第44話
文字数 6,204文字
…ピンチ…
…まさに、ピンチ…
…絶対絶命のピンチだった…
万事休す…
すべて、終わった…
この矢田トモコの35歳のシンデレラと、世間にもてはやされた、日々は終わった…
終わったのだ…
もはや、婚活から、始めなければ、ならない…
万が一…
百万分の一や、一千万分の一の確率で、葉尊と同じか、それ以上のイケメンと結婚できるかもしれんが、もはや、葉尊以上のお金持ちと結婚できることは、無理…
ありえんかった…
現実的なところでは、実家に戻って、パート探しから、始めなければ、ならんだろう…
そう考えると、途端に、気が重くなった…
とんでもなく、重くなった…
気が滅入ったのだ…
小心者の私は、今にも、倒れそうだった…
卒倒しそうだった…
元々、この矢田トモコは、気が弱い、小心者…
気が強いフリをしているだけだった…
が、
その鎧(よろい)が、あっけなく、脱げた…
自分でも、驚くほど、あっけなく脱げた…
私は、もはや、バニラなど、どうでも、良かった…
どうでも、良くなった…
この矢田トモコは、元のフリーターに戻るだけ…
だから、この目の前のバニラ・ルインスキーとは、もはや、縁もゆかりもない、赤の他人だった…
私の落胆ぶりが、傍目にも、わかったのだろう…
バニラが…バカなバニラが、
「…ちょっと…お姉さん、どうしたの?…」
と、聞いた…
が、
私は、すでに、答える気力もなくしていた…
すべてが、どうでも、よくなった…
「…勝手にすれば、いいさ…」
気が付くと、そう、呟いていた…
バニラが、驚いて、目を丸くして、私を見た…
「…勝手にすればって?…」
「…オマエの好きにすれば、いいさ…」
私は、力なく、呟いた…
「…オマエの好きにすればいい…別に、私は、オマエの行動を止めんさ…たしかに、葉尊とリンダは、お似合いさ…美男美女のカップル…おまけに有名人…まさに、絵に描いたカップルさ…私とは、雲泥の差さ…それを、考えれば、葉尊も私と別れて、リンダと結婚した方が、幸せだろう…なにしろ、二人は、学時代からの友人…おまけに親友だ…」
私は、力なく、言った…
「…バニラ…これで、私もオマエとも、お別れさ…今日を限りに、オマエと会う機会は、二度とないだろう…私は、これから、寝室に行って、ベッドに入って、今後のことを、考えるさ…バニラ…オマエは、ここにいても、いいが、帰るときは、言ってくれ…家の鍵を閉めねば、ならんからな…」
私が、言うと、バニラが、
「…」
と、絶句した…
「…それでは、後を頼むゾ…」
私は、言って、机の前から、立ち上がって、歩き出した…
その背中に、バニラが、
「…待って、お姉さん…」
と、叫んだ…
「…ホント、どうしちゃったの?…」
と、バニラが、当惑した表情で、聞いた…
「…どうしただと? …オマエのせいさ…」
私は、言った…
「…これ以上の論争は、お互い不毛だ…」
そう言って、私は、歩き出した…
「…冗談よ! お姉さん!…」
バニラが叫んだ…
「…冗談?…」
その言葉で、私は、足を止めた…
26㎝と、身長159㎝のわりには、巨大な足を止めた…
「…どういう意味だ?…」
私は、振り返って、バニラを見た…
「…冗談よ…お姉さん…お姉さんが、リンダをファラドとくっつけようと提案するから、それをネタにお姉さんをからかっただけ…」
「…からかっただけ?…」
「…そうよ…お姉さんの気持ちは、わかる…」
「…私の気持ち?…」
「…リンダは、あの通りの絶世の美女…だから、自分の夫が、リンダと仲良くすれば、気が気じゃないでしょ?…」
「…」
