第9話

文字数 5,799文字

 「…なあ、バニラ…」

 私は、バニラと並んで、エレベーターを待ちながら、聞いた…

 「…なに、お姉さん?…」

 「…やっぱり、オマエもリンダが心配か?…」

 私の質問に、バニラは、

 「…」

 と、答えなかった…

 私は、どうしたのか? と、バニラを見上げた…

 なにしろ、バニラは、180㎝の長身…

 対して、私は、159㎝…

 バニラの表情を知るには、見上げるしかないからだ…

 すると、バニラは、今にも、泣きそうだった…

 すごく、哀しそうな表情をしていた…

 私は、驚いた…

 こんな表情をした、バニラをこれまで、見たことがなかったからだ…

 だから、

 「…どうした?…」

 と、バニラに聞いた…

 声をかけた…

 すると、

 バニラは、すぐには、答えなかった…

 哀しみをこらえている様子だった…

 「…ごめんなさい…」

 しばらくして、バニラが、口を開いた…

 「…なんだ? …どうした?…」

 「…リンダのことを、思うと…」

 「…どういうことだ?…」

 「…今、リンダは、メチャクチャ悩んでいると思うの…」

 「…どうしてだ?…」

 「…アラブの王族…」

 「…クールの接待か?…」

 「…そう…どうしても、私やリンダのように、美人を売りにする仕事に、接待は、欠かせない…」

 「…」

 「…その結果、嫌な思いをしたり、危険な目に遭うことも、しばしばっていうか…それが、半ば、日常になっている…」

 「…なかば、日常だと?…」

 私は、驚いた…

 開いた口が塞がらなかった…

 「…そう…日常…美人を売りにして、仕事をする…それは、ある意味、危険と隣り合わせ…」

 バニラが、深刻な表情で、告白した…

 私は、考え込んだ…

 まさか、ただだか、モデルや女優を続けることが、そんなに危険と隣り合わせだとも、思わなかったからだ…

 私は、驚き、かつ、同情した…

 たしかに、このバニラの言うことは、わかる…

 納得できる…

 が、

 美人を売りにすることが、そんなに危険と隣り合わせだとは、思わなかったからだ…

 私は、それがわかると、

 「…美人に生まれるのも、大変だな…」

 と、声をかけた…

 すると、バニラが、それまでとは、一転して、

 「…いいえ…」

 と、短く答えた…

 …いいえ? だと?…

 私が、驚いて、バニラを見ると、

 「…美人を売りにする以上、その覚悟はできていた…」

 と、笑った…

 が、

 その笑いは、寂しいものだった…

 「…これは、日本のAV女優も、アメリカのポルノ女優も皆、同じ…」

 「…同じ? …どういう意味だ?…」

 「…性を売り物にする以上、一生、それに縛られる…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…リンダは、ハリウッドのセックス・シンボル…まだ、スクリーンで、脱いではいないけれども、性=セックスを売りにする以上、危険は、伴う…」

 「…」

 「…どうしても、はずせない接待で、無理やりお酒を飲まされて、強引に、ベッドに連れ込まれそうになったことは、一度や二度どころじゃないはずよ…」

 「…」

 「…これは、今も言った、日本のAV女優も、アメリカのポルノ女優も、同じ…たとえ、脱いでも、脱がなくても、美人を売りにする以上、避けては、通れない道…」

 いつしか、バニラは、自分に言い聞かすように、言っていた…

 「…だから、それが嫌なら、美人を売りにする職業には、就かないこと…」

 と、バニラが笑った…

 「…有名になって、金は稼げるかもしれないけれども、危険と隣り合わせ…まあ、私もリンダも、大金を稼げるようになったから、十分、リターンは、あるっていうか…美人を売りにした見返りは得られたけれども…」

 「…」

 「…でも、これは、一般のひとでも、同じね…」

 「…一般のひとでも?…」

 「…日本の会社でも、学校でも、同じ…美人は、目立つでしょ? …だから、さまざまな男たちに告られる…言い寄られる…」

 「…」

 「…だから、それが、嫌で、家に引きこもったりする女もいる…どこに行っても、口説かれていたんじゃ、気が休まらないし、そのうち、外に出ることが、嫌になっても、おかしくはない…」

 「…」

 「…それに、比べれば、私も、リンダも、美人を売りにして、成功して、大金を得られたのだから、文句を言う筋合いでも、ないのかもしれない…」

 バニラが笑った…

 「…世の中には、美人は、いっぱいいる…でも、その美人を売りにして、成功するのは、ほんの一握り…日本でいえば、東大に入って、トップクラスの成績を収めるようなもの…信じられないくらい、低い確率…」

 「…」

 「…でも、そんな低い確率で、成功しても、今回のリンダのような悩みは、尽きない…ホント、世の中は、不公平ね…いや、公平なのか…美人に生まれ、美人を売りにして、成功しても、依然として、悩みは尽きない…美人であるというだけで、男に狙われ続ける…」

