第28話
文字数 6,443文字
夫の葉尊が、悩んでいた…
目の前で、悩み抜いていた…
だから、私は、優しく、
「…これ以上は、言うまい…」
と、告げた…
「…オマエも立派な大人さ…クールの社長さ…そんなオマエに、いくら、六歳年上でも、妻の私が、ああだ、こうだ、言うのは、間違ってるさ…」
「…」
「…後は、自分で、考えろ…」
それだけ言うと、後は、一言も、その話題に触れなかった…
食事に専念した…
本当は、もっと、言いたいが、それは、逆効果…
言い過ぎるのは、良くないからだ…
かえって、効果が薄れる…
目の前で、葉尊は、考え込んでいた…
可哀そうなほど、悩んでいた…
…これで、よし!…
私は、内心、うまくいったと、思った…
葉尊が、これ以上、ヤン=リンダを信頼しては、困るからだ…
これ以上、ヤン=リンダを信頼すれば、さっきも言ったように、私と、ヤン=リンダのどっちを選ぶという選択を迫られたときに、葉尊は、ヤン=リンダを選ぶことになる…
それは、困る…
当たり前だが、妻よりも、信頼する女が、他にいるのは、困る…
親兄弟や、親戚なら、構わないが、それ以外で、信頼する女が、ほかにいるのは、困る…
そして、それが、天下の美女、リンダ・ヘイワースなら、もっと、困る(笑)…
なぜなら、誰も、リンダに勝てないからだ(涙)…
ルックスでは、勝てないからだ…
この矢田トモコなど、論外…
まともに、見れば、そもそも比較の対象ですら、ないからだ…
私は、目の前で、夫の葉尊が、悩んでいる姿を見て、内心、ニンマリしながら、食事を進めた…
実に、満足だった…
私の大きな口が、エネルギッシュに、これでもかというほど、テーブルに並べられた料理を次々と、平らげていった…
真逆に、葉尊は、食事が、進まない様子だった…
当たり前だ…
こんなことを、言われて、旺盛に食事を進める人間など、世の中に、いるはずもない…
自分が、学生時代から、信頼していた人間を、妻に、あまり信用するな、と釘を刺されて、悩まない人間など、いないからだ…
私は、内心、笑みを浮かべながら、食事を進めていた…
自分でも、驚くほど、食欲旺盛だった…
元気一杯だった…
と、
いきなり、葉尊が、
「…お姉さんは、それで、満足ですか?…」
と、言った…
私は、驚いた…
葉尊の態度が、急に変わったからだ…
サラダを食べていた私は、危うく、喉にサラダが詰まりそうになった…
ゲホゲホと、言いながら、私は、喉からサラダを吐き出す寸前だった…
しばらくは、そんな状態だった…
それが、一分くらい続いた後、ようやく、その状態が、治まって、正常になった…
それから、目の前の葉尊を睨みつけた…
「…葉尊…いきなり、なにを言い出すんだ…危うく、私は…」
言いかけて、目の前の人物が、夫の葉尊でないことに、気付いた…
「…葉問か…オマエ…」
私の質問に、葉問が、ふてぶてしく、笑った…
「…一体、なんのようだ?…」
私が、勢い込んで言うと、
「…お姉さんを見損ないました…」
と、葉問が言った…
「…私を見損なった?…」
「…そうです…」
「…どうしてだ?…」
「…真面目な葉尊は、今、お姉さんの言った言葉で、悩んでいます…」
「…私は、本当のことを、言ったまでさ…」
「…それにしてもです…」
「…どういうことだ?…」
「…お姉さんの根底にあるのは、リンダへの嫉妬でしょ?…」
葉問が、ずばりと、私の心の内を、見切った…
私は、言葉に詰まった…
その通りだったからだ(苦笑)…
「…ずばりですね…」
葉問が、笑みを浮かべた…
私は、頭に来た…
葉問のいつも通りの上から目線に、頭に来たのだ…
「…そうさ…嫉妬さ…それが、いけないのか?…」
私は頭にきて、大声で、怒鳴った…
「…別に、いけなくは、ありません…」
葉問が、穏やかに、答える…
「…リンダはあの通りの美人です…お姉さんとしても、もし葉尊が、リンダと、男女の関係になったらと、気が気ではないでしょう…」
「…」
「…でも、残念ながら、その可能性は皆無です…」
「…皆無だと?…」
「…ハイ…」
「…どうして、オマエに、そんなことが、わかる…」
「…葉尊は、リンダに癒しを求めていません…」
「…癒し?…」
「…葉尊にとって、リンダは、友人…同じような心の病を持つ、かけがえのない友人です…」
「…」
「…ですが、そこに癒しはありません…」
「…」
「…癒しは、お姉さんに求めているのです…」
「…なんだと? …この私に…癒しだと?…」
「…そうです…」
私は、葉問の言葉に、考え込んだ…
癒しを、私に求めている?
