第28話

文字数 6,443文字

 夫の葉尊が、悩んでいた…

 目の前で、悩み抜いていた…

 だから、私は、優しく、

 「…これ以上は、言うまい…」

 と、告げた…

 「…オマエも立派な大人さ…クールの社長さ…そんなオマエに、いくら、六歳年上でも、妻の私が、ああだ、こうだ、言うのは、間違ってるさ…」

 「…」

 「…後は、自分で、考えろ…」

 それだけ言うと、後は、一言も、その話題に触れなかった…

 食事に専念した…

 本当は、もっと、言いたいが、それは、逆効果…

 言い過ぎるのは、良くないからだ…

 かえって、効果が薄れる…

 目の前で、葉尊は、考え込んでいた…

 可哀そうなほど、悩んでいた…

 …これで、よし!…

 私は、内心、うまくいったと、思った…

 葉尊が、これ以上、ヤン=リンダを信頼しては、困るからだ…

 これ以上、ヤン=リンダを信頼すれば、さっきも言ったように、私と、ヤン=リンダのどっちを選ぶという選択を迫られたときに、葉尊は、ヤン=リンダを選ぶことになる…

 それは、困る…

 当たり前だが、妻よりも、信頼する女が、他にいるのは、困る…

 親兄弟や、親戚なら、構わないが、それ以外で、信頼する女が、ほかにいるのは、困る…

 そして、それが、天下の美女、リンダ・ヘイワースなら、もっと、困る(笑)…

 なぜなら、誰も、リンダに勝てないからだ(涙)…

 ルックスでは、勝てないからだ…

 この矢田トモコなど、論外…

 まともに、見れば、そもそも比較の対象ですら、ないからだ…

 私は、目の前で、夫の葉尊が、悩んでいる姿を見て、内心、ニンマリしながら、食事を進めた…

 実に、満足だった…

 私の大きな口が、エネルギッシュに、これでもかというほど、テーブルに並べられた料理を次々と、平らげていった…

 真逆に、葉尊は、食事が、進まない様子だった…

 当たり前だ…

 こんなことを、言われて、旺盛に食事を進める人間など、世の中に、いるはずもない…

 自分が、学生時代から、信頼していた人間を、妻に、あまり信用するな、と釘を刺されて、悩まない人間など、いないからだ…

 私は、内心、笑みを浮かべながら、食事を進めていた…

 自分でも、驚くほど、食欲旺盛だった…

 元気一杯だった…

 と、

 いきなり、葉尊が、

 「…お姉さんは、それで、満足ですか?…」

 と、言った…

 私は、驚いた…

 葉尊の態度が、急に変わったからだ…

 サラダを食べていた私は、危うく、喉にサラダが詰まりそうになった…

 ゲホゲホと、言いながら、私は、喉からサラダを吐き出す寸前だった…

 しばらくは、そんな状態だった…

 それが、一分くらい続いた後、ようやく、その状態が、治まって、正常になった…

 それから、目の前の葉尊を睨みつけた…

 「…葉尊…いきなり、なにを言い出すんだ…危うく、私は…」

 言いかけて、目の前の人物が、夫の葉尊でないことに、気付いた…

 「…葉問か…オマエ…」

 私の質問に、葉問が、ふてぶてしく、笑った…

 「…一体、なんのようだ?…」

 私が、勢い込んで言うと、

 「…お姉さんを見損ないました…」

 と、葉問が言った…

 「…私を見損なった?…」

 「…そうです…」

 「…どうしてだ?…」

 「…真面目な葉尊は、今、お姉さんの言った言葉で、悩んでいます…」

 「…私は、本当のことを、言ったまでさ…」

 「…それにしてもです…」

 「…どういうことだ?…」

 「…お姉さんの根底にあるのは、リンダへの嫉妬でしょ?…」

 葉問が、ずばりと、私の心の内を、見切った…

 私は、言葉に詰まった…

 その通りだったからだ(苦笑)…

 「…ずばりですね…」

 葉問が、笑みを浮かべた…

 私は、頭に来た…

 葉問のいつも通りの上から目線に、頭に来たのだ…

 「…そうさ…嫉妬さ…それが、いけないのか?…」

