第44話

文字数 6,204文字

 …ピンチ…

 …まさに、ピンチ…

 …絶対絶命のピンチだった…

 万事休す…

 すべて、終わった…

 この矢田トモコの35歳のシンデレラと、世間にもてはやされた、日々は終わった…

 終わったのだ…

 もはや、婚活から、始めなければ、ならない…

 万が一…

 百万分の一や、一千万分の一の確率で、葉尊と同じか、それ以上のイケメンと結婚できるかもしれんが、もはや、葉尊以上のお金持ちと結婚できることは、無理…

 ありえんかった…

 現実的なところでは、実家に戻って、パート探しから、始めなければ、ならんだろう…

 そう考えると、途端に、気が重くなった…

 とんでもなく、重くなった…

 気が滅入ったのだ…

 小心者の私は、今にも、倒れそうだった…

 卒倒しそうだった…

 元々、この矢田トモコは、気が弱い、小心者…

 気が強いフリをしているだけだった…

 が、

 その鎧(よろい)が、あっけなく、脱げた…

 自分でも、驚くほど、あっけなく脱げた…

 私は、もはや、バニラなど、どうでも、良かった…

 どうでも、良くなった…

 この矢田トモコは、元のフリーターに戻るだけ…

 だから、この目の前のバニラ・ルインスキーとは、もはや、縁もゆかりもない、赤の他人だった…

 私の落胆ぶりが、傍目にも、わかったのだろう…

 バニラが…バカなバニラが、

 「…ちょっと…お姉さん、どうしたの?…」

 と、聞いた…

 が、

 私は、すでに、答える気力もなくしていた…

 すべてが、どうでも、よくなった…

 「…勝手にすれば、いいさ…」

 気が付くと、そう、呟いていた…

 バニラが、驚いて、目を丸くして、私を見た…

 「…勝手にすればって?…」

 「…オマエの好きにすれば、いいさ…」

 私は、力なく、呟いた…

 「…オマエの好きにすればいい…別に、私は、オマエの行動を止めんさ…たしかに、葉尊とリンダは、お似合いさ…美男美女のカップル…おまけに有名人…まさに、絵に描いたカップルさ…私とは、雲泥の差さ…それを、考えれば、葉尊も私と別れて、リンダと結婚した方が、幸せだろう…なにしろ、二人は、学時代からの友人…おまけに親友だ…」

 私は、力なく、言った…

 「…バニラ…これで、私もオマエとも、お別れさ…今日を限りに、オマエと会う機会は、二度とないだろう…私は、これから、寝室に行って、ベッドに入って、今後のことを、考えるさ…バニラ…オマエは、ここにいても、いいが、帰るときは、言ってくれ…家の鍵を閉めねば、ならんからな…」