この矢田トモコに、求めている?…
これは、本気なのか?
これは、冗談なのか?
わからなかった…
なぜなら、私なら、どんなことがあっても、私に癒しなど、求めない…
仮に、私が男なら、もっと美人で、頭がよく、包容力のある女を選ぶ…
間違っても、私は、選ばない…
矢田トモコは、選ばない…
だから、
「…ウソを言うな! 葉問!…」
私は、怒鳴った…
「…どこのバカが、私に癒しを求めるんだ!…」
「…少なくとも、葉尊は、お姉さんに、癒しを求めています…そして、リンダやバニラも…」
「…なんだと?…」
「…お姉さんは、自分の魅力に気付いていないんですよ…」
「…私の魅力?…」
「…そうです…」
「…どこに、私に魅力がある…そんなものは、どこにもないゾ…」
「…お姉さんは、あったかいんです…」
「…あったかい?…」
「…お姉さんの人柄です…」
「…私の人柄?…」
「…お姉さんといると、誰もが、安らぐんです…」
「…」
「…葉尊が、お姉さんを選んだ理由も、たぶん、それです…リンダもバニラも、いつも、お姉さんといっしょにいるのも同じ…」
「…なにが、同じなんだ?…」
「…リンダもバニラも世界的な有名人です…当然、プライベートの時間は、少ない…だから、二人にとって、プライベートの時間は、貴重です…でも、その貴重な時間は、必ず、お姉さんと過ごす…」
「…私と過ごす?…」
「…つまり、二人とも、癒しを求めているんです…」
「…」
「…そんな、お姉さんが、リンダの悪口をいえば、幻滅します…だから、お姉さんには、そんなことは、しないで、もらいたい…」
…コイツ、うまいことを、言う…
私は、思った…
私をうまく持ち上げて、私をコントロールするつもりだ…
きっと、これまでも、その手口で、さんざん、たくさんの女を食い物にしたに違いない…
私は、気付いた…
だが、そんな手に乗る矢田トモコではない!
葉問の口車に乗る矢田トモコではないのだ!
だから、私は、
「…相変わらず、口がうまいな…葉問…」
と、言ってやった…
「…口がうまい?…」
「…心にもないことを言って、私を持ち上げる…そんな手に乗る矢田トモコではないさ…」
「…」
「…オマエが、ここに現れた理由は、ホントは、別にあるんじゃないか?…」
「…別に?…」
「…オマエは、葉尊が、リンダと仲良くすることが、得になるんじゃないか?…」
「…どうして、得に…」
「…オマエは、リンダと仲がいい…ホントは、葉尊から、そのカラダを奪うのが、目的じゃないのか?…」
「…」
「…リンダ・ヘイワースは、色気の塊…リンダが、葉尊に迫れば、葉尊は、その場から、逃げ出したくて、葉問…オマエに、そのカラダを譲る…そして、それが、続けば、いつしか、そのカラダの大半の時間を、葉問…オマエが占めることになる…」
「…」
「…どうだ? …私の推測は…」
葉問が、考え込んだ…
しばし、沈黙した…
「…さすが、お姉さん…」
と、私を褒めた…
「…と、言いたいところですが、まったく、違います…話は、変わりますが、なぜ、お姉さんを、葉敬が、気に入っているか、わかりますか?…」
「…わからんさ…」
私は、即答した…
なぜ、葉尊の父の葉敬が、私を気に入っているのか、謎だった…
いくら、考えても、わからない謎だった…
おおげさにいえば、私の中で、世界七不思議に匹敵した…
「…私を消滅させるためですよ…」
葉問が、笑った…
「…オマエを消滅…どうして、オマエの消滅と、私が関係あるんだ…」
「…大ありです…」
「…大ありだと?…」
「…お姉さんと、葉尊がいれば、葉尊は、幸せになります…幸福に満ち足りた生活を送ることができます…そうなれば、いずれ、葉尊は、過去の心の傷が、癒されます…私は…葉問は、葉尊が、幼い私を、自分の過失で、事故で、失ったことで、その罪の意識から、無意識に、自分の中で、作り出した、もう一人の人格です…だから、葉尊が、心の底から、満ち足りた生活を送れば、私は、消滅します…」