 私は頭にきて、大声で、怒鳴った…

 「…別に、いけなくは、ありません…」

 葉問が、穏やかに、答える…

 「…リンダはあの通りの美人です…お姉さんとしても、もし葉尊が、リンダと、男女の関係になったらと、気が気ではないでしょう…」

 「…」

 「…でも、残念ながら、その可能性は皆無です…」

 「…皆無だと?…」

 「…ハイ…」

 「…どうして、オマエに、そんなことが、わかる…」

 「…葉尊は、リンダに癒しを求めていません…」

 「…癒し?…」

 「…葉尊にとって、リンダは、友人…同じような心の病を持つ、かけがえのない友人です…」

 「…」

 「…ですが、そこに癒しはありません…」

 「…」

 「…癒しは、お姉さんに求めているのです…」

 「…なんだと? …この私に…癒しだと?…」

 「…そうです…」

 私は、葉問の言葉に、考え込んだ…

 癒しを、私に求めている?

 この矢田トモコに、求めている?…

 これは、本気なのか?

 これは、冗談なのか?

 わからなかった…

 なぜなら、私なら、どんなことがあっても、私に癒しなど、求めない…

 仮に、私が男なら、もっと美人で、頭がよく、包容力のある女を選ぶ…

 間違っても、私は、選ばない…

 矢田トモコは、選ばない…

 だから、

 「…ウソを言うな! 葉問!…」

 私は、怒鳴った…

 「…どこのバカが、私に癒しを求めるんだ!…」

 「…少なくとも、葉尊は、お姉さんに、癒しを求めています…そして、リンダやバニラも…」

 「…なんだと?…」

 「…お姉さんは、自分の魅力に気付いていないんですよ…」

 「…私の魅力?…」

 「…そうです…」

 「…どこに、私に魅力がある…そんなものは、どこにもないゾ…」

 「…お姉さんは、あったかいんです…」

 「…あったかい?…」

 「…お姉さんの人柄です…」

 「…私の人柄?…」

 「…お姉さんといると、誰もが、安らぐんです…」

 「…」

 「…葉尊が、お姉さんを選んだ理由も、たぶん、それです…リンダもバニラも、いつも、お姉さんといっしょにいるのも同じ…」

 「…なにが、同じなんだ?…」

 「…リンダもバニラも世界的な有名人です…当然、プライベートの時間は、少ない…だから、二人にとって、プライベートの時間は、貴重です…でも、その貴重な時間は、必ず、お姉さんと過ごす…」

 「…私と過ごす?…」

 「…つまり、二人とも、癒しを求めているんです…」

 「…」

 「…そんな、お姉さんが、リンダの悪口をいえば、幻滅します…だから、お姉さんには、そんなことは、しないで、もらいたい…」

 …コイツ、うまいことを、言う…

 私は、思った…

 私をうまく持ち上げて、私をコントロールするつもりだ…

 きっと、これまでも、その手口で、さんざん、たくさんの女を食い物にしたに違いない…

 私は、気付いた…

 だが、そんな手に乗る矢田トモコではない!

 葉問の口車に乗る矢田トモコではないのだ!

 だから、私は、

 「…相変わらず、口がうまいな…葉問…」

 と、言ってやった…

 「…口がうまい?…」

 「…心にもないことを言って、私を持ち上げる…そんな手に乗る矢田トモコではないさ…」

 「…」

 「…オマエが、ここに現れた理由は、ホントは、別にあるんじゃないか?…」

 「…別に?…」

 「…オマエは、葉尊が、リンダと仲良くすることが、得になるんじゃないか?…」

 「…どうして、得に…」

 「…オマエは、リンダと仲がいい…ホントは、葉尊から、そのカラダを奪うのが、目的じゃないのか?…」

 「…」

 「…リンダ・ヘイワースは、色気の塊…リンダが、葉尊に迫れば、葉尊は、その場から、逃げ出したくて、葉問…オマエに、そのカラダを譲る…そして、それが、続けば、いつしか、そのカラダの大半の時間を、葉問…オマエが占めることになる…」