 私が、言うと、バニラが、

 「…」

 と、絶句した…

 「…それでは、後を頼むゾ…」

 私は、言って、机の前から、立ち上がって、歩き出した…

 その背中に、バニラが、

 「…待って、お姉さん…」

 と、叫んだ…

 「…ホント、どうしちゃったの?…」

 と、バニラが、当惑した表情で、聞いた…

 「…どうしただと? …オマエのせいさ…」

 私は、言った…

 「…これ以上の論争は、お互い不毛だ…」

 そう言って、私は、歩き出した…

 「…冗談よ! お姉さん!…」

 バニラが叫んだ…

 「…冗談?…」

 その言葉で、私は、足を止めた…

 26㎝と、身長159㎝のわりには、巨大な足を止めた…

 「…どういう意味だ?…」

 私は、振り返って、バニラを見た…

 「…冗談よ…お姉さん…お姉さんが、リンダをファラドとくっつけようと提案するから、それをネタにお姉さんをからかっただけ…」

 「…からかっただけ?…」

 「…そうよ…お姉さんの気持ちは、わかる…」

 「…私の気持ち?…」

 「…リンダは、あの通りの絶世の美女…だから、自分の夫が、リンダと仲良くすれば、気が気じゃないでしょ?…」

 「…」

 「…だから、ちょっとばかり、お姉さんをからかっただけ…お姉さんにイジワルしただけ…」

 バニラが、告白した…

 私は、考えた…

 そのバニラの告白が、本当か、ウソか、考えたのだ…

 この目の前のバニラ・ルインスキー…

 正真正銘のバカで、ろくでもない女で、しかも、妙にずるがしこいところがある…

 まさか、私を罠にはめるのでは? と、考えたのだ…

 私が、そう考えていると、

 「…お姉さん…申し訳ありませんでした…」

 と、バニラが、まるで、土下座せんばかりに、私に詫びた…

 詫びたのだ…

 が、

 私は、まだ、バニラに騙されるわけには、いかんかった…

 この矢田トモコの未来のためにも、このバカなバニラに騙されるわけには、いかんかった…

 「…なぜだ? …バニラ?…」

 私は、聞いた…

 「…オマエは、私が嫌いだろ? …さっさと葉敬に言いつけて、私を追放すれば、いいさ…」

 私は、言った…

 「…そうなれば、もはや、私も二度とオマエと顔を合わすことは、あるまい…所詮、私と、オマエたちとは、住む世界が、違う…」

 「…」

 「…さらばだ…」

 私は、言うと、踵(きびす)を返して、再び歩き出した…

 すると、その背中に、

 「…待って、お姉さん…」

 と、バニラが叫んだ…

 「…行かないで…」

 が、

 それでも、私は、歩みを止めず、歩いた…

 そしたら、あろうことか、いきなり、バニラが、私を背後から、羽交い絞めにした…

 「…お姉さん…行かないで…」

 バニラが、私を抱き締めた…

 「…これまでのことは、すべて、謝ります…だから、行かないで…」

 気が付くと、バニラが涙を流しながら、私に懇願した…

 私には、なにが、なんだか、わからなかった…

 159㎝の私が、180㎝のバニラに抱き締められて、当惑していた…

 これまで、さんざん、私の悪口の限りを言っていたバニラが、私が出てゆくと言うと、今度は、一転して、私を抱き締めて、出て行かないで、と、涙ながらに懇願する…

 これでは、誰もが、当惑するに決まっている…

 「…なぜだ?…」

 私は、言った…

 「…オマエは、私が嫌いなはずだ?…」

 「…嫌いなんかじゃ、ありません…」

 バニラが、涙ながらに言った…

 「…嫌いじゃないだと?…」

 「…ハイ…」

 「…ならば、どうして、私の悪口を言う…私をからかう…」

 「…嫉妬です…」

 バニラが泣きながら、答えた…

 「…嫉妬だと? …どういう意味だ?…」

 「…さっきの話に戻りますが、仮に、葉敬に、お姉さんが、リンダとファラドの結婚を画策していると言っても、葉敬は、なにも言いません…」

 「…どうしてだ? …どうして、葉敬は、なにも言わないんだ?…」

 「…それは、お姉さんが、葉敬のお気に入りだからです…」

 「…私が、葉敬のお気に入り?…」

 「…そうです…葉敬は、私とお姉さんのどちらを選べと言われれば、迷わず、お姉さんを選びます…それほど、お姉さんを、好きなんです…」

 …なんだと?…

 …それは、驚きだった…

 …驚きの発言だった…

 …まさか…

 …まさか、この矢田トモコが、あの葉敬にそれほど、気に入られているとは、思わんかった…