葉問が淡々と語った…
そして、その顔は穏やかだった…
これまで、見たこともないほど、穏やかな葉問の顔だった…
「…だから、そんなお姉さんに、リンダを悪く言うようなことは、して欲しくないんです…」
葉問が、穏やかな顔のまま、言った…
私は、とっさに、
「…葉問…オマエはそれでいいのか?…」
と、聞いた…
「…どういう意味ですか?…」
「…だって、葉尊が幸せになれば、オマエは、消えてしまうのだろ?…」
「…私は、別に構わないです…」
「…構わない? …どうしてだ?…」
「…私は、本来、存在しない人間です…いわば、幽霊と同じ…そんな人間は、そもそも存在してはいけないんです…」
「…」
「…むしろ、現実に蘇らせてくれた葉尊に感謝しています…だから、いずれは、葉尊に、このカラダを返したいのです…」
…ホントか?…
私は、思った…
誰もが、死を恐れる…
死ぬのは、怖い…
それは、私も例外ではない…
この矢田トモコも例外ではない…
が、
この葉問は、死ぬのが、怖くないという…
それは、本当なのか?
考え込んだ…
すると、そんな私の表情が、顔に出たのだろう…
「…ボクの言葉が、ウソだと思ったんでしょ?…」
と、葉問が聞いた…
私は、
「…そうさ…誰もが、死ぬのが、怖くない人間なんて、この世の中にいないさ…」
と、言った…
すると、
「…死ぬのが、怖いのは、ボクも同じです…」
と、葉問が、笑った…
「…だったら、どうして?…」
「…ボクは、消滅すると、言ったんです…死ぬわけでは、ありません…」
「…死ぬわけじゃない?…」
「…ハイ…ボクは、葉尊が、無意識に作り出した別人格です…だから、ボクが、消滅するというのは、二度と、葉尊のカラダに現れないということです…死ぬわけじゃ、ありません…」
「…どういう意味だ?…」
「…つまり、お姉さんだけでなく、普通は、死ぬときは、誰もが、痛みを伴います…これは、老若男女の別なく、大半の人間が、そうです…だから、怖いんです…」
「…」
「…でも、ボクは、違う…ただ、消滅する…例えば、ガソリンでも、消臭スプレーでも、同じ…単に、なくなるだけです…」
「…消臭スプレー?…」
なんて、例えだ…
私は、思った…
思わず、笑いそうになったが、笑えなかった…
ここは、笑うところでは、なかったからだ…
が、
真逆に、葉問自身が、
「…消臭スプレーは、たとえが、おかしいかもしれない…」
と、笑った…
「…でも、言いたいことは、同じです…つまり、ガソリンも消臭スプレーも、切れれば、補充するか、買い替えなければ、ならない…それと同じです…そして、それは、死ではない…」
「…死ではない?…」
「…中身が、なくなったものは、ただ捨てられる…不要になる…」
「…」
「…ボクもそれと同じです…そして、死との最大の違いは、痛みを伴わないこと…だから、ボクは、自分が、消滅するのが、怖くないんです…」
葉問が、説明する…
そう言われれば、たしかに、わかる…
納得する…
誰もが、死が怖い…
その最大の理由は、痛みが伴うから…
痛みが、伴わなければ、怖くない…
だから、葉問の説明は、わかる…
わかるのだ…
「…でも、悔いは、残ります…」
「…悔いだと?…」
「…ハイ…」
「…なんだ、それは?…」
「…それは、お姉さんに会えなくなることです…」
「…私に?…」
「…そうです…葉尊だけじゃない…葉敬も、リンダも、バニラも、みんなお姉さんに憧れてます…お姉さんが、好きなんです…それは、ボクも例外ではありません…」
…うまいことを、言う…
私は、思った…
どさくさに紛れて、この矢田トモコを口説こうとしているのが、ミエミエだった…
さすが、プレイボーイ…
女を口説くのが、慣れている…
私は、思った…
だが、そんな葉問の手口が見抜けない、矢田トモコではない!
