第55話

文字数 6,293文字

 …大変なことになった…

 それが、偽らざる気持ちだった…

 マリアが、可哀そうになり、つい、

 「…行ってやるさ…」

 と、口に出してしまった…

 約束してしまった…

 我ながら、軽率というか…

 考えが、足りなかった…

 「…でも、それが、お姉さんのいいところね…」

 と、バニラが帰った後に、入れ替わりに、私の家に、やって来たリンダが、言った…

 リンダ=ヤンが、言った…

 「…なにが、いいところだ?…」

 私は、不機嫌に言った…

 「…お姉さんの優しさ…非情になれない…」

 「…非情だと?…」

 「…そう…冷たくなれない…お姉さんが、あの矢口のお嬢様を苦手なのは、わかる…でも、それがわかっていても、マリアが、可哀そうだと思って、つい、保育園のお遊戯大会に、参加してやるって、言ったんでしょ?…」

 「…そうさ…」

 「…それが、お姉さんのひとの良さ…だから、お姉さんは、誰からも好かれる…」

 ヤン=リンダが、言った…

 が、

 私は、そんなことを言われても、全然、嬉しくなかった…

 なかったのだ…

 とにかく、あの矢口のお嬢様とは、会いたくなかった…

 あのお嬢様の顔を見たくなかった…

 が、

 見ざるを得なかった…

 「…正直、気が重いさ…」

 私が、愚痴ると、

 「…どうして、そんなに、あのお嬢様が、嫌なの?…」

 と、ヤンが、直球で、聞いた…

 「…あのお嬢様は、決して、悪い人間じゃないさ…ただ…」

 「…ただ、なに?…」

 「…利にさといというか…私を利用しようとするのさ…」

 「…お姉さんを利用?…」

 「…そうさ…私とお嬢様は、外見が瓜二つ…二人並べば、どっちが、矢田トモコで、どっちが、矢口トモコか、わからんさ…もちろん、オマエやバニラは、身近に、私を見ているから、違いはわかるさ…でも、お嬢様や、私と、普段、あまり接していない人間は、わからんさ…」

 私の言葉に、リンダ=ヤンは、考え込んだ…

 だから、

 「…どうした? …ヤン?…リンダ?…」

 と、聞いた…

 「…それって、なりすましができるってこと?…」

 「…なりすましだと? …どういう意味だ?…」

 「…つまり、あのお嬢様が、お姉さんのフリをする…クールの社長夫人になりすます…」

 「…」

 「…あるいは、真逆に、お姉さんが、スーパージャパンの社長になりすます…」

 ヤンが、言った…

 私は、驚いた…

 驚いたのだ…

 その発想はなかった…

 いや、

 以前、あのお嬢様は、私を替え玉にした…

 影武者にした…

 だとしたら、今度の保育園のお遊戯大会でも、あのお嬢様は、私になりすます可能性があるということだ…

 仮に、私に、なにか、用事を命じて、その間に、私になりすまして、なにかをすることが、できるわけだ…

 私は、思った…

 思いながら、それが、実は、今度のお嬢様の狙いではないかと、思った…

 目的ではないかと、思った…

 が、

 それは、難しい…

 できないかもしれない…

 なぜなら、マリアがいる…

 マリアが、近くにいる限り、あのお嬢様が、私になりすますことはできない…

 なにしろ、マリアは、私を知っている…

 矢田トモコを知っている…

 だから、いかに、外見がそっくりでも、私のフリをすることは、できない…

 マリアが、すぐに、気付くからだ…

 いや、

 そうではない…

 ここで、肝心なのは、マリアではない…

 矢口トモコが、矢田トモコになりすますことだ…

 それが、バレなければ、いい…

 つまりは、マリアの目の届かないところで、私になりすませばいい…

 私は、思った…

 そんなことを、考えていると、

 「…なにを、考えているの?…」

 と、ヤンが聞いた…

 「…お嬢様の目的さ…」

 と、答えた…

 「…目的?…」

 「…そうさ…最初は、あのお嬢様は、どこからか、ファラドや、オスマンのことを、聞いたと、思ったのさ…それで、クールが、開く、大規模なパーティーよりも、こじんまりとした、保育園のお遊戯大会に参加したほうが、ファラドや、オスマンと親密になれると、判断したと思ったのさ…」

