第111話

文字数 5,350文字

 「…葉問…もう、いいさ…」

 「…なにが、いいんですか?…」

 「…葉尊に戻れ…葉尊と、交代しろ…これ以上、オマエと言い争っても、仕方ないさ…」

 「…たしかに…」

 葉問は、笑った…

 が、

 その笑いは、実に魅力的だった…

 魅力に、溢れていた…

 葉尊では、絶対、できない笑いだった…

 私は、つくづく、この葉問と、夫の葉尊を比べて、中身が、大切だと、思った…

 なぜなら、同じカラダを使っているにも、かかわらず、全然、印象が違う…

 まったくの別人…

 別人だ…

 写真では、同一…

 同じカラダを使っているから、同一だ…

 が、

 動き出せば、違う…

 そういうことだ…

 私は、それを見て、昔の偉人を、映像で、見た、ことを、思い出した…

 例えば、明治の元勲、伊藤博文…

 すでに、おじいさんになった年齢の伊藤博文が、神奈川県の大磯の海岸を歩いている光景を、映像で、みたが、なんとなく、人間が、軽いのだ…

 昔の映像だから、音声は、ついてないが、映像だけ、見る限りは、人間に、重みが、なかった…

 ハッキリ言えば、教科書で、見た、立派な伊藤博文とは、違う、人間が、そこに、いた…

 つまりは、今風な言葉で、いえば、盛っているというか(笑)…

 教科書には、わざと、迫力のある、堂々とした写真が、そこにあったということだ…

 私は、それを、思い出した…

 すると、なんだか、楽しくなった…

 だから、つい、頬が緩んだ…

 そして、そんな私を見て、葉問が、

 「…お姉さん…なんですか、一体? …なにが、楽しいんですか?…」

 と、聞いた…

 私は、一瞬、言おうかどうか、迷ったが、すぐに、

 「…オマエと、葉尊さ…」

 と、言った…

 隠すことは、ないと、思ったのだ…

 「…ボクと、葉尊…ですか?…」

 「…そうさ…」

 「…ボクと葉尊のなにが、面白いんですか?…」

 「…外見は、同じだが、中身が、違う…」

 私が、指摘した…

 「…すると、どうだ? 見た目が、まったく、変わって来る…まったくの別人になる…同じカラダを使っているにも、かかわらず、だ…」

 「…」

 「…これが、面白くなくて、どうする?…」

 私が、言うと、葉問は、黙り込んだ…

 「…」

 と、しばらく、口を利かなかった…

 ようやく、口を開いたときは、

 「…まったく、お姉さんというひとは…」

 と、笑っていた…

 「…わけのわからないことを、言ったと、思えば、すぐに、まともなことを、言う…どっちが、本当のお姉さんだか、わからなくなる…」

 「…わけのわからないことだと? なんだ、それは?…」

 「…ボクが、バニラと関係すると、いうことです…天地が、ひっくり返っても、ありえないことです…」

 「…どうして、断言できる…バニラは、あれほどの美人だゾ…」

 「…素(す)のバニラは、真面目で、おとなしい女です…」

 「…おとなしい? …あのバニラが、か?…」

 「…そうです…」

 「…どうして、わかる?…」

 「…バニラの人脈です…」

 「…人脈だと?…」

 「…葉敬は、真面目…お姉さんも、真面目…ああ、見えて、バニラは、根が真面目なんです…だから、バニラが、甘える人間は、真面目な人間ばかり…」

 「…バニラが、私に甘える? なにを、バカなことを、言ってるんだ?…」

 「…いえ、バニラは、間違いなく、お姉さんに、甘えてます…その証拠に、お姉さんと、いるときは、いつも、楽しそうです…」

 「…楽しそう?…」

 「…ひとは、ちょっとしたことで、どんな人間か、バレます…いくら、外見が、おとなしそうな人間でも、付き合う人間が、皆、極端な話、前科のあるような人間なら、その人間は、見かけとは、中身が、まったく違うことが、わかるでしょ?…」

