第58話

文字数 5,412文字

 「…リ…リンダ…ゆ、許してくれ…わ、わたしを、ゆ、ゆるしてくれ…」

 私は、呟いた…

 心の中で、呟いた…

 いや、

 心の中だけで、呟いたつもりだったが、不覚にも、声に出してしまった…

 すると、

 「…矢田ちゃん…許すって、なにを許すの?…」

 と、いうマリアの声がした…

 私は、その声で、目を開けた…

 私の細い目を開けた…

 「…そうね…一体、なにを許すのね?…」

 と、今度は、リンダの声がした…

 リンダ=ヤンの声がした…

 私は、恐る恐る、リンダの顔を見た…

 すると、そこには、普段の穏やかなリンダ=ヤンの顔があった…

 さっきまでの、陰湿な暗い目をしたリンダ=ヤンではない、普段のヤンがいた…

 私は、それを見て、ホッとした…

 が、

 ただ、ホッとしているわけではなかった…

 やはりというか…

 このリンダ・ヘイワースにも、後ろ暗い過去があるに違いない…

 私は、それを悟った…

 誰にも、知られたくない、過去があるのかもしれない…

 そして、ひょっとしたら、それに私が、言及したと思ったから、リンダの顔色が、変わったのかもしれない…

 そう、気付いた…

 いずれにしろ、このリンダ・ヘイワースという女にも、謎がある…

 私は、思った…

 きっと、この矢田トモコにも、知られたくない過去があるに違いない…

 が、

 安心しろ、リンダ…

 私は、そのことには、触れんさ…

 なにしろ、触れれば、この矢田トモコの身に危険が及ぶかもしれん…

 そんなことは、ゴメンさ…

 私は、思った…

 と、その間にも、クルマは、疾走した…

 ピンクのベンツが、街中を疾走した…

 私は、ヤン=リンダとの会話を終えると、ふと、窓から、外を見た…

 このピンクのベンツを見ている人間が、大勢いるのでは? と、考えたのだ…

 こんなド派手なピンクのベンツが、街中を走っていれば、どんな人間が、そんなクルマに乗っているのか? 考える…

 不思議に思う…

 それが、普通の人間だ…

 普通の人間の感覚だ…

 私は、思った…

 だから、ジッと、窓から、外を見た…

 私の細い目をさらに、細くして、外を見た…

 外にいる、他人の反応を見た…

 すると、

 「…矢田ちゃん…なにを見ているの?…」

 と、マリアが聞いた…

 「…外のひとの反応さ…」

 私は、答えた…

 「…反応って?…」

 「…こんなピンクのベンツに乗っていれば、一体、どんな人間が、こんなクルマに乗っているのか、普通は、気になるさ…」

 「…エーッ! …矢田ちゃんでも、気になるの?…」

 「…当たり前さ…私は平凡…平凡な女さ…マリア…オマエの母親のバニラや、このリンダが、このピンクのベンツから、華やかなドレスを身にまとって、降りるには、ちょうど、いいさ…いわば、このクルマは、イベント用さ…」

 「…イベント用って、なに?…」

 「…今も言ったように、映画の宣伝や、パーティーに出席するために、乗りつけるクルマさ…このリンダや、あのバニラも、きれいなドレスを身にまとって、人前に出るには、この派手なクルマが、似合ってるさ…でも、今は、そうじゃない…」