 「…」

 「…どうだ? …私の推測は…」

 葉問が、考え込んだ…

 しばし、沈黙した…

 「…さすが、お姉さん…」

 と、私を褒めた…

 「…と、言いたいところですが、まったく、違います…話は、変わりますが、なぜ、お姉さんを、葉敬が、気に入っているか、わかりますか?…」

 「…わからんさ…」

 私は、即答した…

 なぜ、葉尊の父の葉敬が、私を気に入っているのか、謎だった…

 いくら、考えても、わからない謎だった…

 おおげさにいえば、私の中で、世界七不思議に匹敵した…

 「…私を消滅させるためですよ…」

 葉問が、笑った…

 「…オマエを消滅…どうして、オマエの消滅と、私が関係あるんだ…」

 「…大ありです…」

 「…大ありだと?…」

 「…お姉さんと、葉尊がいれば、葉尊は、幸せになります…幸福に満ち足りた生活を送ることができます…そうなれば、いずれ、葉尊は、過去の心の傷が、癒されます…私は…葉問は、葉尊が、幼い私を、自分の過失で、事故で、失ったことで、その罪の意識から、無意識に、自分の中で、作り出した、もう一人の人格です…だから、葉尊が、心の底から、満ち足りた生活を送れば、私は、消滅します…」

 葉問が淡々と語った…

 そして、その顔は穏やかだった…

 これまで、見たこともないほど、穏やかな葉問の顔だった…

 「…だから、そんなお姉さんに、リンダを悪く言うようなことは、して欲しくないんです…」

 葉問が、穏やかな顔のまま、言った…

 私は、とっさに、

 「…葉問…オマエはそれでいいのか?…」

 と、聞いた…

 「…どういう意味ですか?…」

 「…だって、葉尊が幸せになれば、オマエは、消えてしまうのだろ?…」

 「…私は、別に構わないです…」

 「…構わない? …どうしてだ?…」

 「…私は、本来、存在しない人間です…いわば、幽霊と同じ…そんな人間は、そもそも存在してはいけないんです…」

 「…」

 「…むしろ、現実に蘇らせてくれた葉尊に感謝しています…だから、いずれは、葉尊に、このカラダを返したいのです…」

 …ホントか?…

 私は、思った…

 誰もが、死を恐れる…

 死ぬのは、怖い…

 それは、私も例外ではない…

 この矢田トモコも例外ではない…

 が、

 この葉問は、死ぬのが、怖くないという…

 それは、本当なのか?

 考え込んだ…

 すると、そんな私の表情が、顔に出たのだろう…

 「…ボクの言葉が、ウソだと思ったんでしょ?…」

 と、葉問が聞いた…

 私は、

 「…そうさ…誰もが、死ぬのが、怖くない人間なんて、この世の中にいないさ…」

 と、言った…

 すると、

 「…死ぬのが、怖いのは、ボクも同じです…」

 と、葉問が、笑った…

 「…だったら、どうして?…」

 「…ボクは、消滅すると、言ったんです…死ぬわけでは、ありません…」

 「…死ぬわけじゃない?…」

 「…ハイ…ボクは、葉尊が、無意識に作り出した別人格です…だから、ボクが、消滅するというのは、二度と、葉尊のカラダに現れないということです…死ぬわけじゃ、ありません…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…つまり、お姉さんだけでなく、普通は、死ぬときは、誰もが、痛みを伴います…これは、老若男女の別なく、大半の人間が、そうです…だから、怖いんです…」

 「…」

 「…でも、ボクは、違う…ただ、消滅する…例えば、ガソリンでも、消臭スプレーでも、同じ…単に、なくなるだけです…」

 「…消臭スプレー?…」

 なんて、例えだ…

 私は、思った…

 思わず、笑いそうになったが、笑えなかった…

 ここは、笑うところでは、なかったからだ…

 が、

 真逆に、葉問自身が、

 「…消臭スプレーは、たとえが、おかしいかもしれない…」

 と、笑った…

 「…でも、言いたいことは、同じです…つまり、ガソリンも消臭スプレーも、切れれば、補充するか、買い替えなければ、ならない…それと同じです…そして、それは、死ではない…」