そんなお子様では、ないのだ…
35歳のれっきとした人妻…
酸いも甘いも嚙み分けた、人妻だった…
だから、
「…葉問…オマエ…どさくさに紛れて、私を口説こうと思ってもダメだゾ…」
と、言ってやった…
「…私は、れっきとした人妻…葉尊の妻さ…いくら、夫の葉尊と同じカラダを持った、葉問…オマエでも、私がオマエと、なにかあれば、それは、れっきとした浮気さ…」
私の言葉に、葉問は、
「…」
と、言葉もなかった…
きっと、私が、葉問の狙いを読み取ったことが、ショックだったのだろう…
しばらく、無言で、私を見ていた…
それから、
「…プッ…」
と、葉問が、笑った…
笑い出した…
「…葉問…なにが、おかしい?…」
私は、怒った…
怒ったのだ…
「…お姉さんが、本気で言っているのが、わかります…だから、お姉さんは、憎めない…嫌いになれない…」
「…なんだと?…」
「…お姉さんは、これまで、生きてきて、どんな人間にも、嫌われた経験はないんじゃないですか?…」
「…ないさ…」
「…そんな人間は、この世の中で、お姉さんぐらいの者です…」
「…なんだと?…」
「…誰もが、ひとから好かれたり、嫌われたりします…でも、お姉さんを嫌う人間は、皆無でしょう…」
「…」
「…そんなお姉さんと知り合えた葉尊の幸せ…それは、同時に、この葉問の幸せでもあります…」
「…」
「…お姉さん…葉尊を愛して下さい…葉尊を癒して下さい…そして、ボクを消滅させて下さい…それが、ボクの…葉問の本望です…」
そう言うと、葉問は、消えた…
一瞬のうちに、葉尊に戻った…
同じ顔だが、雰囲気が一変した…
それまでのどこかセクシーな雰囲気が一変して、ただの真面目な雰囲気になった…
「…なにか、あったんですか? …お姉さん?…」
葉尊が聞いた…
私は、
「…なんでもない…なんでもないさ…」
と、答えた…
いつものセリフだった…
「…でも、なんでもないはずが?…」
「…葉尊…私が、なんでもないと言ったら、なんでもないのさ…」
私が、力強く言うと、おとなしい葉尊は、
「…ハイ…」
と、返事をするのみだった…
私は、考えた…
あの葉問が、どこまで、本当のことを言ったのか?