「…だから、ちょっとばかり、お姉さんをからかっただけ…お姉さんにイジワルしただけ…」
バニラが、告白した…
私は、考えた…
そのバニラの告白が、本当か、ウソか、考えたのだ…
この目の前のバニラ・ルインスキー…
正真正銘のバカで、ろくでもない女で、しかも、妙にずるがしこいところがある…
まさか、私を罠にはめるのでは? と、考えたのだ…
私が、そう考えていると、
「…お姉さん…申し訳ありませんでした…」
と、バニラが、まるで、土下座せんばかりに、私に詫びた…
詫びたのだ…
が、
私は、まだ、バニラに騙されるわけには、いかんかった…
この矢田トモコの未来のためにも、このバカなバニラに騙されるわけには、いかんかった…
「…なぜだ? …バニラ?…」
私は、聞いた…
「…オマエは、私が嫌いだろ? …さっさと葉敬に言いつけて、私を追放すれば、いいさ…」
私は、言った…
「…そうなれば、もはや、私も二度とオマエと顔を合わすことは、あるまい…所詮、私と、オマエたちとは、住む世界が、違う…」
「…」
「…さらばだ…」
私は、言うと、踵(きびす)を返して、再び歩き出した…
すると、その背中に、
「…待って、お姉さん…」
と、バニラが叫んだ…
「…行かないで…」
が、
それでも、私は、歩みを止めず、歩いた…
そしたら、あろうことか、いきなり、バニラが、私を背後から、羽交い絞めにした…
「…お姉さん…行かないで…」
バニラが、私を抱き締めた…
「…これまでのことは、すべて、謝ります…だから、行かないで…」
気が付くと、バニラが涙を流しながら、私に懇願した…
私には、なにが、なんだか、わからなかった…
159㎝の私が、180㎝のバニラに抱き締められて、当惑していた…
これまで、さんざん、私の悪口の限りを言っていたバニラが、私が出てゆくと言うと、今度は、一転して、私を抱き締めて、出て行かないで、と、涙ながらに懇願する…
これでは、誰もが、当惑するに決まっている…
「…なぜだ?…」
私は、言った…
「…オマエは、私が嫌いなはずだ?…」
「…嫌いなんかじゃ、ありません…」
バニラが、涙ながらに言った…
「…嫌いじゃないだと?…」
「…ハイ…」
「…ならば、どうして、私の悪口を言う…私をからかう…」
「…嫉妬です…」
バニラが泣きながら、答えた…
「…嫉妬だと? …どういう意味だ?…」
「…さっきの話に戻りますが、仮に、葉敬に、お姉さんが、リンダとファラドの結婚を画策していると言っても、葉敬は、なにも言いません…」
「…どうしてだ? …どうして、葉敬は、なにも言わないんだ?…」
「…それは、お姉さんが、葉敬のお気に入りだからです…」
「…私が、葉敬のお気に入り?…」
「…そうです…葉敬は、私とお姉さんのどちらを選べと言われれば、迷わず、お姉さんを選びます…それほど、お姉さんを、好きなんです…」
…なんだと?…
…それは、驚きだった…
…驚きの発言だった…
…まさか…
…まさか、この矢田トモコが、あの葉敬にそれほど、気に入られているとは、思わんかった…
…一体なぜ?…
…どうして、この矢田は、あの葉敬にそれほど、気に入られているのか?…
…さっぱり、わからんかった…
…まさか、あの葉敬が、私に気があるわけではあるまい…
「…どうしてだ? …どうして、葉敬は、そんなに私が好きなんだ?…」
「…それは、たぶん、葉尊のため…」
「…葉尊のためだと?…」
「…おそらく、世界中で、お姉さんだけが、葉尊を癒すことができる…」
「…私だけ?…」
「…お姉さんには、不思議な力がある…」