 「…」

 「…でも、それが華かも…」

 …どういう意味だ?…

 「…さっき、お姉さんが言ったように、歳を取れば、男から、告られなくなる…女として見られなくなる…」

 バニラが、笑った…

 「…でも、それは、それで、それで、残念ね…これまで、星の数ほど、口説かれていたのに、それが、一切なくなるなんて…」

 バニラが、告げる…

 私は、バニラの話を聞きながら、美人に生まれるのも、実に、大変だと思った…

 この矢田トモコも、これまで、さまざまなバイトをしていて、それなりに、美人の女を見てきた…

 ただし、それは、すべて、一般人…

 このバニラや、リンダのように、有名人ではない…

 そんな有名人ではない、一般人でも、美人のお姉さんと接して、大変だなと、感じたことは、ある…

 好きでもない男に好意を持たれて、困っている姿を、何度も見たことがあるからだ…

 ただし、あくまで、一般人…

 目の前のバニラや、あのリンダとは、違う…

 このバニラや、あのリンダは、男に口説かれるのも、一般の美人の比ではないだろう…

 それは、この矢田トモコにも、わかる…

 そして、それは、今、バニラが言った、危険に遭遇することでもある…

 男に変な薬でも飲まされて、意識がもうろうとして、気が付けば、ベッドに連れ込まれていたなんて、映画のような展開になったら、えらいことだ…

 私は、バニラの話を聞きながら、つくづく、美人に生まれなくて、良かったと思った…

 平凡なルックスに生まれて、良かったと、心の底から、思った…

 この矢田トモコは、実は、気弱…

 結構、気が弱かった…

 だから、無理やり薬でも、飲まされて、ベッドに連れ込まれでもしたら、大変だ…

 おおげさに、言えば、メンタルが崩壊するかもしれん…

 私は、思った…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…どうしたの? …お姉さん…そんな難しい顔をして?…」

 と、聞いた…

 私は、

 「…いや、私も、オマエやリンダのように、美人に生まれなくて良かったと、つくづく思って…」

 「…エッ?…」

 「…だって、そうだろ? 今、オマエが言ったように、美人に生まれたら、生まれたらで、大変な思いをするぐらいなら、私ぐらいがちょうどいいさ…」

 私は、断言した…

 「…お姉さんぐらいが、ちょうどいい?…」

 「…そうさ…」

 私は、半ば、冗談で言ったつもりだったが、バニラが、しばし、深刻に、考え込んだ…

 だから、逆に、心配になった…

 「…どうした? …冗談だ…冗談…本気にするな…」

 私が、言っても、バニラは、考え続けていた…

 「…いえ、確かに、お姉さんの言う通り…」

 バニラが、口を開いた…

 …なんだと?…

 …どういうことだ?…

 「…お姉さんのその愛されキャラ…それは、お姉さんの今のルックスがあってのもの…美人過ぎれば、お姉さんが、同じことをしても、周囲から、愛されないかもしれない…美人は、どうしても、敵を作りがちだから…だから、かえって、美人が邪魔になる…」

 …うまいことを言う…

 私は、思った…

 「…なんてね?…お姉さんが、美人に生まれるわけ、ないじゃない…」

 「…なんだと?…」

 私は、怒った…

 「…そもそも、お姉さんは、このバニラ・ルインスキーに馴れ馴れしくし過ぎ…」

 「…なんだと? …どういう意味だ?…」

 「…このバニラ・ルインスキーは、世界に名の知れたトップモデル…もちろん、リンダも、よ…」

 「…」

 「…それが、葉尊と結婚したからって、まったく無名の一般人だった、お姉さんが、馴れ馴れしくし過ぎ…私とリンダと、お姉さんとは、天と地ほどの差があるの…」

 「…差なんてないさ…」

 「…あるの…」

 バニラが、ムキになって、反論した…

 「…ないさ…」

 「…ある…」

 「…だったら、オマエは空が飛べるか? 天使のように、オマエの背中に羽が生えているか? 生えてないだろ? それを、思えば、私も、オマエも、リンダも、皆、同じさ…ただの人間…地球人さ…」

