり、わからんかった(笑)…
ただの矢田トモコならば、いい…
これまでの、無名の矢田トモコならば、いい…
しかし、今は違う…
クールの社長夫人…
日本を代表する総合電機メーカーの社長夫人という地位がある…
肩書がある…
そんな偉い肩書をもった、お偉いさんの私が、たかだか、5万円で、プライドを売っていいものかどうか?
いや、
これは、パブリックではない…
これは、プライベート…
プライベートの金稼ぎだ…
そう、考えれば、構わないだろう…
いや、
違う…
例えば、日本の総理大臣が、ヤフオクやメルカリで、商品を転売して、儲けていれば、なんてヤツだと思う…
人間性を疑う…
だから、そんなことはできない…
それと、同じで、私も、そんなことをしちゃいかんと、気付いた…
しかし、同時に、バレなければ、OKとも、思った(笑)…
悪魔の囁きというヤツだ(笑)…
バレなければ、OK…
犯罪にならなければ、OK…
それが、基準ではないか?
いや、
犯罪ではないかもしれないが、そんなことをすれば、倫理観が、問われる…
人間性が、問われる…
それに、気付いた…
それに、気付くと、やっぱり、立場を得るのは、大変だと、気付いた…
これまでの矢田トモコならば、なんでもなかったことができなくなる…
さっきの、このロビーの受付の関口という女のコが、そうだ…
彼女が、
「…奥様といっしょに、ダンスをしたのは、私の一生の思い出です…」
なんて、言うものだから、このバニラが、発狂したと思っても、逃げれんかった…
いつもなら、真っ先に、逃げ出す瞬間なのに、それが、できんかった…
あのとき、このバニラが、本当に、発狂していれば、この矢田トモコは、真っ先に、呆気なく殺されていただろう…
まるで、ライオンに、襲われた、可哀そうなウサギよろしく、呆気なく、ライオン=バニラの餌になったに違いない…
私と、バニラとは、それほどの違いがある…
持って生まれた、カラダの大きさの違いがある…
いや、
カラダの大きさだけではない…
その美貌の違いも、甚だしい…
まるで、バニラは、神様が、時間をかけて、念入りに作り上げた、芸術品のようだ…
それに、比べ、この矢田は、大量生産の粗製の乱発品のようだ(涙)…
とりあえず、作っただけ…
品質も適当…
最低限の品質だけ、クリアすればいい…
そんな感じだった…
正直、違いがあり過ぎた(涙)…
しかしながら、私は、このバニラと出会ってから、今現在に至るまで、このバニラに、負けたと思ったことは、一度もない…
一度も、だ…
このバニラに後れを取ったと思ったことも、一度もない…
これは、ウソではない!
そんなことを言えば、ひとは、私が、頭がおかしいと思うかもしれないが、そうではない…
自分でも、わからないが、なぜか、この矢田トモコが、バニラに負けたと、心の底から思えんのだ…
なぜだかは、わからない…
これは、リンダも同じ…
リンダ…
リンダ・ヘイワースは、ハリウッドのセックス・シンボルで、このバニラに匹敵する美貌の持ち主だから、当然、私が、叶う相手ではない…
そもそも、私風情が、比較するのが、失礼…
それほど、違う(涙)…
にもかかわらず、このバニラ同様、あのリンダにも、私が、負けたと、心の底から、思ったことは、一度もない…
これは、一体、どういうことだろうか?
やはり、私の頭がおかしいのだろうか?
真剣に考えた…
その結果、
いや、
そうではない…
身近になり過ぎたのだ…
と、気付いた…
どんな偉い人間でも、身近にいれば、偉い人間だと思えなくなる…
たとえ、天皇陛下や総理大臣でも、それは、同じだ…
子供の頃から、知っていて、オレ、オマエの仲ならば、相手がどんなに偉くなっても、決して、心の底から偉いとは、思えなくなる…
それと、同じだ…
私と、バニラやリンダは、まだ知り会って、それほどの期間ではないが、すでに、仲がいい…
ビックリするほど、仲がいい…
親密な関係だ…
そして、そうなると、相手が、偉いとは、思わなくなる…
極端な話、自分と大差ない人間だと、心の底から、思えてくる…
が、
それは、誤り…
間違っている…
本当は、天と地ぐらい違っている…
天と地ぐらい差がある…
それが、わかっていながら、わからなくなる(笑)…
自分と、バニラ、リンダの差が、わかっていながら、わからなくなる…
そういうことだ(笑)…
しかし、それが、わかっていて、なお、このバニラや、リンダが、私を相手するのは、どうしてだろうか?
