第8話

文字数 6,644文字

 私とバニラは、並んで、エレベーターを待った…

 そして、ふと、気付いた…

 …どうして、このバニラが、ここにいるのか?…

 ふと、気付いた…

 まさか、偶然では、あるまい…

 当然、なにか、用事があって、このクールの本社ビルにやって来たに、決まっている…

 このバニラは、私の夫の葉尊の父、葉敬の愛人であり、子供まで、産んでいる…

 だから、今、ここにバニラがやってきても、おかしくはないのだが、やはりというか、仕事場にやって来ることは、普通ないだろう…

 それは、例えば、バニラは、仕事がモデルだが、その仕事場に、私の夫の葉尊が、顔を出すようなものだからだ…

 絶対ないとは、言えないが、なにか、特別な用事でもない限り、普通は、ありえない…

 …ということは?…

 …ということは、普通に考えれば、私の夫の葉尊に呼ばれて、やって来た…

 そう考えるのが、正しいのではないか?

 ようやく、私は、その事実に、気付いた…

 だから、私は、バニラと並びながら、

 「…バニラ?…」

 と、声をかけた…

 「…なに? …お姉さん?…」

 「…オマエも、やっぱり、葉尊に呼ばれたのか?…」

 と、聞いた…

 すると、バニラは、その美貌を歪ませた…

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…まさか、そんなこと、今頃、気付いたの?…」

 「…なんだと?…」

 「…まさか、このバニラ・ルインスキーだって、お姉さんのように、暇じゃないのよ…」

 「…私のように、暇じゃないだと?…どういう意味だ?…」

 「…だって、お姉さんは、専業主婦でしょ?…」

 「…そうさ…」

 「…だったら、暇じゃない…」

 「…バカにするな!…」

 私は、怒った…

 「…専業主婦だって、暇なんかじゃないさ…」

 「…ちょっと、それは、子供がいたりする場合でしょ? …お姉さんは、葉尊との間に、子供はいないでしょ?…」

 「…」

 「…たしかに、専業主婦は、暇というのは、言い過ぎかもしれないけれども、専業主婦のお姉さんが、このモデルのバニラ・ルインスキーよりも、忙しいわけはないでしょ?…」

 …たしかに…

 …言われてみれば、その通りだった…

 …反論できんかった(涙)…

 「…葉尊もリンダのことで、色々頭を悩ませているのよ…」

 バニラが、言った…

 その言葉で、私は、ようやく、今日、葉尊にいきなり呼び出されたのは、リンダの一件だと気付いた…

 いや、

 やはり、それは、おかしい…

 仮に、リンダの一件で、呼び出されたとしても、会社というのは、おかしい…

 会社に呼び出すのは、おかしい…

 普通に考えれば、自宅だ…

 リンダの一件というのは、おかしい…

 私は、思った…

 そして、相変わらず、このバニラは食えん女だと、思った…

 私に今、本当のことを、言ったか、どうか、怪しいものだからだ…

 私にウソを言った可能性が、高いからだ…

 私は、さっき、用心するのは、矢口トモコ…

 あのスーパー・ジャパンの矢口トモコだと、考えたが、やはり、このバニラにも、油断するわけには、いかないと、気付いた…

 そして、それを思えば、この矢田トモコの周りは、敵だらけだと、今さらながら、気付いた…

 バニラも、敵…

 矢口トモコも、敵…

 信頼できるのは、夫の葉尊ぐらいのものだ…

 いや、

 夫だけではない…

 夫の父の葉敬も、なぜか、私を気に入っている…

 しかし、

 しかし、だ…

 そこまで、考えて、気付いた…

 夫の父の葉敬は、このバニラの愛人…

 ということは、私とバニラを選べと言われれば、当たり前だが、バニラを選ぶ現実に、だ…

 葉敬が、どうして、私を気に入っているのか、わからないが、たとえ、私を気に入っていても、バニラを選ぶに違いない…