 「…お姉さん…本気で、言っているの?…」

 「…本気も、本気さ…この矢田トモコは、いつも本気さ…」

 私とバニラは、いつのまにか、睨み合っていた…

 私の細い目と、バニラの青い目が、睨み合った…

 文字通り、バチバチと、火花を散らして、睨み合った…

 私は、なぜか、バニラが怖くはなかった…

 なぜだかは、わからない…

 が

 ただ、怖くなかった…

 私が、正論を言っている自信があったからだ…

 正直、自分でも屁理屈を言っている自覚もあったが、まったくのウソを言っているわけではない…

 ひどく大きな視点で見れば、私も、バニラもリンダも、皆、同じ…

 いっしょだ…

 空を飛べるわけではないし、地中に潜れるわけでもない…

 同じ人間という範疇で、考えれば、同じだ…

 だから、私は、自信があった…

 バニラは、憎々しげに、その青い瞳で、私を睨んでいたが、臆することがなかった…

 しかしながら、バニラは、強気の私の態度が、不思議だったようだ…

 「…どうして、お姉さん…そんなに強気になれるの?…」

 「…私が、間違ってないからさ…」

 「…間違ってない?…」

 「…そうさ…」

 「…そんな屁理屈をこねて…間違ってないなんて…」

 言いながら、

 「…そうか…」

 と、声を上げた…

 「…約束ね?…」

 「…約束だと?…」

 「…さっきした約束…私が、お姉さんに逆らえば、金輪際、お姉さんが、娘と、遊んでやらないという約束…」

 「…」

 「…それがあるから、お姉さんは、そんなに強気なんだ…」

 と、バニラは、自分自身に納得させるように、言った…

 私は、驚いた…

 私自身は、そんな気はまったくなかったが、なぜか、そんな展開になっていた…

 いつものことだった(笑)…

 だが、これで、私の有利な展開になったことは、間違いがない…

 なにより、急に、バニラの敵意がなくなったのが、手に取るように、わかった…

 見る見る敵意がなくなったのだ…

 「…ゴメンナサイ…」

 と、バニラが、いきなり、謝った…

 文字通り、平身低頭だった…

 「…お姉さんとの、約束を忘れていました…」

 「…わかれば、いいのさ…」

 私は、自慢げに言った…

 またも、私の鼻の穴が少しばかり、広がった…

 得意満面になった…

 「…実は、葉敬にも、言われてました…」

 「…なにを、だ?…」

 「…お姉さんには、決して、逆らっては、ならない、と?…」

 「…なんだと?…」

 「…これは、リンダも同じです…なにが、あっても、お姉さんには、逆らってはならないと、葉敬は、私たち二人に厳命しています…だから、それもあって、私とリンダが、お姉さんに、逆らうことは、そもそも、ありえないです…」

 …そうか?…

 …そういうことか?…

 だから、リンダも、このバニラも、私に逆らわないんだ…

 ようやく、納得がいった(笑)…

 本当は、私よりもはるかに、美人で、世界的に有名な、リンダとバニラが、なぜ私風情を相手にしていることが、よくわからなかった…

 理解できなかった…

 このバニラとリンダは、私から見れば、雲上人…

 文字通り、雲の上のひとだ…

 たとえ、知り合いになっても、相手にしてくれるわけがない…

 にもかかわらず、親しくしてくれる…

 まるで、昔からの友人のように、接してくれる…

 それが、なぜだか、わからなかった…

 なぜ、そんなにも、身近な距離感で、私に接してくるのか、わからなかった…

 しかし、それが、今、このバニラの言葉で、葉敬の指示だと、わかった…

 私の夫、葉尊の父、葉敬の指示だとわかった…

 が、

 すると、今度は、どうして、葉敬が、そんな指示を、このバニラと、あのリンダにしたのか、謎がある…

 それは、やはり、私が、息子の葉尊の妻だからだろうか?

 だから、だろうか?

 葉尊の妻だから、そのように、接しなさいと、バニラとリンダに厳命しているのだろうか?

 疑問だった…

 が、

 おそらく、それが、答えだろうとも思った…

 世界的に有名なバニラとリンダが、私と、身近に接することで、大げさにいえば、私の株が上がる…

 あのハリウッドのセックス・シンボルのリンダ・ヘイワースと、この世界的に著名なモデル、バニラ・ルインスキーが、私、矢田トモコと、親しく接していることを、周囲の人間に見せることで、私という人間の評価に下駄を履かせるというか…

 実際以上に、凄い人物だと、周囲にアピールすることができる…

 それが、狙いだと気付いた…

 そして、それが、わかると、正直、意気消沈した…

 あまりにも、自分が、たいした人間じゃないと、気付いたのだ…

 元々、自分でも、自分が、たいした人間だとは、これっぽっちも思ってなかったが、この事実が、わかると、余計に、落ち込んだ…

 葉敬が、私に気を使ってくれるのは、ありがたかったが、それが、かえって、嫌だった…

 葉敬には悪いが、そうやって、私に気を遣うことで、余計に、自分自身が、たいした人間じゃないことを、悟らせることになったからだ…

 私は、それまで、このバニラと、まるで、殴り合いのケンカをするような勢いだったのに、それが、ボクシングでいえば、グラブを交えることなく、相手にノックアウトされたようなものだった…

 相手が、なにもしていないのに、自分から、リングに倒れ込んだようなものだった…

 正直、惨めだった…

 自分が、惨めだった…

 そして、そんなことを、考えていると、目の前に、エレベーターがやって来て、扉が開いた…

                

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