「…不思議な力?…」
「…ひとを癒す力がある…周囲の人間を明るくする力がある…」
「…」
「…葉敬は、お姉さんの、その不思議な力を高く買っている…評価している…だから、なにがあっても、お姉さんを手放すわけはない…」
…不思議な力…
たしか、あの矢口のお嬢様も、そんなことを言っていた…
「…矢田…オマエには、不思議な力がある、と…」
そして、同じことは、あの葉問も言っていた…
葉尊のもう一つの人格である葉問…
本来は、葉尊の一卵性双生児の弟であり、葉尊の不注意により、事故で亡くなった葉問…
それを、信じたくなかった葉尊は、無意識に、自分の中に、葉問を作り出した…
つまりは、自分の肉体を使って、死んだ葉問を復活させたのだ…
その葉問も、以前、言葉は違うが、矢口のお嬢様と、同じことを言っていた…
「…お姉さんだけが、葉尊を癒すことができる、と…」
そして、葉尊が、葉問を、己の不注意で、亡くした、心の傷を癒すことができたとき、
葉問は、自分が、この世から、消滅するとも、言った…
自分はあくまで、葉尊の罪の意識から、無意識に、葉尊が、自分の中に、作り出した存在…
葉尊が、罪の意識を癒すことができれば、当たり前だが、自分は、消滅する…
そういうことだ…
そして、それを誰よりも、願っているのは、葉敬…
葉尊の実父の葉敬だった…
それゆえ、葉敬は、私を、矢田トモコを大切にするのだと、葉問は、私に説明した…
そして、私は、それを信じた…
私に、葉尊を癒す力など、あるはずがないが、どうして、葉敬が、私を大切にするかの説明にはなるからだ…
葉問の言うことが、正しいか否かは、わからないが、少なくとも、葉問は、葉敬が、私を大切にする理由を、そう見たのだ…
それにしても…
それを思い出すと、矢口のお嬢様も、葉敬も私を買いかぶり過ぎだと思った…
私は、平凡…
どこにでもいる、平凡な女だからだ…
そんな、どこにでもいる平凡な、矢田トモコに、そんな力など、あるはずもなかった(爆笑)…
つまりは、なぜか、みんなが…
この矢田トモコの周囲にいる人間たちが、なぜか、この矢田の力を、大きく見ている…
矢田の実力を勘違いしているということだった(笑)…
なぜか、わからないが、この矢田トモコの実力を十倍、二十倍どころか、百倍、千倍と、勘違いして、いることだ(笑)…
私は、思った…
そして、それを利用しない手はない…
ふと、気付いた…
要するに、周りの人間が、勝手に、誤解しているだけだが、この誤解を利用しない手はない…
そういうことだ…
それに、気付いた私は、バニラの腕の中にいたが、すぐに、
「…バニラ…わかった…」
と、重々しく言った…
「…オマエの言う通りにしてやろう…」
私が言うと、バニラの動きが止まった…
明らかに、私を抱き締める腕の力が、弱くなった…
「…これは、借りだ…バニラ…」
「…借り?…」
「…そうさ…オマエに免じて、葉尊と別れることは、止めてやろう…」
私は、重々しく言った…
本当は、私が葉尊から、離婚される話だったが、なぜか、私が、葉尊と離婚しない話になった…
いつのまにか、イニシアチブ=主導権を、私が、握っていた…
正直、わけのわからん展開だった…
いつものことだった(笑)…
私の人生には、なぜか、そんなことがときどき、ある…
いや、
ありふれている(爆笑)…
その最大のラッキーが、葉尊との結婚だろう…
私は、思った…
短大を卒業しても、就職もせず、バイト暮らし…
いわゆるフリーターで、35歳になった、女が、偶然、葉尊と知り合い、結婚できた…
葉尊は、長身のイケメン…