ふと、疑問に思った…
やはり、私が、葉尊の妻だろうか?
二人とも、葉尊と親しい…
だから、だろうか?
そう、考えると、やはり、謎がある…
私は、考え込んだ…
そして、ふと、気付いた…
…どうして、このバニラが、ここにいるのか?…
ふと、気付いた…
まさか、偶然では、あるまい…
当然、なにか、用事があって、このクールの本社ビルにやって来たに、決まっている…
このバニラは、私の夫の葉尊の父、葉敬の愛人であり、子供まで、産んでいる…
だから、今、ここにバニラがやってきても、おかしくはないのだが、やはりというか、仕事場にやって来ることは、普通ないだろう…
それは、例えば、バニラは、仕事がモデルだが、その仕事場に、私の夫の葉尊が、顔を出すようなものだからだ…
絶対ないとは、言えないが、なにか、特別な用事でもない限り、普通は、ありえない…
…ということは?…
…ということは、普通に考えれば、私の夫の葉尊に呼ばれて、やって来た…
そう考えるのが、正しいのではないか?
ようやく、私は、その事実に、気付いた…
だから、私は、バニラと並びながら、
「…バニラ?…」
と、声をかけた…
「…なに? …お姉さん?…」
「…オマエも、やっぱり、葉尊に呼ばれたのか?…」
と、聞いた…
すると、バニラは、その美貌を歪ませた…
「…お姉さん…」
「…なんだ?…」
「…まさか、そんなこと、今頃、気付いたの?…」
「…なんだと?…」
「…まさか、このバニラ・ルインスキーだって、お姉さんのように、暇じゃないのよ…」
「…私のように、暇じゃないだと?…どういう意味だ?…」
「…だって、お姉さんは、専業主婦でしょ?…」
「…そうさ…」
「…だったら、暇じゃない…」
「…バカにするな!…」
私は、怒った…
「…専業主婦だって、暇なんかじゃないさ…」
「…ちょっと、それは、子供がいたりする場合でしょ? …お姉さんは、葉尊との間に、子供はいないでしょ?…」
「…」
「…たしかに、専業主婦は、暇というのは、言い過ぎかもしれないけれども、専業主婦のお姉さんが、このモデルのバニラ・ルインスキーよりも、忙しいわけはないでしょ?…」
…たしかに…
…言われてみれば、その通りだった…
…反論できんかった(涙)…
「…葉尊もリンダのことで、色々頭を悩ませているのよ…」
バニラが、言った…
その言葉で、私は、ようやく、今日、葉尊にいきなり呼び出されたのは、リンダの一件だと気付いた…
いや、
やはり、それは、おかしい…
仮に、リンダの一件で、呼び出されたとしても、会社というのは、おかしい…
会社に呼び出すのは、おかしい…
普通に考えれば、自宅だ…
リンダの一件というのは、おかしい…
私は、思った…
そして、相変わらず、このバニラは食えん女だと、思った…
私に今、本当のことを、言ったか、どうか、怪しいものだからだ…
私にウソを言った可能性が、高いからだ…
私は、さっき、用心するのは、矢口トモコ…
あのスーパー・ジャパンの矢口トモコだと、考えたが、やはり、このバニラにも、油断するわけには、いかないと、気付いた…
そして、それを思えば、この矢田トモコの周りは、敵だらけだと、今さらながら、気付いた…
バニラも、敵…
矢口トモコも、敵…
信頼できるのは、夫の葉尊ぐらいのものだ…
いや、
夫だけではない…
夫の父の葉敬も、なぜか、私を気に入っている…
しかし、
しかし、だ…
そこまで、考えて、気付いた…
夫の父の葉敬は、このバニラの愛人…
ということは、私とバニラを選べと言われれば、当たり前だが、バニラを選ぶ現実に、だ…
葉敬が、どうして、私を気に入っているのか、わからないが、たとえ、私を気に入っていても、バニラを選ぶに違いない…
なにしろ、バニラとの間には、幼い娘まで、いるのだ…
私は、そんなことを、考えた…
考え続けた…
すると、
「…お姉さん…一体、なにを、そんなに難しい顔をして、考え込んでいるの?…」