 「…そうじゃない?…」

 「…そうさ…たかだか、保育園のお遊戯大会さ…だから、こんな派手なクルマは、必要ないさ…」

 私が、力説すると、

 「…そうかな…」

 と、隣のヤンが、口を挟んだ…

 「…どういう意味だ? …ヤン=リンダ…」

 「…葉敬は、バカじゃないってこと?…」

 「…なんだと?…」

 「…意味もなく、こんなピンクのベンツを用意するわけがない…」

 「…じゃ、どういう意味があると言うんだ?…」

 「…それは、わからない…でも、なにか、意味があるはず…」

 私は、ヤン=リンダの言葉に、

 「…」

 と、黙った…

 たしかに、そう言われてみれば、なにか、意味があるのかもしれないと、思ったのだ…

 何度も言うが、葉敬は、台湾の大富豪…

 一代で、台湾の大企業、台北筆頭を、作った、台湾では、伝説的な人物だ…

 なにより、この矢田トモコを、葉尊の妻に選んだ男だ…

 まさに、ひとを見る目がある(笑)…

 いわば、そんな慧眼(けいがん)の持ち主が、わざと、ピンクのベンツに乗れと、このクルマを差し出した…

 やはり、なにか、理由があると思うのが、当然だった…

 が、

 その理由は、保育園に近付くに従って、呆気なくわかった…

 保育園に、近付くにつれ、なにやら、高級車の大群が、嫌でも、目に入ってきたからだ…

 あまり、クルマに詳しくない私でも、窓越しに、普段見慣れない、高級車の群れに気が付いたのだ…

 「…な…なんだ? …このクルマたちは?…」

 私は、言った…

 すると、隣のヤンが、

 「…やっぱりね…」

 と、笑った…

 笑ったのだ…

 だから、私は、

 「…なにが、やっぱりなんだ?…」

 と、ヤンに聞いた…

 「…金持ちの見栄の張り会い…」

 「…見栄の張り合いだと?…」

 「…今の言葉で、いえば、マウンティング…互いに相手を格付けする…」

 ヤンが、笑った…

 「…それが、わかっているから、葉敬は、わざと、こんなピンクのベンツを用意したに違いない…普通の…オリジナルの高級車じゃ目立たないから…」

 「…そうか…」

 私は、言った…

 が、

 言いながらも、どこか、腑に落ちなかった…

 本当に、それだけが、このピンクのベンツを用意した理由だろうか?