おまけに、大金持ちだった…
つまり、葉尊と結婚することで、私は、人生が、逆転した…
ピンチをチャンスに変えたのだ…
要するに、今の私の置かれた状況といっしょ…
バニラが、私を脅していたのが、いつのまにか、私に許しを請う立場に、なった…
立場が、逆転したのだ…
私は、それを思った…
すると、
「…わかりました…お姉さん…」
という声が聞こえた…
バニラの声だった…
「…これは、私の借りです…お姉さんに対する私の借りです…」
バニラが、しおらしく言った…
私は、バニラが、あまりにも、しおらしく言うので、真逆にバニラの言動が、不安になった…
まさかとは、思うが、またも、この矢田を騙しているかもしれんと、思ったのだ…
私は、バニラに抱き締められながら、バニラの顔を見た…
もしや、ずるがしこく、私を笑っているのでは? と、思ったのだ…
が、
それはなかった…
バニラは、目を閉じたまま、涙を流していた…
そして、その姿は美しかった…
実に、美しかったのだ…
バニラは、まだ23歳…
あのリンダと比べても、6歳若い…
だから、近くで見ると、肌が美しい…
リンダには、申し訳ないが、リンダよりも、若いから、当然だ…
そして、それを考えると、あのファラドと、このバニラが結婚しても、いいと思った…
率直に言って、男というものは、若い女が好きなのは、世界共通だ…
バニラは、リンダよりも、6歳若い…
だから、バニラと、ファラドが結婚すれば、いいとも思った…
そうすれば、このバカなバニラと二度と会う機会は、ないからだ…
その方が、私にとって、都合がいい…
が、
それは、できんかった…
このバニラは、葉尊の父、葉敬の愛人…
葉敬の娘、マリアの母親でもある…
だから、ファラドと、バニラをくっつけることは、できんかった…
考えてみれば、実に残念…
残念だった…
せっかく、このバカなバニラを目の前から、消せる絶好の機会だったかもしれんのに…
それを考えると、我ながら、ため息が出た…
…世の中、うまくいかんものだ…
実に、残念な結果だった…
このバカなバニラを処分する絶好の機会を逃したのだ…
そう考えながら、バニラを見た…
両目を閉じたまま、涙を流す、バニラを見た…
しかし、美人…
なんという美人なんだ!…
あらためて、思った…
小柄な私を抱き締める姿は、まさに、聖母マリア…
目を閉じていても、圧倒的な美貌は、隠せない…
そんなことを、考えていると、ふと、ファラドのことを、考えた…
ファラドと結婚する女が、アラブの女神と呼ばれると、噂されていることを、だ…
その一方で、そのファラドは、マザコンだとも、言っていた…
マザコン=要するに、母親離れができていないのだ…
ファラドは、幼いときに、母親が死んだから、マザコンになったと、言っていた…
ならば、普通に、考えれば、そのファラドの亡くなった母親は、美人だったに違いない…
だから、余計にマザコンになったのだ…
私は、考えた…
そして、このバニラのことを、思った…
リンダとバニラの差…
その一番の違いは、子供がいるか、どうかだ…
リンダは、おとなしめで、愛情豊かに見えるが、実際のところは、このバニラの方が、子供がいるだけあって、愛情深い…
と、なると、どうだ?
やはり、ファラドの結婚相手には、リンダではなく、このバニラがふさわしいのではないか?
マザコン=母親の愛情を求めているのだ…
それならば、リンダよりも、バニラの方が、愛情深い…
そういうことだ…
このバニラならば、ファラドと仲良くなりさえすれば、ファラドにたっぷりと、愛情を注げるのではないか?