 「…死ではない?…」

 「…中身が、なくなったものは、ただ捨てられる…不要になる…」

 「…」

 「…ボクもそれと同じです…そして、死との最大の違いは、痛みを伴わないこと…だから、ボクは、自分が、消滅するのが、怖くないんです…」

 葉問が、説明する…

 そう言われれば、たしかに、わかる…

 納得する…

 誰もが、死が怖い…

 その最大の理由は、痛みが伴うから…

 痛みが、伴わなければ、怖くない…

 だから、葉問の説明は、わかる…

 わかるのだ…

 「…でも、悔いは、残ります…」

 「…悔いだと?…」

 「…ハイ…」

 「…なんだ、それは?…」

 「…それは、お姉さんに会えなくなることです…」

 「…私に?…」

 「…そうです…葉尊だけじゃない…葉敬も、リンダも、バニラも、みんなお姉さんに憧れてます…お姉さんが、好きなんです…それは、ボクも例外ではありません…」

 …うまいことを、言う…

 私は、思った…

 どさくさに紛れて、この矢田トモコを口説こうとしているのが、ミエミエだった…

 さすが、プレイボーイ…

 女を口説くのが、慣れている…

 私は、思った…

 だが、そんな葉問の手口が見抜けない、矢田トモコではない!

 そんなお子様では、ないのだ…

 35歳のれっきとした人妻…

 酸いも甘いも嚙み分けた、人妻だった…

 だから、

 「…葉問…オマエ…どさくさに紛れて、私を口説こうと思ってもダメだゾ…」

 と、言ってやった…

 「…私は、れっきとした人妻…葉尊の妻さ…いくら、夫の葉尊と同じカラダを持った、葉問…オマエでも、私がオマエと、なにかあれば、それは、れっきとした浮気さ…」

 私の言葉に、葉問は、

 「…」

 と、言葉もなかった…

 きっと、私が、葉問の狙いを読み取ったことが、ショックだったのだろう…

 しばらく、無言で、私を見ていた…

 それから、

 「…プッ…」

 と、葉問が、笑った…

 笑い出した…

 「…葉問…なにが、おかしい?…」

 私は、怒った…

 怒ったのだ…

 「…お姉さんが、本気で言っているのが、わかります…だから、お姉さんは、憎めない…嫌いになれない…」

 「…なんだと?…」

 「…お姉さんは、これまで、生きてきて、どんな人間にも、嫌われた経験はないんじゃないですか?…」

 「…ないさ…」

 「…そんな人間は、この世の中で、お姉さんぐらいの者です…」

 「…なんだと?…」

 「…誰もが、ひとから好かれたり、嫌われたりします…でも、お姉さんを嫌う人間は、皆無でしょう…」

 「…」

 「…そんなお姉さんと知り合えた葉尊の幸せ…それは、同時に、この葉問の幸せでもあります…」

 「…」

 「…お姉さん…葉尊を愛して下さい…葉尊を癒して下さい…そして、ボクを消滅させて下さい…それが、ボクの…葉問の本望です…」

 そう言うと、葉問は、消えた…

 一瞬のうちに、葉尊に戻った…

 同じ顔だが、雰囲気が一変した…

 それまでのどこかセクシーな雰囲気が一変して、ただの真面目な雰囲気になった…

 「…なにか、あったんですか? …お姉さん?…」

 葉尊が聞いた…

 私は、

 「…なんでもない…なんでもないさ…」

 と、答えた…

 いつものセリフだった…

 「…でも、なんでもないはずが?…」

 「…葉尊…私が、なんでもないと言ったら、なんでもないのさ…」

 私が、力強く言うと、おとなしい葉尊は、

 「…ハイ…」

 と、返事をするのみだった…

 私は、考えた…

 あの葉問が、どこまで、本当のことを言ったのか? 

 考えたのだ…

 あの葉問は、私が、少しばかり、葉問に惚れているのを、知っている…

 だから、わざと、自分が、消滅しないように、葉尊に優しくするなと言いたかったのかもしれない…

 わざと、自分の本音と真逆のことを言ったのかもしれない…

 私は、葉問の狙いを、そう見た…

 そう、見切ったのだ…

 私を甘く見てもらっては、困る…

 矢田トモコ、35歳…

 35歳の今まで、ノホホンと、生きてきたわけではない…

 葉問の狙いを見抜いた私は、少しばかり、安心した…

 なにより、アラブの王族との接待パーティー…

 もしかしたら、葉問が、なにかの役に立つかもしれないと、気付いたのだ…

 それに、気付いた私は、もう少しばかり、葉問を生かすことにした…

 消滅させないことにした…

 その方が、私の役に立つからだ…

 我ながら、切れ者…

 優れた頭脳の持ち主だと、自画自賛した…

                

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