と、隣に並んだバニラが声をかけた…
だから、私は、とっさに、
「…バニラ…オマエのことさ…」
と、答えた…
「…私のことって?…なに?…」
「…オマエが、さっき、私とした約束をキチンと、守れるのか、考えたのさ…」
「…約束って?…」
「…さっき、見た、矢口トモコと、私のやりとりさ…」
「…」
「…アレを口外しない約束だろ?…」
私の言葉に、バニラは、考え込んだ…
しばし、悩んでいた…
「…つまり、お姉さんは、こう言いたいのね…あの矢口トモコとのやりとりだけじゃない…今後、私に、お姉さんに逆らうような真似はするなって、警告しているわけね…」
…ウソォ?…
…どうして、そうなるんだ?…
…そこまでは、考えんかった…
「…つまり、これ以上、私が、お姉さんに、歯向かえば、金輪際、娘と遊んでやらないと、言いたいわけ…」
私が、驚いて、バニラの顔を見上げると、バニラが、その彫刻のように、整った美貌で、私を、憎々しげに睨んでいた…
私は、恐怖した…
私は、純粋な日本人…
当たり前だが、目が黒い…
だから、バニラのような青い目は、普段、あまりお目にかかったことがない…
その青い目が、怒り出すと、日本人のような黒い目が、怒るよりも、もっと怖い…
なんというか、ゾッとする怖さというか…
青い目が怒ることで、冷たい怖さを感じるのだ…
本来、気の弱い私は、そんなバニラの目を見て、心底怖くなった…
恐怖で、一瞬のうちに、身体中の血の気が引いた…
「…バニラ…許せ…私が、悪かった…」
と、言いたかったが、あまりの恐怖で、口が動かなかった…
ただ、その場に立ち尽くしていた…
恐怖で、立ち尽くしていた…
すると、まもなく、
「…お姉さん…」
と、バニラがゆっくりと、私に声をかけてきた…
私は、あまりの恐怖で、長い言葉をしゃべることも、できなかった…
だから、ただ、
「…なんだ?…」
と、だけ、呟いた…
なんだ? の3語だけなら、言えたからだ(涙)…
「…スイマセン…」
と、バニラが、丁寧に腰を折って、私に詫びた…
私は、驚いた…
まさか、このバニラが、こんなに丁寧に、私に詫びるとは、思っていなかったからだ…
まさか、この根性の歪んだ、バニラが、こんなに、へりくだって、私に接するとは、思わなかったからだ…
まさに、恐るべし…
娘の存在、恐るべし、だ…
「…お姉さん…また、うちの娘と遊んであげて下さい…よろしくお願いします…」
バニラが、心のこもった態度で、私に頼んだ…
私は、一体、なぜ、こういう展開になったか、わからなかったが、これを利用しない手はないと、思った…
だから、私は、私の大きな胸の前で、腕を組んで、
「…わかれば、いいのさ…」
と、もっともらしく言った…
「…さっきも言ったように、私は、オマエを試したのさ…」
「…試した?…」
「…そうさ…さっき、私と、矢口トモコのことを、決して口外しないと、約束して、まだ、その舌の根も乾かないうちに、私の悪口を言う…それは、約束外のことだが、そんな女に、大事な約束を守れると思うか?…」
「…」
「…オマエはダメな女だ…その美貌にあぐらをかいて、今日まで生きてきたに過ぎん女だ…」
「…ハイ…」
「…だから、オマエは、ダメなのさ…」
「…ハイ…」
「…少しばかり、美人に生まれたからって、周囲からチヤホヤされて生きてきたから、甘えがあるのさ…だから、オマエは、正直、その美貌が衰えるまで、その曲がった性根は、治らんだろ?…」
「…」
「…そして、ある日、オマエは、自分が歳を取って、周囲の人間が、誰もオマエをチヤホヤしなくなる…それで、初めて気付くのさ…オマエの持つ魔法が消えたと…」
「…魔法が消えた?…」
「…若さという魔法さ…いくら、美人でも、歳には勝てん…オマエが40歳になれば、23歳の今のオマエに接するように、世の男たちは、接してくれんさ…」
私は、断言した…