 「…」

 「…でも、もしかしたら、それだけじゃないかもしれん…」

 「…どういうこと?…」

 「…私になりすまして、なにかをしたいのかもしれん…」

 「…まさか?…」

 「…その、まさかさ…」

 「…たとえば、クールさ…」

 「…クールが、どうかしたの?…」

 「…私になりすませば、クールの社長室だって、ノーパスで、入ってゆける…夫の葉尊に会いに来たとでも、言えばいい…普通のサラリーマンなら、そんなことは、できないが、葉尊は、クールのオーナー経営者…だから、顔パスで、社長室だって、入ってゆける…」

 「…」

 「…とにかく、あのお嬢様には、気をつけねば、ならん…油断できん…」

 「…そういえば…」

 「…そういえば、なんだ?…」

 「…私のCM…」

 「…CMが、どうかしたのか?…」

 「…お姉さんも知っている、スーパージャパンで、販売を予定している、化粧品のCM…動き出したわ…」

 「…動き出した? どういうことだ?…」

 「…最近になって、撮影が、始まることになったの…」

 「…なんだと?…」

 「…しかも、撮影場所は、この日本…」

 「…日本だと?…」

 「…たしかに、化粧品のCMだから、スタジオで、撮影できる…それでも、このリンダ・ヘイワースが…ハリウッドのセックス・シンボルのCMの撮影が、日本で、行われるなんて、異例中の異例…そんな話、これまで、聞いたこともない…」

 「…」

 「…きっと、誰かの力が、動いている…」

 「…誰かの力? …お嬢様の力か…」

 「…それはない…」

 ヤン=リンダが、ゆっくりと、首を横に振った…

 「…たかだか、日本の激安スーパーのオーナー程度で、リンダ・ヘイワースのCMの撮影場所を指定することはできない…」

 「…だったら、誰だ?…」

 「…わからない…」

 ヤン=リンダは、またも、首を横に振った…

 「…でも、考えられることは、ある…」

 「…なんだ?…」

 「…あのお嬢様が、いくら金を積もうと、リンダ・ヘイワースを動かすことはできない…」

 「…」

 「…でも…」

 「…でも、なんだ?…」

 「…人を介して…ある人物を間に入れてなら、できる…」

 「…どういうことだ?…」

 「…たとえば、ファラド…」

 「…ファラドだと?…」

 「…そう…ファラド王子を間に入れれば、リンダ・ヘイワースのCMの撮影を日本で、やらせることができる…」

 「…」

 「…しかも、今、ファラドは、日本にいる…同じく、今、日本にいるリンダ・ヘイワースのCMの撮影を見学したいと言わせれば、いい…」

 「…」

 「…そう考えれば、辻褄が合うというか…考えられないことではない…」

 「…」

 「…人生は、いつも、偶然が、左右するもと、思いがちだけど、必然もある…」

 「…必然だと? …どういう意味だ?…」

 「…あらかじめ、誰かが、仕組んでいる…シナリオを書いている…ただ、演じている人間たちが、そのシナリオを知らないだけ…」

 「…」

 「…って、もしかしたら考え過ぎだけれども、思った…」

 リンダ=ヤンが、笑った…

 「…まあ、あくまで、私の想像でしかないから、お姉さんも、深刻に受け取らないで…」

 リンダが、続けた…

 が、

 私は、リンダの言葉を軽く受け流すことは、できんかった…

 リンダの言うことは、イチイチもっとも…

 理にかなっているからだ…

 たしかに、なにか、大きな力が動かなければ、リンダのCMの撮影が、日本で行われることは、ありえない…

 ハリウッドのセックス・シンボルが、日本で、CMの撮影をすることは、ありえない…

 リンダ・ヘイワースのハリウッドのセックス・シンボルという肩書は、伊達ではない…

 おおげさに言えば、日本の天皇陛下や、イギリスのエリザベス女王と同じ…

 立派な肩書を持つ人間には、それ相応の対応が必要となる…

 そうでなければ、格が保てないからだ…

 たとえば、天皇陛下が、いつも、宮内庁の食堂で、気さくに、宮内庁の職員と食事を取っていては、格は保てない…

 そういうことだ…

 ハリウッドのセックス・シンボルである、リンダ・ヘイワースが、CMの撮影をすると、すれば、豪華な撮影所で、それこそ、目の玉が飛び出るほどのギャラをもらわなければ、ならない…