 なにしろ、バニラとの間には、幼い娘まで、いるのだ…

 私は、そんなことを、考えた…

 考え続けた…

 すると、

 「…お姉さん…一体、なにを、そんなに難しい顔をして、考え込んでいるの?…」

 と、隣に並んだバニラが声をかけた…

 だから、私は、とっさに、

 「…バニラ…オマエのことさ…」

 と、答えた…

 「…私のことって?…なに?…」

 「…オマエが、さっき、私とした約束をキチンと、守れるのか、考えたのさ…」

 「…約束って?…」

 「…さっき、見た、矢口トモコと、私のやりとりさ…」

 「…」

 「…アレを口外しない約束だろ?…」

 私の言葉に、バニラは、考え込んだ…

 しばし、悩んでいた…

 「…つまり、お姉さんは、こう言いたいのね…あの矢口トモコとのやりとりだけじゃない…今後、私に、お姉さんに逆らうような真似はするなって、警告しているわけね…」

 …ウソォ?…

 …どうして、そうなるんだ?…

 …そこまでは、考えんかった…

 「…つまり、これ以上、私が、お姉さんに、歯向かえば、金輪際、娘と遊んでやらないと、言いたいわけ…」

 私が、驚いて、バニラの顔を見上げると、バニラが、その彫刻のように、整った美貌で、私を、憎々しげに睨んでいた…

 私は、恐怖した…

 私は、純粋な日本人…

 当たり前だが、目が黒い…

 だから、バニラのような青い目は、普段、あまりお目にかかったことがない…

 その青い目が、怒り出すと、日本人のような黒い目が、怒るよりも、もっと怖い…

 なんというか、ゾッとする怖さというか…

 青い目が怒ることで、冷たい怖さを感じるのだ…

 本来、気の弱い私は、そんなバニラの目を見て、心底怖くなった…

 恐怖で、一瞬のうちに、身体中の血の気が引いた…

 「…バニラ…許せ…私が、悪かった…」

 と、言いたかったが、あまりの恐怖で、口が動かなかった…

 ただ、その場に立ち尽くしていた…

 恐怖で、立ち尽くしていた…

 すると、まもなく、

 「…お姉さん…」

 と、バニラがゆっくりと、私に声をかけてきた…

 私は、あまりの恐怖で、長い言葉をしゃべることも、できなかった…

 だから、ただ、

 「…なんだ?…」

 と、だけ、呟いた…

 なんだ? の3語だけなら、言えたからだ(涙)…

 「…スイマセン…」

 と、バニラが、丁寧に腰を折って、私に詫びた…

 私は、驚いた…

 まさか、このバニラが、こんなに丁寧に、私に詫びるとは、思っていなかったからだ…

 まさか、この根性の歪んだ、バニラが、こんなに、へりくだって、私に接するとは、思わなかったからだ…

 まさに、恐るべし…

 娘の存在、恐るべし、だ…

 「…お姉さん…また、うちの娘と遊んであげて下さい…よろしくお願いします…」

 バニラが、心のこもった態度で、私に頼んだ…

 私は、一体、なぜ、こういう展開になったか、わからなかったが、これを利用しない手はないと、思った…

 だから、私は、私の大きな胸の前で、腕を組んで、

 「…わかれば、いいのさ…」

 と、もっともらしく言った…

 「…さっきも言ったように、私は、オマエを試したのさ…」

 「…試した?…」

 「…そうさ…さっき、私と、矢口トモコのことを、決して口外しないと、約束して、まだ、その舌の根も乾かないうちに、私の悪口を言う…それは、約束外のことだが、そんな女に、大事な約束を守れると思うか?…」

 「…」

 「…オマエはダメな女だ…その美貌にあぐらをかいて、今日まで生きてきたに過ぎん女だ…」

 「…ハイ…」

 「…だから、オマエは、ダメなのさ…」

 「…ハイ…」

 「…少しばかり、美人に生まれたからって、周囲からチヤホヤされて生きてきたから、甘えがあるのさ…だから、オマエは、正直、その美貌が衰えるまで、その曲がった性根は、治らんだろ?…」