考えたのだ…
あの葉問は、私が、少しばかり、葉問に惚れているのを、知っている…
だから、わざと、自分が、消滅しないように、葉尊に優しくするなと言いたかったのかもしれない…
わざと、自分の本音と真逆のことを言ったのかもしれない…
私は、葉問の狙いを、そう見た…
そう、見切ったのだ…
私を甘く見てもらっては、困る…
矢田トモコ、35歳…
35歳の今まで、ノホホンと、生きてきたわけではない…
葉問の狙いを見抜いた私は、少しばかり、安心した…
なにより、アラブの王族との接待パーティー…
もしかしたら、葉問が、なにかの役に立つかもしれないと、気付いたのだ…
それに、気付いた私は、もう少しばかり、葉問を生かすことにした…
消滅させないことにした…
その方が、私の役に立つからだ…
我ながら、切れ者…
優れた頭脳の持ち主だと、自画自賛した…
目の前で、悩み抜いていた…
だから、私は、優しく、
「…これ以上は、言うまい…」
と、告げた…
「…オマエも立派な大人さ…クールの社長さ…そんなオマエに、いくら、六歳年上でも、妻の私が、ああだ、こうだ、言うのは、間違ってるさ…」
「…」
「…後は、自分で、考えろ…」
それだけ言うと、後は、一言も、その話題に触れなかった…
食事に専念した…
本当は、もっと、言いたいが、それは、逆効果…
言い過ぎるのは、良くないからだ…
かえって、効果が薄れる…
目の前で、葉尊は、考え込んでいた…
可哀そうなほど、悩んでいた…
…これで、よし!…
私は、内心、うまくいったと、思った…
葉尊が、これ以上、ヤン=リンダを信頼しては、困るからだ…
これ以上、ヤン=リンダを信頼すれば、さっきも言ったように、私と、ヤン=リンダのどっちを選ぶという選択を迫られたときに、葉尊は、ヤン=リンダを選ぶことになる…
それは、困る…
当たり前だが、妻よりも、信頼する女が、他にいるのは、困る…
親兄弟や、親戚なら、構わないが、それ以外で、信頼する女が、ほかにいるのは、困る…
そして、それが、天下の美女、リンダ・ヘイワースなら、もっと、困る(笑)…
なぜなら、誰も、リンダに勝てないからだ(涙)…
ルックスでは、勝てないからだ…
この矢田トモコなど、論外…
まともに、見れば、そもそも比較の対象ですら、ないからだ…
私は、目の前で、夫の葉尊が、悩んでいる姿を見て、内心、ニンマリしながら、食事を進めた…
実に、満足だった…
私の大きな口が、エネルギッシュに、これでもかというほど、テーブルに並べられた料理を次々と、平らげていった…
真逆に、葉尊は、食事が、進まない様子だった…
当たり前だ…
こんなことを、言われて、旺盛に食事を進める人間など、世の中に、いるはずもない…
自分が、学生時代から、信頼していた人間を、妻に、あまり信用するな、と釘を刺されて、悩まない人間など、いないからだ…
私は、内心、笑みを浮かべながら、食事を進めていた…
自分でも、驚くほど、食欲旺盛だった…
元気一杯だった…
と、
いきなり、葉尊が、
「…お姉さんは、それで、満足ですか?…」
と、言った…
私は、驚いた…
葉尊の態度が、急に変わったからだ…
サラダを食べていた私は、危うく、喉にサラダが詰まりそうになった…
ゲホゲホと、言いながら、私は、喉からサラダを吐き出す寸前だった…
しばらくは、そんな状態だった…
それが、一分くらい続いた後、ようやく、その状態が、治まって、正常になった…
それから、目の前の葉尊を睨みつけた…
「…葉尊…いきなり、なにを言い出すんだ…危うく、私は…」
言いかけて、目の前の人物が、夫の葉尊でないことに、気付いた…
「…葉問か…オマエ…」
私の質問に、葉問が、ふてぶてしく、笑った…
「…一体、なんのようだ?…」
私が、勢い込んで言うと、
「…お姉さんを見損ないました…」
と、葉問が言った…
「…私を見損なった?…」
「…そうです…」
「…どうしてだ?…」
「…真面目な葉尊は、今、お姉さんの言った言葉で、悩んでいます…」
「…私は、本当のことを、言ったまでさ…」
「…それにしてもです…」
「…どういうことだ?…」
「…お姉さんの根底にあるのは、リンダへの嫉妬でしょ?…」
葉問が、ずばりと、私の心の内を、見切った…
私は、言葉に詰まった…
その通りだったからだ(苦笑)…
「…ずばりですね…」
葉問が、笑みを浮かべた…
私は、頭に来た…
葉問のいつも通りの上から目線に、頭に来たのだ…
「…そうさ…嫉妬さ…それが、いけないのか?…」
私は頭にきて、大声で、怒鳴った…
「…別に、いけなくは、ありません…」
葉問が、穏やかに、答える…
「…リンダはあの通りの美人です…お姉さんとしても、もし葉尊が、リンダと、男女の関係になったらと、気が気ではないでしょう…」
「…」
「…でも、残念ながら、その可能性は皆無です…」
「…皆無だと?…」
「…ハイ…」
「…どうして、オマエに、そんなことが、わかる…」
「…葉尊は、リンダに癒しを求めていません…」
「…癒し?…」
「…葉尊にとって、リンダは、友人…同じような心の病を持つ、かけがえのない友人です…」
「…」
「…ですが、そこに癒しはありません…」
「…」
「…癒しは、お姉さんに求めているのです…」
「…なんだと? …この私に…癒しだと?…」
「…そうです…」
私は、葉問の言葉に、考え込んだ…
癒しを、私に求めている?