私は、思った…
が、
何度も言うが、このバニラは、葉敬の愛人…
私の夫、葉尊の実父、葉敬の愛人だから、そんなことはできない…
…物事というものは、やはり、うまくいかんものだ…
私は、バニラに抱き締められながら、考えた…
まるで、女神のような、美人のバニラに抱き締められながら、考えた…
矢田トモコ、35歳…
世の中というものは、うまくいかんものだと、世の不条理について、悩んだ…
そんな一日だった(爆笑)…
…まさに、ピンチ…
…絶対絶命のピンチだった…
万事休す…
すべて、終わった…
この矢田トモコの35歳のシンデレラと、世間にもてはやされた、日々は終わった…
終わったのだ…
もはや、婚活から、始めなければ、ならない…
万が一…
百万分の一や、一千万分の一の確率で、葉尊と同じか、それ以上のイケメンと結婚できるかもしれんが、もはや、葉尊以上のお金持ちと結婚できることは、無理…
ありえんかった…
現実的なところでは、実家に戻って、パート探しから、始めなければ、ならんだろう…
そう考えると、途端に、気が重くなった…
とんでもなく、重くなった…
気が滅入ったのだ…
小心者の私は、今にも、倒れそうだった…
卒倒しそうだった…
元々、この矢田トモコは、気が弱い、小心者…
気が強いフリをしているだけだった…
が、
その鎧(よろい)が、あっけなく、脱げた…
自分でも、驚くほど、あっけなく脱げた…
私は、もはや、バニラなど、どうでも、良かった…
どうでも、良くなった…
この矢田トモコは、元のフリーターに戻るだけ…
だから、この目の前のバニラ・ルインスキーとは、もはや、縁もゆかりもない、赤の他人だった…
私の落胆ぶりが、傍目にも、わかったのだろう…
バニラが…バカなバニラが、
「…ちょっと…お姉さん、どうしたの?…」
と、聞いた…
が、
私は、すでに、答える気力もなくしていた…
すべてが、どうでも、よくなった…
「…勝手にすれば、いいさ…」
気が付くと、そう、呟いていた…
バニラが、驚いて、目を丸くして、私を見た…
「…勝手にすればって?…」
「…オマエの好きにすれば、いいさ…」
私は、力なく、呟いた…
「…オマエの好きにすればいい…別に、私は、オマエの行動を止めんさ…たしかに、葉尊とリンダは、お似合いさ…美男美女のカップル…おまけに有名人…まさに、絵に描いたカップルさ…私とは、雲泥の差さ…それを、考えれば、葉尊も私と別れて、リンダと結婚した方が、幸せだろう…なにしろ、二人は、学時代からの友人…おまけに親友だ…」
私は、力なく、言った…
「…バニラ…これで、私もオマエとも、お別れさ…今日を限りに、オマエと会う機会は、二度とないだろう…私は、これから、寝室に行って、ベッドに入って、今後のことを、考えるさ…バニラ…オマエは、ここにいても、いいが、帰るときは、言ってくれ…家の鍵を閉めねば、ならんからな…」
私が、言うと、バニラが、
「…」
と、絶句した…
「…それでは、後を頼むゾ…」
私は、言って、机の前から、立ち上がって、歩き出した…
その背中に、バニラが、
「…待って、お姉さん…」
と、叫んだ…
「…ホント、どうしちゃったの?…」
と、バニラが、当惑した表情で、聞いた…
「…どうしただと? …オマエのせいさ…」
私は、言った…
「…これ以上の論争は、お互い不毛だ…」
そう言って、私は、歩き出した…
「…冗談よ! お姉さん!…」
バニラが叫んだ…
「…冗談?…」
その言葉で、私は、足を止めた…
26㎝と、身長159㎝のわりには、巨大な足を止めた…
「…どういう意味だ?…」
私は、振り返って、バニラを見た…
「…冗談よ…お姉さん…お姉さんが、リンダをファラドとくっつけようと提案するから、それをネタにお姉さんをからかっただけ…」
「…からかっただけ?…」