 「…」

 「…バニラは、ああ見えて、純粋で、一途な女です…」

 「…一途な女? …あのバニラが、か?…」

 「…そうです…親子ほど、歳の離れた葉敬の子供を産んだのも、ただ、葉敬が、好きだからです…決して、葉敬の財産目当てでも、なんでも、ありません…」

 「…」

 「…むしろ、危険なのは、リンダです…」

 「…リンダだと? …どうして、リンダなんだ?…」

 「…ああ見えて、リンダは、直情型です…」

 「…直情型だと?…」

 「…思うと、すぐに、行動に移す…」

 「…」

 「…その点、バニラは、違う…」

 「…どう、違うんだ?…」

 「…周囲を慎重に見て、行動を決める…決して、一時の感情では、動かない…」

 「…」

 「…今、リンダは、オスマン殿下の懐に、入り込もうとしています…」

 「…オスマン殿下の懐だと? …どういう意味だ?…」

 「…オスマン殿下の人脈です…」

 「…人脈?…」

 「…どこの国の、誰と、繋がっているのか、リンダは、知りたいのだと、思います…」

 「…どうして、そんなことを? …リンダには、セレブのネットワークがあるだろ?…」

 私の問いに、葉問は、笑った…

 「…なにが、おかしい?…」

 「…お姉さん…」

 「…なんだ?…」

 「…リンダ・ヘイワースのセレブのネットワークは、ただのリンダのファンクラブでは、ありませんよ…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…ファンの一方通行では、ないということです…」

 「…一方通行ではない?…」

 「…いわば、双方向…つまり、持ちつ持たれつという側面が、あるということです…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…リンダは、世界中に、セレブのファンを持っています…これは、確かです…だから、セレブのファンから、アレコレ、情報を得る…決して、表には、出ない情報も、手に入れることが、できる…」

 「…」

 「…その一方、リンダのセレブのファンもまた、リンダの情報収集力に、期待する部分もある…」

 「…リンダの情報収集力だと? …どういう意味だ?…」

 「…ハリウッドのセックス・シンボル、リンダ・ヘイワース…抜群の知名度を、誇る…そして、その知名度を生かして、どこに、でも、行ける…」

 「…葉問…オマエ、なにが、言いたい?…」

 「…人間の絆のサマセット・モームと同じです…」

 「…同じ?…」

 「…世界中に知られた有名人…どこの国にも、行ける…誰にも、疑われることなく…」

 「…」

 「…スパイには、最適です…」

 「…スパイだと?…」

 「…つまり、情報の橋渡しです…リンダ自身は、スパイでも、なんでもないが、あるファンから、聞いた話を、別のファンに、話すことは、できる…もっとも、それは、たわいもない情報に限りますが…ですが、それを、大事に思うファンもいます…」

 「…」

 「…要するに、リンダは、オスマン殿下を、自分のセレブのネットワークに、組み込みたいのです…ですが、オスマン殿下は、決して、それを認めないでしょう…」

 「…どうして、認めないんだ?…」

 「…それは、殿下が、サウジの…いえ、アラブの至宝と呼ばれる、アラブ世界の重鎮の一人だからです…」

 「…重鎮…あの殿下が?…」

 「…そうです…」

 「…だが、殿下は、リンダの大ファンじゃ?…」

 「…それと、これとは、話が、別です…」

 「…別?…」

 「…そうです…だから、それを、リンダが、承知していれば、いいのですが…」

 「…承知していなければ、どうなる?…」

 「…殺されるでしょう…」

 あっさりと、葉問が、言った…

 「…殺す? …リンダを? だって、オスマン殿下は、リンダの大ファンだゾ…」

 「…それと、これとは、話が別です…リンダが、もし、オスマン殿下が、踏み込んではいけないと、決めた領域に、踏み込めば、いかに、リンダとて、どうなるかは、わかりません…」

 なんと?…

 話が、そんな大事になるとは?

 まさに、まさかだ…

 「…そして、もし、そうなったら、リンダを助けられるのは、お姉さんだけです…」

 「…私だけ?…」

 「…いえ、もう一人、いました…」

 「…もう一人だと? …誰だ、それは?…」

 「…マリアです…」

 「…マリアだと?…」

 「…ハイ…」

 「…でも、葉問、どうして、マリアなんだ? …今、オマエが、言ったように、オスマン殿下が、踏み込んでは、いけない領域に、リンダが、踏み込んだら、殿下は、容赦しないのだろ?…」

 「…お姉さん…考えて、見て下さい…」

 「…なにを、考えるんだ?…」

 「…殿下は、リンダと、会ったことが、ありませんでした…ですが、マリアは、殿下の身近にいます…」

 「…なにが、言いたい?…」

 「…例え、リンダの大ファンでも、昨日、今日会ったばかりの人間よりも、普段、身近に接していて、自分を大事に思ってくれる人間の方が、誰もが、大切だということです…」

 「…」

 「…そして、それは、殿下も、例外ではないということです…」

 「…例外では、ない?…」

 「…マリアは、子供ながら、おせっかい焼きです…だから、セレブの保育園で、周囲の園児たちと、うまくいかないオスマン殿下の面倒を見ようとしています…そして、それを、殿下は、煩わしいと、思う反面、喜んでます…」