 …一体なぜ?…

 …どうして、この矢田は、あの葉敬にそれほど、気に入られているのか?…

 …さっぱり、わからんかった…

 …まさか、あの葉敬が、私に気があるわけではあるまい…

 「…どうしてだ? …どうして、葉敬は、そんなに私が好きなんだ?…」

 「…それは、たぶん、葉尊のため…」

 「…葉尊のためだと?…」

 「…おそらく、世界中で、お姉さんだけが、葉尊を癒すことができる…」

 「…私だけ?…」

 「…お姉さんには、不思議な力がある…」

 「…不思議な力?…」

 「…ひとを癒す力がある…周囲の人間を明るくする力がある…」

 「…」

 「…葉敬は、お姉さんの、その不思議な力を高く買っている…評価している…だから、なにがあっても、お姉さんを手放すわけはない…」

 …不思議な力…

 たしか、あの矢口のお嬢様も、そんなことを言っていた…

 「…矢田…オマエには、不思議な力がある、と…」

 そして、同じことは、あの葉問も言っていた…

 葉尊のもう一つの人格である葉問…

 本来は、葉尊の一卵性双生児の弟であり、葉尊の不注意により、事故で亡くなった葉問…

 それを、信じたくなかった葉尊は、無意識に、自分の中に、葉問を作り出した…

 つまりは、自分の肉体を使って、死んだ葉問を復活させたのだ…

 その葉問も、以前、言葉は違うが、矢口のお嬢様と、同じことを言っていた…

 「…お姉さんだけが、葉尊を癒すことができる、と…」

 そして、葉尊が、葉問を、己の不注意で、亡くした、心の傷を癒すことができたとき、
葉問は、自分が、この世から、消滅するとも、言った…

 自分はあくまで、葉尊の罪の意識から、無意識に、葉尊が、自分の中に、作り出した存在…

 葉尊が、罪の意識を癒すことができれば、当たり前だが、自分は、消滅する…

 そういうことだ…

 そして、それを誰よりも、願っているのは、葉敬…

 葉尊の実父の葉敬だった…

 それゆえ、葉敬は、私を、矢田トモコを大切にするのだと、葉問は、私に説明した…

 そして、私は、それを信じた…

 私に、葉尊を癒す力など、あるはずがないが、どうして、葉敬が、私を大切にするかの説明にはなるからだ…

 葉問の言うことが、正しいか否かは、わからないが、少なくとも、葉問は、葉敬が、私を大切にする理由を、そう見たのだ…

 それにしても…

 それを思い出すと、矢口のお嬢様も、葉敬も私を買いかぶり過ぎだと思った…

 私は、平凡…

 どこにでもいる、平凡な女だからだ…

 そんな、どこにでもいる平凡な、矢田トモコに、そんな力など、あるはずもなかった(爆笑)…

 つまりは、なぜか、みんなが…

 この矢田トモコの周囲にいる人間たちが、なぜか、この矢田の力を、大きく見ている…

 矢田の実力を勘違いしているということだった(笑)…

 なぜか、わからないが、この矢田トモコの実力を十倍、二十倍どころか、百倍、千倍と、勘違いして、いることだ(笑)…

 私は、思った…

 そして、それを利用しない手はない…

 ふと、気付いた…

 要するに、周りの人間が、勝手に、誤解しているだけだが、この誤解を利用しない手はない…

 そういうことだ…

 それに、気付いた私は、バニラの腕の中にいたが、すぐに、

 「…バニラ…わかった…」

 と、重々しく言った…

 「…オマエの言う通りにしてやろう…」

 私が言うと、バニラの動きが止まった…

 明らかに、私を抱き締める腕の力が、弱くなった…

 「…これは、借りだ…バニラ…」

 「…借り?…」

 「…そうさ…オマエに免じて、葉尊と別れることは、止めてやろう…」

 私は、重々しく言った…

 本当は、私が葉尊から、離婚される話だったが、なぜか、私が、葉尊と離婚しない話になった…

 いつのまにか、イニシアチブ=主導権を、私が、握っていた…

 正直、わけのわからん展開だった…

 いつものことだった(笑)…

 私の人生には、なぜか、そんなことがときどき、ある…

 いや、

 ありふれている(爆笑)…

 その最大のラッキーが、葉尊との結婚だろう…

 私は、思った…

 短大を卒業しても、就職もせず、バイト暮らし…

 いわゆるフリーターで、35歳になった、女が、偶然、葉尊と知り合い、結婚できた…

 葉尊は、長身のイケメン…

 おまけに、大金持ちだった…

 つまり、葉尊と結婚することで、私は、人生が、逆転した…