「…そうよ…お姉さんの気持ちは、わかる…」
「…私の気持ち?…」
「…リンダは、あの通りの絶世の美女…だから、自分の夫が、リンダと仲良くすれば、気が気じゃないでしょ?…」
「…」
「…だから、ちょっとばかり、お姉さんをからかっただけ…お姉さんにイジワルしただけ…」
バニラが、告白した…
私は、考えた…
そのバニラの告白が、本当か、ウソか、考えたのだ…
この目の前のバニラ・ルインスキー…
正真正銘のバカで、ろくでもない女で、しかも、妙にずるがしこいところがある…
まさか、私を罠にはめるのでは? と、考えたのだ…
私が、そう考えていると、
「…お姉さん…申し訳ありませんでした…」
と、バニラが、まるで、土下座せんばかりに、私に詫びた…
詫びたのだ…
が、
私は、まだ、バニラに騙されるわけには、いかんかった…
この矢田トモコの未来のためにも、このバカなバニラに騙されるわけには、いかんかった…
「…なぜだ? …バニラ?…」
私は、聞いた…
「…オマエは、私が嫌いだろ? …さっさと葉敬に言いつけて、私を追放すれば、いいさ…」
私は、言った…
「…そうなれば、もはや、私も二度とオマエと顔を合わすことは、あるまい…所詮、私と、オマエたちとは、住む世界が、違う…」
「…」
「…さらばだ…」
私は、言うと、踵(きびす)を返して、再び歩き出した…
すると、その背中に、
「…待って、お姉さん…」
と、バニラが叫んだ…
「…行かないで…」
が、
それでも、私は、歩みを止めず、歩いた…
そしたら、あろうことか、いきなり、バニラが、私を背後から、羽交い絞めにした…
「…お姉さん…行かないで…」
バニラが、私を抱き締めた…
「…これまでのことは、すべて、謝ります…だから、行かないで…」
気が付くと、バニラが涙を流しながら、私に懇願した…
私には、なにが、なんだか、わからなかった…
159㎝の私が、180㎝のバニラに抱き締められて、当惑していた…
これまで、さんざん、私の悪口の限りを言っていたバニラが、私が出てゆくと言うと、今度は、一転して、私を抱き締めて、出て行かないで、と、涙ながらに懇願する…
これでは、誰もが、当惑するに決まっている…
「…なぜだ?…」
私は、言った…
「…オマエは、私が嫌いなはずだ?…」
「…嫌いなんかじゃ、ありません…」
バニラが、涙ながらに言った…
「…嫌いじゃないだと?…」
「…ハイ…」
「…ならば、どうして、私の悪口を言う…私をからかう…」
「…嫉妬です…」
バニラが泣きながら、答えた…
「…嫉妬だと? …どういう意味だ?…」
「…さっきの話に戻りますが、仮に、葉敬に、お姉さんが、リンダとファラドの結婚を画策していると言っても、葉敬は、なにも言いません…」
「…どうしてだ? …どうして、葉敬は、なにも言わないんだ?…」
「…それは、お姉さんが、葉敬のお気に入りだからです…」
「…私が、葉敬のお気に入り?…」
「…そうです…葉敬は、私とお姉さんのどちらを選べと言われれば、迷わず、お姉さんを選びます…それほど、お姉さんを、好きなんです…」
…なんだと?…
…それは、驚きだった…
…驚きの発言だった…
…まさか…
…まさか、この矢田トモコが、あの葉敬にそれほど、気に入られているとは、思わんかった…
…一体なぜ?…
…どうして、この矢田は、あの葉敬にそれほど、気に入られているのか?…
…さっぱり、わからんかった…
…まさか、あの葉敬が、私に気があるわけではあるまい…
「…どうしてだ? …どうして、葉敬は、そんなに私が好きなんだ?…」
「…それは、たぶん、葉尊のため…」
「…葉尊のためだと?…」
「…おそらく、世界中で、お姉さんだけが、葉尊を癒すことができる…」
「…私だけ?…」
「…お姉さんには、不思議な力がある…」
「…不思議な力?…」