 そうでなければ、ハリウッドのセックス・シンボルという格=威厳が保てないからだ…

 わかりやすい例えでいえば、レディーガガが、コンサートをするようなものだ…

 バックにゴージャスなバンドを従える…

 それゆえ、レディーガガになれるのだ…

 ソロで、たったひとりで、アカペラで、唄っても、それは、レディーガガではない…

 つまり、そういうことだ…

 その前例を覆して、CMの撮影を日本でするということは、相当な金が、水面下で、動いているということだ…

 そして、それは、必ずしも、リンダの意思ではない…

 莫大な金額が、手に入るかもしれないが、その金額も、リンダに還元されるか、どうかは、わからない…

 世の中、残念ながら、そういうものだ…

 肝心の当事者である本人の意思とは、まったく関係のないところで、すべて、決められている可能性が高い…

 残念ながら、それが、真実だ…

 ある意味、操り人形…

 自分のことなのに、自分で、決められない(涙)…

 自分の意思が、通らない…

 昨今、日本の芸能界でも、独立が、頻繁に起こるのは、そういう事情と、無関係では、あるまい…

 ふと、思った…

 誰でも、十代や二十代前半で、デビューして、当初は、事務所の用意した仕事をがむしゃらに、こなしてゆく…

 が、

 ある程度、経験を積み、歳を取れば、自分の意見を言いたくなる…

 自分の主張を通したくなる…

 これは、誰もが、同じ…

 どんな人間も同じだ…

 そして、今は、ネットがあるから、芸能活動もテレビが主流ではなくなったから、独立も、以前に比べ、容易になった…

 そういうことだろう…

 ふと、思った…

 が、

 リンダにそれは、当てはまらない…

 バニラにも、だ…

 リンダも、バニラも、活躍する舞台は、ネットではないからだ…

 私は、思った…

 だから、二人とも、独立ができない…

 二人は、現役を引退したら、どうするのだろう?

 とも、思った…

 やはり、現役時代に築いた名声を武器に、会社を興したりするのだろうか?

 化粧品の会社とか、芸能プロダクションとか、そういうものだろうか?

 いや、ハリウッドに芸能プロダクションは、ないか?

 日本とは、芸能界の仕組みが違うと聞いたことがある…

 あちらは、エージェント制…

 エージェント=代理人が、仕事をとってくると、聞いたことがある…

 だったら、リンダは、将来、エージェントになるのだろうか?