この矢田トモコに、求めている?…
これは、本気なのか?
これは、冗談なのか?
わからなかった…
なぜなら、私なら、どんなことがあっても、私に癒しなど、求めない…
仮に、私が男なら、もっと美人で、頭がよく、包容力のある女を選ぶ…
間違っても、私は、選ばない…
矢田トモコは、選ばない…
だから、
「…ウソを言うな! 葉問!…」
私は、怒鳴った…
「…どこのバカが、私に癒しを求めるんだ!…」
「…少なくとも、葉尊は、お姉さんに、癒しを求めています…そして、リンダやバニラも…」
「…なんだと?…」
「…お姉さんは、自分の魅力に気付いていないんですよ…」
「…私の魅力?…」
「…そうです…」
「…どこに、私に魅力がある…そんなものは、どこにもないゾ…」
「…お姉さんは、あったかいんです…」
「…あったかい?…」
「…お姉さんの人柄です…」
「…私の人柄?…」
「…お姉さんといると、誰もが、安らぐんです…」
「…」
「…葉尊が、お姉さんを選んだ理由も、たぶん、それです…リンダもバニラも、いつも、お姉さんといっしょにいるのも同じ…」
「…なにが、同じなんだ?…」
「…リンダもバニラも世界的な有名人です…当然、プライベートの時間は、少ない…だから、二人にとって、プライベートの時間は、貴重です…でも、その貴重な時間は、必ず、お姉さんと過ごす…」
「…私と過ごす?…」
「…つまり、二人とも、癒しを求めているんです…」
「…」
「…そんな、お姉さんが、リンダの悪口をいえば、幻滅します…だから、お姉さんには、そんなことは、しないで、もらいたい…」
…コイツ、うまいことを、言う…
私は、思った…
私をうまく持ち上げて、私をコントロールするつもりだ…
きっと、これまでも、その手口で、さんざん、たくさんの女を食い物にしたに違いない…
私は、気付いた…
だが、そんな手に乗る矢田トモコではない!
葉問の口車に乗る矢田トモコではないのだ!
だから、私は、
「…相変わらず、口がうまいな…葉問…」
と、言ってやった…
「…口がうまい?…」
「…心にもないことを言って、私を持ち上げる…そんな手に乗る矢田トモコではないさ…」
「…」
「…オマエが、ここに現れた理由は、ホントは、別にあるんじゃないか?…」
「…別に?…」
「…オマエは、葉尊が、リンダと仲良くすることが、得になるんじゃないか?…」
「…どうして、得に…」
「…オマエは、リンダと仲がいい…ホントは、葉尊から、そのカラダを奪うのが、目的じゃないのか?…」
「…」
「…リンダ・ヘイワースは、色気の塊…リンダが、葉尊に迫れば、葉尊は、その場から、逃げ出したくて、葉問…オマエに、そのカラダを譲る…そして、それが、続けば、いつしか、そのカラダの大半の時間を、葉問…オマエが占めることになる…」
「…」
「…どうだ? …私の推測は…」
葉問が、考え込んだ…
しばし、沈黙した…
「…さすが、お姉さん…」
と、私を褒めた…
「…と、言いたいところですが、まったく、違います…話は、変わりますが、なぜ、お姉さんを、葉敬が、気に入っているか、わかりますか?…」
「…わからんさ…」
私は、即答した…
なぜ、葉尊の父の葉敬が、私を気に入っているのか、謎だった…
いくら、考えても、わからない謎だった…
おおげさにいえば、私の中で、世界七不思議に匹敵した…
「…私を消滅させるためですよ…」
葉問が、笑った…
「…オマエを消滅…どうして、オマエの消滅と、私が関係あるんだ…」
「…大ありです…」
「…大ありだと?…」
「…お姉さんと、葉尊がいれば、葉尊は、幸せになります…幸福に満ち足りた生活を送ることができます…そうなれば、いずれ、葉尊は、過去の心の傷が、癒されます…私は…葉問は、葉尊が、幼い私を、自分の過失で、事故で、失ったことで、その罪の意識から、無意識に、自分の中で、作り出した、もう一人の人格です…だから、葉尊が、心の底から、満ち足りた生活を送れば、私は、消滅します…」