「…ひとを癒す力がある…周囲の人間を明るくする力がある…」
「…」
「…葉敬は、お姉さんの、その不思議な力を高く買っている…評価している…だから、なにがあっても、お姉さんを手放すわけはない…」
…不思議な力…
たしか、あの矢口のお嬢様も、そんなことを言っていた…
「…矢田…オマエには、不思議な力がある、と…」
そして、同じことは、あの葉問も言っていた…
葉尊のもう一つの人格である葉問…
本来は、葉尊の一卵性双生児の弟であり、葉尊の不注意により、事故で亡くなった葉問…
それを、信じたくなかった葉尊は、無意識に、自分の中に、葉問を作り出した…
つまりは、自分の肉体を使って、死んだ葉問を復活させたのだ…
その葉問も、以前、言葉は違うが、矢口のお嬢様と、同じことを言っていた…
「…お姉さんだけが、葉尊を癒すことができる、と…」
そして、葉尊が、葉問を、己の不注意で、亡くした、心の傷を癒すことができたとき、
葉問は、自分が、この世から、消滅するとも、言った…
自分はあくまで、葉尊の罪の意識から、無意識に、葉尊が、自分の中に、作り出した存在…
葉尊が、罪の意識を癒すことができれば、当たり前だが、自分は、消滅する…
そういうことだ…
そして、それを誰よりも、願っているのは、葉敬…
葉尊の実父の葉敬だった…
それゆえ、葉敬は、私を、矢田トモコを大切にするのだと、葉問は、私に説明した…
そして、私は、それを信じた…
私に、葉尊を癒す力など、あるはずがないが、どうして、葉敬が、私を大切にするかの説明にはなるからだ…
葉問の言うことが、正しいか否かは、わからないが、少なくとも、葉問は、葉敬が、私を大切にする理由を、そう見たのだ…
それにしても…
それを思い出すと、矢口のお嬢様も、葉敬も私を買いかぶり過ぎだと思った…
私は、平凡…
どこにでもいる、平凡な女だからだ…
そんな、どこにでもいる平凡な、矢田トモコに、そんな力など、あるはずもなかった(爆笑)…
つまりは、なぜか、みんなが…
この矢田トモコの周囲にいる人間たちが、なぜか、この矢田の力を、大きく見ている…
矢田の実力を勘違いしているということだった(笑)…
なぜか、わからないが、この矢田トモコの実力を十倍、二十倍どころか、百倍、千倍と、勘違いして、いることだ(笑)…
私は、思った…
そして、それを利用しない手はない…
ふと、気付いた…
要するに、周りの人間が、勝手に、誤解しているだけだが、この誤解を利用しない手はない…
そういうことだ…
それに、気付いた私は、バニラの腕の中にいたが、すぐに、
「…バニラ…わかった…」
と、重々しく言った…
「…オマエの言う通りにしてやろう…」
私が言うと、バニラの動きが止まった…
明らかに、私を抱き締める腕の力が、弱くなった…
「…これは、借りだ…バニラ…」
「…借り?…」
「…そうさ…オマエに免じて、葉尊と別れることは、止めてやろう…」
私は、重々しく言った…
本当は、私が葉尊から、離婚される話だったが、なぜか、私が、葉尊と離婚しない話になった…
いつのまにか、イニシアチブ=主導権を、私が、握っていた…
正直、わけのわからん展開だった…
いつものことだった(笑)…
私の人生には、なぜか、そんなことがときどき、ある…
いや、
ありふれている(爆笑)…
その最大のラッキーが、葉尊との結婚だろう…
私は、思った…
短大を卒業しても、就職もせず、バイト暮らし…
いわゆるフリーターで、35歳になった、女が、偶然、葉尊と知り合い、結婚できた…
葉尊は、長身のイケメン…
おまけに、大金持ちだった…
つまり、葉尊と結婚することで、私は、人生が、逆転した…
ピンチをチャンスに変えたのだ…
要するに、今の私の置かれた状況といっしょ…
バニラが、私を脅していたのが、いつのまにか、私に許しを請う立場に、なった…