 「…」

 「…そして、ある日、オマエは、自分が歳を取って、周囲の人間が、誰もオマエをチヤホヤしなくなる…それで、初めて気付くのさ…オマエの持つ魔法が消えたと…」

 「…魔法が消えた?…」

 「…若さという魔法さ…いくら、美人でも、歳には勝てん…オマエが40歳になれば、23歳の今のオマエに接するように、世の男たちは、接してくれんさ…」

 私は、断言した…

 「…だから、その日のために、私は、オマエに、世の中の渡り方を教えてやってるのさ…平凡な女が、どうやって、世の中を渡ってゆくのか、教えてやってるのさ…」

 私は、もっともらしく、断言した…

 実に、もっともらしく、言い切った…

 実は、それまで、そんなこと、1㎜も考えたことは、なかった…

 文字通り、1㎜も、だ…

 だが、

 このバニラのへりくだった態度を目の当たりにして、考えた…

 このバニラの風上に立てるのは、今しかないと、気付いたのだ…

 この平凡な矢田トモコが、世界を股にかけたトップモデルに勝てるのは、今しかないと、気付いたのだ…

 こんなチャンスを見逃すことはできない…

 まさに、千載一遇のチャンス…

 これを逃せば、二度とないチャンスかもしれなかった…

 だから、私は、腕を組みながら、バニラに説教した…

 そして、なぜか、私は、腕を組んでいたが、視線は、上を見ていた…

 身長159㎝の私は、身長180㎝のバニラを見上げるしかなかったからだ…

 私は、立派に腕を組みながら、バニラの言葉を待った…

 すると、まもなく、

 「…申し訳ありませんでした…お姉さんが、そんな深い考えで、私に接していたとは、気付きませんでした…」

 と、詫びた…

 私は、気持ちが良くなって、自然と、鼻の穴を大きく膨らませながら、

 「…わかれば、いいのさ…」

 と、告げた…

 このバニラ…

 バニラ・ルインスキー…

 世界的に著名なモデルが、私に屈服した瞬間だった…

 私の手下になった瞬間だった…

 私は、この瞬間を、生涯、忘れまい…

 この感動した瞬間を、生涯、忘れまい…

 なにしろ、世界を股にかける、絶世のモデル…

 バニラ・ルインスキー、そのひとが、私の手下になったのだ…

 私の配下になったのだ…

 冷静に、考えれば、これほどの感動はなかった…

 本当ならば、私の立場ならば、ペンと色紙を持って、バニラの元に、行き、

 「…バニラさん…お手数ですが、サインを頂けないでしょうか?…」

 と、土下座せんばかりに、頭を下げて、頼むところだ…

 しかも、相手は、このバニラ…

 ビックリするほど、根性のねじ曲がった女だ(爆笑)…

 性根のねじ曲がった女だ(爆笑)…

 だから、私が、土下座せんばかりに、頭を下げて頼んでも、きっと、その日の気分次第で、

 「…今日はダメ!…」

 とか、言って、サインしてくれない可能性が高い…

 私は、思った…

 一方、そうは言いながらも、仮に、バニラにサインをもらっても、私は、後生大事に、家宝のように、そのサインを大事にするかと、問われれば、それも、怪しかった…

 やはり、世の中、金だ…

 金が大事だ…

 ヤフオクやメルカリで、見て、3千円や、5千円では、サインは、売らんが、2万ぐらいすれば、心が揺らぐ…

 5万円ならば、すぐにでも、売り出すだろう…

 私は、思った…

 つまりは、この場合は、この矢田トモコが、

 「…バニラさん…スイマセン…サインをお願いします…」

 と、言ったことへの対価が、5万円なのだ…

 そう考えれば、この矢田トモコが、わざわざ、このバニラ風情に頭を下げたことにも、十分納得する価格だった…

 なにしろ、5万円だ…

 私のバイトの時給は、千円ちょっと…

 それに比べて、このバニラに頭を下げるだけで、5万円なのだ…

 つまり、この5万円は、いわば、この矢田のプライド…

 矢田トモコのプライドの価値が、5万円だった…

 つまり、頭を下げるのに、5万円、もらえれば、簡単に頭を下げますよ、と、言っているのと、同じだった…

 ふーむ…

 そう、考えると、この5万円は、高いのか、安いのか、さっぱり、わからんかった(笑)…

 ただの矢田トモコならば、いい…

 これまでの、無名の矢田トモコならば、いい…

 しかし、今は違う…

 クールの社長夫人…

 日本を代表する総合電機メーカーの社長夫人という地位がある…

 肩書がある…

 そんな偉い肩書をもった、お偉いさんの私が、たかだか、5万円で、プライドを売っていいものかどうか?