「…だから、その日のために、私は、オマエに、世の中の渡り方を教えてやってるのさ…平凡な女が、どうやって、世の中を渡ってゆくのか、教えてやってるのさ…」
私は、もっともらしく、断言した…
実に、もっともらしく、言い切った…
実は、それまで、そんなこと、1㎜も考えたことは、なかった…
文字通り、1㎜も、だ…
だが、
このバニラのへりくだった態度を目の当たりにして、考えた…
このバニラの風上に立てるのは、今しかないと、気付いたのだ…
この平凡な矢田トモコが、世界を股にかけたトップモデルに勝てるのは、今しかないと、気付いたのだ…
こんなチャンスを見逃すことはできない…
まさに、千載一遇のチャンス…
これを逃せば、二度とないチャンスかもしれなかった…
だから、私は、腕を組みながら、バニラに説教した…
そして、なぜか、私は、腕を組んでいたが、視線は、上を見ていた…
身長159㎝の私は、身長180㎝のバニラを見上げるしかなかったからだ…
私は、立派に腕を組みながら、バニラの言葉を待った…
すると、まもなく、
「…申し訳ありませんでした…お姉さんが、そんな深い考えで、私に接していたとは、気付きませんでした…」
と、詫びた…
私は、気持ちが良くなって、自然と、鼻の穴を大きく膨らませながら、
「…わかれば、いいのさ…」
と、告げた…
このバニラ…
バニラ・ルインスキー…
世界的に著名なモデルが、私に屈服した瞬間だった…
私の手下になった瞬間だった…
私は、この瞬間を、生涯、忘れまい…
この感動した瞬間を、生涯、忘れまい…
なにしろ、世界を股にかける、絶世のモデル…
バニラ・ルインスキー、そのひとが、私の手下になったのだ…
私の配下になったのだ…
冷静に、考えれば、これほどの感動はなかった…
本当ならば、私の立場ならば、ペンと色紙を持って、バニラの元に、行き、
「…バニラさん…お手数ですが、サインを頂けないでしょうか?…」
と、土下座せんばかりに、頭を下げて、頼むところだ…
しかも、相手は、このバニラ…
ビックリするほど、根性のねじ曲がった女だ(爆笑)…
性根のねじ曲がった女だ(爆笑)…
だから、私が、土下座せんばかりに、頭を下げて頼んでも、きっと、その日の気分次第で、
「…今日はダメ!…」
とか、言って、サインしてくれない可能性が高い…
私は、思った…
一方、そうは言いながらも、仮に、バニラにサインをもらっても、私は、後生大事に、家宝のように、そのサインを大事にするかと、問われれば、それも、怪しかった…
やはり、世の中、金だ…
金が大事だ…
ヤフオクやメルカリで、見て、3千円や、5千円では、サインは、売らんが、2万ぐらいすれば、心が揺らぐ…
5万円ならば、すぐにでも、売り出すだろう…
私は、思った…
つまりは、この場合は、この矢田トモコが、
「…バニラさん…スイマセン…サインをお願いします…」
と、言ったことへの対価が、5万円なのだ…
そう考えれば、この矢田トモコが、わざわざ、このバニラ風情に頭を下げたことにも、十分納得する価格だった…
なにしろ、5万円だ…
私のバイトの時給は、千円ちょっと…
それに比べて、このバニラに頭を下げるだけで、5万円なのだ…
つまり、この5万円は、いわば、この矢田のプライド…
矢田トモコのプライドの価値が、5万円だった…
つまり、頭を下げるのに、5万円、もらえれば、簡単に頭を下げますよ、と、言っているのと、同じだった…
ふーむ…
そう、考えると、この5万円は、高いのか、安いのか、さっぱり、わからんかった(笑)…
ただの矢田トモコならば、いい…
これまでの、無名の矢田トモコならば、いい…
しかし、今は違う…
クールの社長夫人…
日本を代表する総合電機メーカーの社長夫人という地位がある…
肩書がある…
そんな偉い肩書をもった、お偉いさんの私が、たかだか、5万円で、プライドを売っていいものかどうか?