 わからない…

 なにしろ、異国だ…

 ハリウッドの芸能システムが、わからないからだ…

 私が、そんなことを、悩んでいると、リンダもまた、なにやら、考え込んでいるようだった…

 だから、

 「…どうした? …リンダ?…」

 と、聞いた…

 すると、

 「…お姉さん…」

 と、考え込みながら、リンダが、言った…

 リンダ=ヤンが言った…

 「…なんだ?…」

 「…そのお遊戯大会…私も行っちゃ、ダメかな?…」

 「…なんだと?…」

 私は、驚いた…

 「…どうして、オマエが?…」

 「…ファラドに会ってみたい…」

 「…ファラドに?…」

 「…リンダ・ヘイワースの大ファンを公言するファラドが、どんな男か、見てみたい…」

 ヤン=リンダが、言った…

 「…ダメかな?…」

 「…ダメもなにも、決めるのは、私じゃないさ…」

 「…だったら、誰なの?…」

 「…バニラに決まってるだろ? …バニラの娘のマリアの通う保育園のお遊戯大会だ…」

 「…そうか? …そうだった…」

 ヤンが、照れ笑いを浮かべた…

 しかしながら、ヤン=リンダの気持ちは、わかる…

 そもそも、ファラドが、リンダを狙っているという話だった…

 それが、当初の話だった…

 今となっては、それが、本当か、どうかは、わからない…

 が、

 やはりというか…

 リンダとしては、一度は、ファラドに会ってみたいと、思うのが、人情だった…

 自分を手に入れたいと公言するファラドに会ってみたいと、思うのが、普通だった…

 しかも、リンダは、普段は、ヤンの格好をしている…

 ヤンという男の格好をしている…

 男装をしている…

 だから、ファラドと直接会っても、すぐに、リンダ・ヘイワースと、気付かれる心配はない…

 だとすれば、冷静に、ファラドを見ることができる…

 冷静にファラドを観察することができる…

 クールが主催する形式ばったパーティーで、タキシードを着たファラドと、深紅のドレスをまとったリンダ・ヘイワースとして、出会うよりも、冷静に相手を観察できる…

 そういうことだろう…

 「…たしかに、オマエの気持ちはわかる…」

 と、私は、重々しく言った…

 「…でしょ?…」

 と、ヤンが、我が意を得たりとばかりに、言った…

 「…だが、これは、マリアの通う保育園さ…マリアは、当然のことながら、母親のバニラの許可も得なければ、ならんゾ…」

 「…それは、わかってます…」

 リンダが、笑った…

 私は、そのリンダ=ヤンの顔を間近に見ながら、考えた…

 大胆なことをすると、思ったのだ…

 なにしろ、会うのが、ファラドだ…

 サウジの王族だ…

 その王族が、リンダ・ヘイワースを手に入れたいと、公言しているのだ…

 それが、ウソかホントかは、わからない…

 別になにか、目的があるのかもしれない…

 が、

 いくらなんでも、自分を手に入れたいと、公言する人間に、直接会うのは、リスクがあり過ぎる…

 危険過ぎる…

 いかに、ヤンという姿で、男装をしていても、気付かれる危険もあるに違いない…

 このリンダという女…

 一見すると、おとなしめに見えるが、その素顔は、あのバニラよりも、勇敢というか、気が強い…

 あのヤンキー上がりのバニラよりも、気が強い…

 あのバニラでも、おそらく、そんなことはしないだろう…

 もし、ファラドと会って、自分が、本物のリンダ・ヘイワースとバレれば、いきなり、リンダは、サウジに連れて行かれる危険があるからだ…

 普通、誰もが、そんな危険を冒すことはできない…

 サウジに連れて行かれるということは、すなわち性奴隷とまでは、言わないが、もはや、二度と、アメリカや、この日本に戻ってこられないかもしれないからだ…

 それが、十分わかっているにも、かかわらず、ファラドに会いたいというとは…

 無謀過ぎる…

 いくら、なんでも、無謀過ぎる…

 だから、

 「…リンダ…オマエ…ファラドと会って、リンダとバレたら、どうするんだ?…」

 と、思わず、私は、怒鳴った…

 「…オマエ…もしかしたら、サウジに連れて行かれて、サウジから一生出れないかもしれないゾ…」

 私が、続けると、

 「…そのときは、そのとき…」

 と、リンダ=ヤンが、即答して、笑った…

 「…オマエ…気は確かか? …正気か?…」

 「…虎穴に入らずんば虎子を得ず…日本のことわざね…」

 「…」

 「…それぐらいの覚悟は、ないと、なにもできない…」

 リンダが、笑った…

 「…心配しないで…手は打ってある…」

 「…手? …どんな手だ?…」

 「…それは、秘密? …いくら、お姉さんでも、それは、教えられない…」

 そう言って、目の前のリンダ=ヤンは、不敵に笑った…

 笑ったのだ…

 それを見て、私は、今さらながら、このリンダ・ヘイワースという女は、火のような女だと思った…

 勇猛果敢な兵士のような女だと、思った…

                

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