 いや、

 これは、パブリックではない…

 これは、プライベート…

 プライベートの金稼ぎだ…

 そう、考えれば、構わないだろう…

 いや、

 違う…

 例えば、日本の総理大臣が、ヤフオクやメルカリで、商品を転売して、儲けていれば、なんてヤツだと思う…

 人間性を疑う…

 だから、そんなことはできない…

 それと、同じで、私も、そんなことをしちゃいかんと、気付いた…

 しかし、同時に、バレなければ、OKとも、思った(笑)…

 悪魔の囁きというヤツだ(笑)…

 バレなければ、OK…

 犯罪にならなければ、OK…

 それが、基準ではないか?

 いや、

 犯罪ではないかもしれないが、そんなことをすれば、倫理観が、問われる…

 人間性が、問われる…

 それに、気付いた…

 それに、気付くと、やっぱり、立場を得るのは、大変だと、気付いた…

 これまでの矢田トモコならば、なんでもなかったことができなくなる…

 さっきの、このロビーの受付の関口という女のコが、そうだ…

 彼女が、

 「…奥様といっしょに、ダンスをしたのは、私の一生の思い出です…」

 なんて、言うものだから、このバニラが、発狂したと思っても、逃げれんかった…

 いつもなら、真っ先に、逃げ出す瞬間なのに、それが、できんかった…

 あのとき、このバニラが、本当に、発狂していれば、この矢田トモコは、真っ先に、呆気なく殺されていただろう…

 まるで、ライオンに、襲われた、可哀そうなウサギよろしく、呆気なく、ライオン=バニラの餌になったに違いない…

 私と、バニラとは、それほどの違いがある…

 持って生まれた、カラダの大きさの違いがある…

 いや、

 カラダの大きさだけではない…

 その美貌の違いも、甚だしい…

 まるで、バニラは、神様が、時間をかけて、念入りに作り上げた、芸術品のようだ…

 それに、比べ、この矢田は、大量生産の粗製の乱発品のようだ(涙)…

 とりあえず、作っただけ…

 品質も適当…

 最低限の品質だけ、クリアすればいい…

 そんな感じだった…

 正直、違いがあり過ぎた(涙)…

 しかしながら、私は、このバニラと出会ってから、今現在に至るまで、このバニラに、負けたと思ったことは、一度もない…

 一度も、だ…

 このバニラに後れを取ったと思ったことも、一度もない…

 これは、ウソではない!

 そんなことを言えば、ひとは、私が、頭がおかしいと思うかもしれないが、そうではない…

 自分でも、わからないが、なぜか、この矢田トモコが、バニラに負けたと、心の底から思えんのだ…

 なぜだかは、わからない…

 これは、リンダも同じ…

 リンダ…

 リンダ・ヘイワースは、ハリウッドのセックス・シンボルで、このバニラに匹敵する美貌の持ち主だから、当然、私が、叶う相手ではない…

 そもそも、私風情が、比較するのが、失礼…

 それほど、違う(涙)…

 にもかかわらず、このバニラ同様、あのリンダにも、私が、負けたと、心の底から、思ったことは、一度もない…

 これは、一体、どういうことだろうか?

 やはり、私の頭がおかしいのだろうか?

 真剣に考えた…

 その結果、

 いや、

 そうではない…

 身近になり過ぎたのだ…

 と、気付いた…

 どんな偉い人間でも、身近にいれば、偉い人間だと思えなくなる…

 たとえ、天皇陛下や総理大臣でも、それは、同じだ…

 子供の頃から、知っていて、オレ、オマエの仲ならば、相手がどんなに偉くなっても、決して、心の底から偉いとは、思えなくなる…

 それと、同じだ…

 私と、バニラやリンダは、まだ知り会って、それほどの期間ではないが、すでに、仲がいい…

 ビックリするほど、仲がいい…

 親密な関係だ…

 そして、そうなると、相手が、偉いとは、思わなくなる…

 極端な話、自分と大差ない人間だと、心の底から、思えてくる…

 が、

 それは、誤り…

 間違っている…

 本当は、天と地ぐらい違っている…

 天と地ぐらい差がある…

 それが、わかっていながら、わからなくなる(笑)…

 自分と、バニラ、リンダの差が、わかっていながら、わからなくなる…

 そういうことだ(笑)…

 しかし、それが、わかっていて、なお、このバニラや、リンダが、私を相手するのは、どうしてだろうか?

 ふと、疑問に思った…

 やはり、私が、葉尊の妻だろうか?

 二人とも、葉尊と親しい…

 だから、だろうか?

 そう、考えると、やはり、謎がある…

 私は、考え込んだ…

                
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