 ピンチをチャンスに変えたのだ…

 要するに、今の私の置かれた状況といっしょ…

 バニラが、私を脅していたのが、いつのまにか、私に許しを請う立場に、なった…

 立場が、逆転したのだ…

 私は、それを思った…

 すると、

 「…わかりました…お姉さん…」

 という声が聞こえた…

 バニラの声だった…

 「…これは、私の借りです…お姉さんに対する私の借りです…」

 バニラが、しおらしく言った…

 私は、バニラが、あまりにも、しおらしく言うので、真逆にバニラの言動が、不安になった…

 まさかとは、思うが、またも、この矢田を騙しているかもしれんと、思ったのだ…

 私は、バニラに抱き締められながら、バニラの顔を見た…

 もしや、ずるがしこく、私を笑っているのでは? と、思ったのだ…

 が、

 それはなかった…

 バニラは、目を閉じたまま、涙を流していた…

 そして、その姿は美しかった…

 実に、美しかったのだ…

 バニラは、まだ23歳…

 あのリンダと比べても、6歳若い…

 だから、近くで見ると、肌が美しい…

 リンダには、申し訳ないが、リンダよりも、若いから、当然だ…

 そして、それを考えると、あのファラドと、このバニラが結婚しても、いいと思った…

 率直に言って、男というものは、若い女が好きなのは、世界共通だ…

 バニラは、リンダよりも、6歳若い…

 だから、バニラと、ファラドが結婚すれば、いいとも思った…

 そうすれば、このバカなバニラと二度と会う機会は、ないからだ…

 その方が、私にとって、都合がいい…

 が、

 それは、できんかった…

 このバニラは、葉尊の父、葉敬の愛人…

 葉敬の娘、マリアの母親でもある…

 だから、ファラドと、バニラをくっつけることは、できんかった…

 考えてみれば、実に残念…

 残念だった…

 せっかく、このバカなバニラを目の前から、消せる絶好の機会だったかもしれんのに…

 それを考えると、我ながら、ため息が出た…

 …世の中、うまくいかんものだ…

 実に、残念な結果だった…

 このバカなバニラを処分する絶好の機会を逃したのだ…

 そう考えながら、バニラを見た…

 両目を閉じたまま、涙を流す、バニラを見た…

 しかし、美人…

 なんという美人なんだ!…

 あらためて、思った…

 小柄な私を抱き締める姿は、まさに、聖母マリア…

 目を閉じていても、圧倒的な美貌は、隠せない…

 そんなことを、考えていると、ふと、ファラドのことを、考えた…

 ファラドと結婚する女が、アラブの女神と呼ばれると、噂されていることを、だ…

 その一方で、そのファラドは、マザコンだとも、言っていた…

 マザコン=要するに、母親離れができていないのだ…

 ファラドは、幼いときに、母親が死んだから、マザコンになったと、言っていた…

 ならば、普通に、考えれば、そのファラドの亡くなった母親は、美人だったに違いない…

 だから、余計にマザコンになったのだ…

 私は、考えた…

 そして、このバニラのことを、思った…

 リンダとバニラの差…

 その一番の違いは、子供がいるか、どうかだ…

 リンダは、おとなしめで、愛情豊かに見えるが、実際のところは、このバニラの方が、子供がいるだけあって、愛情深い…

 と、なると、どうだ?

 やはり、ファラドの結婚相手には、リンダではなく、このバニラがふさわしいのではないか?

 マザコン=母親の愛情を求めているのだ…

 それならば、リンダよりも、バニラの方が、愛情深い…

 そういうことだ…

 このバニラならば、ファラドと仲良くなりさえすれば、ファラドにたっぷりと、愛情を注げるのではないか?

 私は、思った…

 が、

 何度も言うが、このバニラは、葉敬の愛人…

 私の夫、葉尊の実父、葉敬の愛人だから、そんなことはできない…

 …物事というものは、やはり、うまくいかんものだ…

 私は、バニラに抱き締められながら、考えた…

 まるで、女神のような、美人のバニラに抱き締められながら、考えた…

 矢田トモコ、35歳…

 世の中というものは、うまくいかんものだと、世の不条理について、悩んだ…

 そんな一日だった(爆笑)…

                  
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