 疑問に、思ったのだ…

 私が、もし、葉敬なら、なにか、別の意味があるような気がする…

 もちろん、ここで、目立つ意味もある…

 金持ちが、大勢集まる中で、ひと際、目立つには、このピンクのベンツのようなクルマに乗ることが、一番だからだ…

 私は、そんなことを、考えながら、窓越しに、高級車の大群を見た…

 見続けた…

 「…到着しました…」

 と、運転手が、告げた…

 私は、

 「…そうか…」

 と、立派に腕を組んで、呟いた…

 「…着いたか…」

 私が、重々しく言うと、

 「…矢田ちゃん…どっかの社長さんみたい…」

 と、マリアが言った…

 「…社長だと?…」

 「…うん…でも、矢田ちゃんが、腕を組んでも、似合わない…全然、偉く見えない…」

 マリアが、あっけらかんと、言った…

 私は、頭に来た…

 いかに、3歳の子供といえども、言っていいことと、悪いことがある…

 私は、少しばかり、悩んだが、やはり、ここは、マリアを注意するところだと、思った…

 思ったのだ…

 「…マリア…」

 「…矢田ちゃん…なに?…」

 「…ひとを軽く見てはいかんゾ…私は、立派な女さ…」

 「…エッ? …矢田ちゃんのどこが、立派なの?…」

 「…立派さ…立派に決まってるさ…なにしろ、私は、クールの社長夫人…クールの社長の葉尊の妻さ…」

 「…でも、それは、矢田ちゃんが、偉いわけでも、なんでもなくて、葉尊さんが、偉いんでしょ?…」

 「…それは、そうだが…」

 「…だから、矢田ちゃんは、偉くない…」

 マリアが、断言した…

 私は、頭に来た…

 いかに、3歳の幼児とはいえ、面と向かって、偉くないと、言われれば、誰でも、頭に来る…

 だから、

 「…私は、偉い…偉いんだ…」

 と、怒鳴った…

 すると、マリアが、

 「…矢田ちゃんは、偉くない…全然、偉くない…」

 と、怒鳴り返した…

 「…なんだと?…」

 私は、怒った…

 自分でも、大人げないと思うが、マリア相手に本気になった…

 3歳の幼児相手に本気になったのだ…

 すると、脳裏に、あのバニラの顔が浮かんだ…

 あのクソ生意気なバニラの顔が浮かんだのだ…

 …やはりな…

 私は、急に、納得した…

 …やはり、血は争えん!…

 私は、思った…

 母親が、あのバニラだ…

 あのバカ、バニラだ…

 やはり、このマリアもバカなのかもしれん…

 ふと、気付いた…

 これまでは、3歳の幼児だから、大目に見てきたが、これで、わかった…

 わかったのだ…

 今日を限りに、このマリアとも、お別れさ…

 いや、

 今日を限りではない…

 今を限りに、お別れさ…

 私は、思った…

 だから、開口一番…

 「…帰るさ…」

 と、言った…

 「…エーッ? …帰るって?…」

 リンダが、声を上げた…

 「…帰ると言ったら、帰るのさ…リンダ、オマエとマリアは、ここで、降りたら、私は、このまま、このクルマに乗って帰るさ…」

 「…お姉さん…そんな…」

 「…そんなも、こんなも、ないさ…いかに、3歳の幼児とはいえ、こんなクソ生意気なガキといっしょにいるのは、たくさんさ…」

 「…クソ生意気なガキ?…」

 「…そうさ…普段、私に世話になっているくせに、私をバカにするとは…とんでもない、ガキさ…」

 私は、言った…

 「…矢田ちゃん…ごめんなさい…」

 マリアが謝った…

 が、

 私は、許さんかった…

 許すわけには、いかんかった…

 「…マリア…もう二度と、オマエの面倒は、見てやらんさ…」

 私は、断言した…

 「…いいな…」

 私は、念を押した…

 「…お姉さん…そんな…こんな子供に…」

 「…リンダ…歳は関係ないさ…ひとには、言ってはいけないことがある…それを、このマリアは、言ってしまったのさ…」

 すると、それを聞いた、マリアが突然、泣き出した…

 「…矢田ちゃん…ごめんさない…ごめんなさい…」

 と、言って、大声で、泣き出した…

 が、

 私は、そんなマリアに一ミリだって、同情せんかった…

 同情せんかったのだ…

 「…泣きたければ、いくらでも、泣くがいいさ…」

 私は、言った…

 「…そんな手が、通じるのは、子供のときだけさ…大人になれば、そんな手は使えんさ…」

 私は、言った…

 言いながら、ふと、横目で、リンダを見た…

 リンダ=ヤンを見た…

 ヤンが、一体、どんな反応を示すのか、興味があったからだ…

 いや、

 興味があっただけじゃない…

 さっき、ヤンが、物凄く陰湿な目で、私、矢田トモコを見た…

 それを思い出したのだ…

 だから、一体、ヤンが、どんな反応を示すのか、気になったのだ…

 ひょっとすると、またも、ヤンが、陰湿な目で、この矢田トモコを脅すかもしれんからだ…

 だが、そうなったら、あっけなく、マリアを許してやればいい…

 ふと、そう思った…

 そう、思いながら、リンダ=ヤンが、一体、どういう反応をするのか、待った…

 どういう態度を取るのか、待った…

 すると、ヤンが、口を開いた…

 「…マリア…泣くのは、止めなさい…」

 優しく、マリアに語りかけた…

 が、

 泣きやまない…

 すると、ヤンの表情が、変わった…

 一気に、鬼の形相になった…

 「…泣くな…マリア…泣いても、誰も、同情なんか、しない…」

 ゆっくりとだが、ドスの利いた声で、ヤン=リンダが、言った…

 その声に、驚いて、マリアが、泣くのを止めて、ヤン=リンダを見た…

 「…涙が、女の武器だなんて、思っちゃダメ…いくら、泣いても、誰も、同情なんて、しない…だから、自分一人の力で、なんとかするしかない…」

 リンダ=ヤンが、まるで、自分自身に、言い聞かせるように言った…

 「…マリア…よく覚えておきなさい…」

 ヤン=リンダが、別人のように、重々しく言った…

 言ったのだ…

 それを隣で、見ていた私は、怖かった…

 実に、怖かったのだ…

 もう少しで、小便をちびる寸前だった…

 それほど、怖かったのだ…

 元々、私は、小心者…

 気が弱かった(涙)…

 それを悟られるのが、怖くて、威張っているだけだった…

 なにより、私は、暴力が苦手だった…

 暴力の匂いのする相手が苦手だった…

 だから、リンダが怖かった…

 今のリンダは、暴力の匂いが、プンプンしている…

 だから、怖かったのだ…

 そして、それは、私だけではない…

 この矢田トモコだけではない…

 マリアも感じた様子だった…

 「…リンダさん…いつもと、違う…」

 マリアが、ポツリと漏らした…

 「…いつものリンダさんじゃない…」

 私は、マリアの言葉で、考えた…

 なぜ、リンダ=ヤンが、いつもと、違ったか、をだ…

 おそらく、それは、さっき、私が、リンダの過去に触れたから…

 触れられたくない過去に触れたからだと、気付いた…

 おそらく、そのせいで、リンダは、苛立っているのだろうと、気付いた…

 だから、大げさに言えば、いつもは、女神のような優しいリンダが、いつもとは、違った…

 リンダは、ヤンのときも、いつも、いっしょ…

 基本的に優しい…

 それは、あのバニラとの決定的な違い…

 バニラは、日本でいえば、元ヤン…

 元は、ヤンキーだ…

 が、

 このリンダは、違う…

 にもかかわらず、今は苛立っていた…

 よほど、触れられたくない過去を思い出したに違いない…

 私の言ったことが、一般論にも、かかわらず、当たっていたに違いない…

 だったら、もっと、的確に、リンダの過去に触れたら、一体、どうなるのだろう?
 
 ふと、思った…

 そんなことを、考えていると、いつのまにか、マリアが、泣くのを、止めていたことに、気付いた…

 マリアが、いつのまにか、泣くのを、止めていた…

 私は、すぐに、マリアが、リンダが怖かったからだと、気付いた…

 私同様、マリアもリンダが、怖かったに違いない…

 だから、リンダの言う通り、泣くのを止めたのだ…

 私は、このとき、リンダの意外な一面を見た気分になった…

 そして、このリンダ=ヤンを、決して、怒らせないよう、気を付けようと、心に誓った…

 私では、到底、太刀打ちできない…

 歯が立たないからだ…

 そのことを、固く、心に誓った…

               
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