いや、
これは、パブリックではない…
これは、プライベート…
プライベートの金稼ぎだ…
そう、考えれば、構わないだろう…
いや、
違う…
例えば、日本の総理大臣が、ヤフオクやメルカリで、商品を転売して、儲けていれば、なんてヤツだと思う…
人間性を疑う…
だから、そんなことはできない…
それと、同じで、私も、そんなことをしちゃいかんと、気付いた…
しかし、同時に、バレなければ、OKとも、思った(笑)…
悪魔の囁きというヤツだ(笑)…
バレなければ、OK…
犯罪にならなければ、OK…
それが、基準ではないか?
いや、
犯罪ではないかもしれないが、そんなことをすれば、倫理観が、問われる…
人間性が、問われる…
それに、気付いた…
それに、気付くと、やっぱり、立場を得るのは、大変だと、気付いた…
これまでの矢田トモコならば、なんでもなかったことができなくなる…
さっきの、このロビーの受付の関口という女のコが、そうだ…
彼女が、
「…奥様といっしょに、ダンスをしたのは、私の一生の思い出です…」
なんて、言うものだから、このバニラが、発狂したと思っても、逃げれんかった…
いつもなら、真っ先に、逃げ出す瞬間なのに、それが、できんかった…
あのとき、このバニラが、本当に、発狂していれば、この矢田トモコは、真っ先に、呆気なく殺されていただろう…
まるで、ライオンに、襲われた、可哀そうなウサギよろしく、呆気なく、ライオン=バニラの餌になったに違いない…
私と、バニラとは、それほどの違いがある…
持って生まれた、カラダの大きさの違いがある…
いや、
カラダの大きさだけではない…
その美貌の違いも、甚だしい…
まるで、バニラは、神様が、時間をかけて、念入りに作り上げた、芸術品のようだ…
それに、比べ、この矢田は、大量生産の粗製の乱発品のようだ(涙)…
とりあえず、作っただけ…
品質も適当…
最低限の品質だけ、クリアすればいい…
そんな感じだった…
正直、違いがあり過ぎた(涙)…
しかしながら、私は、このバニラと出会ってから、今現在に至るまで、このバニラに、負けたと思ったことは、一度もない…
一度も、だ…
このバニラに後れを取ったと思ったことも、一度もない…
これは、ウソではない!
そんなことを言えば、ひとは、私が、頭がおかしいと思うかもしれないが、そうではない…
自分でも、わからないが、なぜか、この矢田トモコが、バニラに負けたと、心の底から思えんのだ…
なぜだかは、わからない…
これは、リンダも同じ…
リンダ…
リンダ・ヘイワースは、ハリウッドのセックス・シンボルで、このバニラに匹敵する美貌の持ち主だから、当然、私が、叶う相手ではない…
そもそも、私風情が、比較するのが、失礼…
それほど、違う(涙)…
にもかかわらず、このバニラ同様、あのリンダにも、私が、負けたと、心の底から、思ったことは、一度もない…
これは、一体、どういうことだろうか?
やはり、私の頭がおかしいのだろうか?
真剣に考えた…
その結果、
いや、
そうではない…
身近になり過ぎたのだ…
と、気付いた…
どんな偉い人間でも、身近にいれば、偉い人間だと思えなくなる…
たとえ、天皇陛下や総理大臣でも、それは、同じだ…
子供の頃から、知っていて、オレ、オマエの仲ならば、相手がどんなに偉くなっても、決して、心の底から偉いとは、思えなくなる…
それと、同じだ…
私と、バニラやリンダは、まだ知り会って、それほどの期間ではないが、すでに、仲がいい…
ビックリするほど、仲がいい…
親密な関係だ…
そして、そうなると、相手が、偉いとは、思わなくなる…
極端な話、自分と大差ない人間だと、心の底から、思えてくる…
が、
それは、誤り…
間違っている…
本当は、天と地ぐらい違っている…
天と地ぐらい差がある…
それが、わかっていながら、わからなくなる(笑)…
自分と、バニラ、リンダの差が、わかっていながら、わからなくなる…
そういうことだ(笑)…
しかし、それが、わかっていて、なお、このバニラや、リンダが、私を相手するのは、どうしてだろうか?
ふと、疑問に思った…
やはり、私が、葉尊の妻だろうか?
二人とも、葉尊と親しい…
だから、だろうか?
そう、考えると、やはり、謎がある…
私は、考え込んだ…