 「…」

 「…ちょうど、母親がいないときに、幼い娘が、母親に代わって、甲斐甲斐しく、父親の面倒を見ようとしている…そんな感覚に、近いのだと、思います…」

 「…」

 「…だから、そんなマリアが、オスマン殿下に、頼み込めば、仮に、リンダが、オスマン殿下の逆鱗に、触れたとしても、許すかも、しれません…」

 「…」

 「…まあ、あくまで、可能性ですが…」

 そう、葉問は、付け加えて、笑った…

 と、同時に、私は、リンダが、心配になった…

 もし、今、葉問が、言ったように、リンダが、オスマン殿下の懐に、入ろうとして、殿下の逆鱗に触れでも、したら、マズいと、思ったのだ…

 なにより、この葉問は、ウソは、言わない…

 この葉問は、決して、心の底から、信用できる人間では、ないが、私には、ウソは、言わない…

 これまで、私に、ウソを言ったことなど、一度もない…

 むしろ、いつも、この葉問は、私を助けてくれた…

 陰で、助けてくれた…

 なぜか、助けてくれた…

 どうしてだかは、わからない…

 おそらく、それは、葉尊のためかも、しれない…

 私の夫は、葉尊…

 葉問ではない…

 葉問は、葉尊の弟…

 一卵性双生児の弟だ…

 だからか、私が、葉尊に、不審を持ったときも、葉問は、現れて、葉尊の真意を私に説いて、私が、葉尊に感じた疑惑を取り除いてくれた…

 だから、ある意味、常に、私と葉尊の間を取り持ったのは、葉問だった…

 葉問が、いなければ、私は、葉尊と、夫婦を続けられなかったかもしれない…

 元々、私と、葉尊は、格差があり過ぎる…

 葉尊は、台湾の大金持ちの御曹司…

 片や、

 私は、日本の平凡な家庭の生まれ…

 さらに、

 葉尊は、長身のイケメン…

 片や、

 私は、まったくの平凡な容姿…

 別段、美人でも、なんでもない…

 だから、

 私と葉尊を比べれば、比べるほど、おかしい…

 すべてにおいて、差があり過ぎるのだ…

 だから、私は、自分が、嫌になったことが、何度か、あった…

 自分が、惨めになったことが、何度か、あった…

 が、

 そのたびに、この葉問が、突然、現れ、私と葉尊の間を修復してくれた…

 厳密に言えば、私が、葉尊と、自分が、釣り合わな過ぎるので、一方的に、身を引こうと、何度か、思ったことが、あったが、そのたびに、葉問が、現れて、アレコレ、私に話しかけて、私の気持ちを、変えさせてくれたのだ…

 だから、厳密に、言えば、この葉問こそ、私にとって、最大の恩人かも、しれなかった…

 この葉問が、いなければ、私が、今、現在、葉尊と暮らしていたか、どうかも、怪しい…

 私は、金目当てで、葉尊と結婚したわけではない…

 いや、

 例え、金目当てで、結婚したとしても、葉尊と自分の違いが、あまりにも、凄すぎるので、気持ちが、萎えただろう…

 よく、貧乏人の男が、金持ちの娘を、ゲットする…

 あるいは、

 貧乏人の娘が、金持ちの男をゲットする…

 ということがある…

 が、

 普通の感覚の持ち主ならば、すぐに、釣り合わないことに、気付く…

 おおげさに、言えば、年収2百万の人間と、年収一億円の人間が、結婚して、うまくゆくわけがないからだ…

 まずは、育ってきた環境が、違う…

 名門の小学校、あるいは、幼稚園から、大学まで、名門の学校に通い、有名店の常連…

 なにより、金の使い方が違う…

 だから、育ってきた生活環境が、違うから、互いに馴染めない…

 最初のうちは、相手の感覚が、あまりにも、違うから、面白がったりするかもしれないが、やがて、現実の壁に直面する…

 生まれ育った生活環境の違いを超えられないことに、悩む…

 それが、普通の人間だ…

 だから、私も、悩んだ…

 この矢田トモコも、悩んだ…

 この矢田トモコは、平凡な人間だからだ…

 平凡、極まりない人間だからだ…

 が、

 そのたびに、この葉問が、現れ、この矢田をサポートしてくれた…

 元気づけて、くれた…

 だから、冷静に、考えれば、恩人…

 私と葉尊にとって、一番の恩人だった…

 が、

 どうしても、そうは、思えんかった…

 背後に、なにか、あるのではと、睨んだ…

 この葉尊の背後に、誰か、いるのでは? と、睨んだ…

 ずばり、女の直感だった…

 矢田トモコの直感だった…

               

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