葉問が淡々と語った…
そして、その顔は穏やかだった…
これまで、見たこともないほど、穏やかな葉問の顔だった…
「…だから、そんなお姉さんに、リンダを悪く言うようなことは、して欲しくないんです…」
葉問が、穏やかな顔のまま、言った…
私は、とっさに、
「…葉問…オマエはそれでいいのか?…」
と、聞いた…
「…どういう意味ですか?…」
「…だって、葉尊が幸せになれば、オマエは、消えてしまうのだろ?…」
「…私は、別に構わないです…」
「…構わない? …どうしてだ?…」
「…私は、本来、存在しない人間です…いわば、幽霊と同じ…そんな人間は、そもそも存在してはいけないんです…」
「…」
「…むしろ、現実に蘇らせてくれた葉尊に感謝しています…だから、いずれは、葉尊に、このカラダを返したいのです…」
…ホントか?…
私は、思った…
誰もが、死を恐れる…
死ぬのは、怖い…
それは、私も例外ではない…
この矢田トモコも例外ではない…
が、
この葉問は、死ぬのが、怖くないという…
それは、本当なのか?
考え込んだ…
すると、そんな私の表情が、顔に出たのだろう…
「…ボクの言葉が、ウソだと思ったんでしょ?…」
と、葉問が聞いた…
私は、
「…そうさ…誰もが、死ぬのが、怖くない人間なんて、この世の中にいないさ…」
と、言った…
すると、
「…死ぬのが、怖いのは、ボクも同じです…」
と、葉問が、笑った…
「…だったら、どうして?…」
「…ボクは、消滅すると、言ったんです…死ぬわけでは、ありません…」
「…死ぬわけじゃない?…」
「…ハイ…ボクは、葉尊が、無意識に作り出した別人格です…だから、ボクが、消滅するというのは、二度と、葉尊のカラダに現れないということです…死ぬわけじゃ、ありません…」
「…どういう意味だ?…」
「…つまり、お姉さんだけでなく、普通は、死ぬときは、誰もが、痛みを伴います…これは、老若男女の別なく、大半の人間が、そうです…だから、怖いんです…」
「…」
「…でも、ボクは、違う…ただ、消滅する…例えば、ガソリンでも、消臭スプレーでも、同じ…単に、なくなるだけです…」
「…消臭スプレー?…」
なんて、例えだ…
私は、思った…
思わず、笑いそうになったが、笑えなかった…
ここは、笑うところでは、なかったからだ…
が、
真逆に、葉問自身が、
「…消臭スプレーは、たとえが、おかしいかもしれない…」
と、笑った…
「…でも、言いたいことは、同じです…つまり、ガソリンも消臭スプレーも、切れれば、補充するか、買い替えなければ、ならない…それと同じです…そして、それは、死ではない…」
「…死ではない?…」
「…中身が、なくなったものは、ただ捨てられる…不要になる…」
「…」
「…ボクもそれと同じです…そして、死との最大の違いは、痛みを伴わないこと…だから、ボクは、自分が、消滅するのが、怖くないんです…」
葉問が、説明する…
そう言われれば、たしかに、わかる…
納得する…
誰もが、死が怖い…
その最大の理由は、痛みが伴うから…
痛みが、伴わなければ、怖くない…
だから、葉問の説明は、わかる…
わかるのだ…
「…でも、悔いは、残ります…」
「…悔いだと?…」
「…ハイ…」
「…なんだ、それは?…」
「…それは、お姉さんに会えなくなることです…」
「…私に?…」
「…そうです…葉尊だけじゃない…葉敬も、リンダも、バニラも、みんなお姉さんに憧れてます…お姉さんが、好きなんです…それは、ボクも例外ではありません…」
…うまいことを、言う…
私は、思った…
どさくさに紛れて、この矢田トモコを口説こうとしているのが、ミエミエだった…
さすが、プレイボーイ…
女を口説くのが、慣れている…
私は、思った…
だが、そんな葉問の手口が見抜けない、矢田トモコではない!