立場が、逆転したのだ…
私は、それを思った…
すると、
「…わかりました…お姉さん…」
という声が聞こえた…
バニラの声だった…
「…これは、私の借りです…お姉さんに対する私の借りです…」
バニラが、しおらしく言った…
私は、バニラが、あまりにも、しおらしく言うので、真逆にバニラの言動が、不安になった…
まさかとは、思うが、またも、この矢田を騙しているかもしれんと、思ったのだ…
私は、バニラに抱き締められながら、バニラの顔を見た…
もしや、ずるがしこく、私を笑っているのでは? と、思ったのだ…
が、
それはなかった…
バニラは、目を閉じたまま、涙を流していた…
そして、その姿は美しかった…
実に、美しかったのだ…
バニラは、まだ23歳…
あのリンダと比べても、6歳若い…
だから、近くで見ると、肌が美しい…
リンダには、申し訳ないが、リンダよりも、若いから、当然だ…
そして、それを考えると、あのファラドと、このバニラが結婚しても、いいと思った…
率直に言って、男というものは、若い女が好きなのは、世界共通だ…
バニラは、リンダよりも、6歳若い…
だから、バニラと、ファラドが結婚すれば、いいとも思った…
そうすれば、このバカなバニラと二度と会う機会は、ないからだ…
その方が、私にとって、都合がいい…
が、
それは、できんかった…
このバニラは、葉尊の父、葉敬の愛人…
葉敬の娘、マリアの母親でもある…
だから、ファラドと、バニラをくっつけることは、できんかった…
考えてみれば、実に残念…
残念だった…
せっかく、このバカなバニラを目の前から、消せる絶好の機会だったかもしれんのに…
それを考えると、我ながら、ため息が出た…
…世の中、うまくいかんものだ…
実に、残念な結果だった…
このバカなバニラを処分する絶好の機会を逃したのだ…
そう考えながら、バニラを見た…
両目を閉じたまま、涙を流す、バニラを見た…
しかし、美人…
なんという美人なんだ!…
あらためて、思った…
小柄な私を抱き締める姿は、まさに、聖母マリア…
目を閉じていても、圧倒的な美貌は、隠せない…
そんなことを、考えていると、ふと、ファラドのことを、考えた…
ファラドと結婚する女が、アラブの女神と呼ばれると、噂されていることを、だ…
その一方で、そのファラドは、マザコンだとも、言っていた…
マザコン=要するに、母親離れができていないのだ…
ファラドは、幼いときに、母親が死んだから、マザコンになったと、言っていた…
ならば、普通に、考えれば、そのファラドの亡くなった母親は、美人だったに違いない…
だから、余計にマザコンになったのだ…
私は、考えた…
そして、このバニラのことを、思った…
リンダとバニラの差…
その一番の違いは、子供がいるか、どうかだ…
リンダは、おとなしめで、愛情豊かに見えるが、実際のところは、このバニラの方が、子供がいるだけあって、愛情深い…
と、なると、どうだ?
やはり、ファラドの結婚相手には、リンダではなく、このバニラがふさわしいのではないか?
マザコン=母親の愛情を求めているのだ…
それならば、リンダよりも、バニラの方が、愛情深い…
そういうことだ…
このバニラならば、ファラドと仲良くなりさえすれば、ファラドにたっぷりと、愛情を注げるのではないか?
私は、思った…
が、
何度も言うが、このバニラは、葉敬の愛人…
私の夫、葉尊の実父、葉敬の愛人だから、そんなことはできない…
…物事というものは、やはり、うまくいかんものだ…
私は、バニラに抱き締められながら、考えた…
まるで、女神のような、美人のバニラに抱き締められながら、考えた…
矢田トモコ、35歳…
世の中というものは、うまくいかんものだと、世の不条理について、悩んだ…
そんな一日だった(爆笑)…