そんなお子様では、ないのだ…
35歳のれっきとした人妻…
酸いも甘いも嚙み分けた、人妻だった…
だから、
「…葉問…オマエ…どさくさに紛れて、私を口説こうと思ってもダメだゾ…」
と、言ってやった…
「…私は、れっきとした人妻…葉尊の妻さ…いくら、夫の葉尊と同じカラダを持った、葉問…オマエでも、私がオマエと、なにかあれば、それは、れっきとした浮気さ…」
私の言葉に、葉問は、
「…」
と、言葉もなかった…
きっと、私が、葉問の狙いを読み取ったことが、ショックだったのだろう…
しばらく、無言で、私を見ていた…
それから、
「…プッ…」
と、葉問が、笑った…
笑い出した…
「…葉問…なにが、おかしい?…」
私は、怒った…
怒ったのだ…
「…お姉さんが、本気で言っているのが、わかります…だから、お姉さんは、憎めない…嫌いになれない…」
「…なんだと?…」
「…お姉さんは、これまで、生きてきて、どんな人間にも、嫌われた経験はないんじゃないですか?…」
「…ないさ…」
「…そんな人間は、この世の中で、お姉さんぐらいの者です…」
「…なんだと?…」
「…誰もが、ひとから好かれたり、嫌われたりします…でも、お姉さんを嫌う人間は、皆無でしょう…」
「…」
「…そんなお姉さんと知り合えた葉尊の幸せ…それは、同時に、この葉問の幸せでもあります…」
「…」
「…お姉さん…葉尊を愛して下さい…葉尊を癒して下さい…そして、ボクを消滅させて下さい…それが、ボクの…葉問の本望です…」
そう言うと、葉問は、消えた…
一瞬のうちに、葉尊に戻った…
同じ顔だが、雰囲気が一変した…
それまでのどこかセクシーな雰囲気が一変して、ただの真面目な雰囲気になった…
「…なにか、あったんですか? …お姉さん?…」
葉尊が聞いた…
私は、
「…なんでもない…なんでもないさ…」
と、答えた…
いつものセリフだった…
「…でも、なんでもないはずが?…」
「…葉尊…私が、なんでもないと言ったら、なんでもないのさ…」
私が、力強く言うと、おとなしい葉尊は、
「…ハイ…」
と、返事をするのみだった…
私は、考えた…
あの葉問が、どこまで、本当のことを言ったのか?
考えたのだ…
あの葉問は、私が、少しばかり、葉問に惚れているのを、知っている…
だから、わざと、自分が、消滅しないように、葉尊に優しくするなと言いたかったのかもしれない…
わざと、自分の本音と真逆のことを言ったのかもしれない…
私は、葉問の狙いを、そう見た…
そう、見切ったのだ…
私を甘く見てもらっては、困る…
矢田トモコ、35歳…
35歳の今まで、ノホホンと、生きてきたわけではない…
葉問の狙いを見抜いた私は、少しばかり、安心した…
なにより、アラブの王族との接待パーティー…
もしかしたら、葉問が、なにかの役に立つかもしれないと、気付いたのだ…
それに、気付いた私は、もう少しばかり、葉問を生かすことにした…
消滅させないことにした…
その方が、私の役に立つからだ…
我ながら、切れ者…
優れた頭脳の持ち主だと、自画自賛した…