第5話

文字数 6,246文字

 夫の葉尊から、連絡があったのは、それから、数日後のことだった…

 あろうことか、日中に、自宅に電話があった…

 いや、

 自宅ではない…

 私のスマホに、だ…

 私は、その時間、なにをしていたのか? と、言われれば、自宅で、パソコンをいじっていた…

 まあ、平たく、言えば、ネットサーフィンをしていたわけだ…

 アラブの王族について、アレコレ、情報を集めていたのだ…

 ちょうど、夫の葉尊から、電話が、あったのは、そんなときだった…

 手元に置いた、スマホが鳴り、

 「…お姉さん…ですか?…葉尊です…」

 と、声がした…

 運動神経抜群の私は、すばやく、スマホをとった…

 わずか、数秒後だった…

 相変わらず、すばやい…

 やはり、私は、できる女だ(笑)…

 内心、そう自画自賛しながら、電話に出た…

 「…葉尊…どうした? …私だ?…」

 私は、鼻息荒く、返答した…

 葉尊に、なにか、あったに違いないからだ…

 真っ昼間に、妻である私に、電話をくれたことなど、なかった…

 だから、きっと、葉尊の身になにか、あったに違いなかった…

 6歳年下の葉尊から、頼られる私は、いつも、強気…

 どんなときにも、強気…

 それが、私だ…

 いわば、年下の夫が、私を頼るべく、強気を演じているのだ…

 夫の葉尊は、大金持ちの子息であり、私は、平民出身…

 誰が、どう見ても、玉の輿に乗れたのだから、夫の葉尊に、心の底から、感謝しないといけないのだが、それもあって、強気だった…

 それが、私だった(笑)…

 「…スイマセン…お姉さん…お忙しいところ…」

 なぜか、夫の葉尊が、下手に出た…

 夫の葉尊は、クールの社長…

 当然、忙しい…

 対する私は、専業主婦…

 当然、暇だ(笑)…

 が、

 なぜか、夫の葉尊は、そんな私の実情が、わかっているにも、かかわらず、いつも下手だった…

 「…大丈夫だ…葉尊…私は、暇だ…」

 私は、葉尊を安心させるべく、言った…

 「…どうした? なにか、あったのか?…」

 「…それが…」

 葉尊が言い淀んだ…

 「…バカ…昼間から、電話をかけてきて、はっきりと、要件を言え!…」

 私は、怒鳴った…

 繰り返すが、どんなときも、強気…

 それが、私だ…

 「…お姉さんが、お忙しいと思いますが、今日、これから、クールの本社に来て、頂けないでしょうか?…」

 「…これからか?…」

 私は、唖然とした…

 いまだかつて、夫の葉尊が、私に対して、そんなことを、言った覚えがなかったからだ…

 そんなことを、考えていると、

 「…スイマセン…お姉さん…突然のことで…」

 と、葉尊が、詫びた…

 が、

 葉尊は、私の夫だが、6歳も年下だ…

 私から見れば、少々頼りない…

 だから、怒っても仕方がない…

 私が、面倒をみてやろう…

 そう、思った…

 そう、心に決めた…

 なんといっても、私の夫だ…

 面倒を見て、やらねばならん…

 「…クルマの用意は、しますので、これから、すぐに、自宅にクルマをまわします…」

 葉尊が言った…

 が、

 私は、それを断った…

 「…ダメだ…葉尊…」

 「…どうして、ダメなんですか?…」

 「…いちいち、この家にクルマをまわすなんて、時間がかかる…」

 「…」

 「…それに、この家から、オマエの会社まで、行くんだって、タクシーに乗ってゆくより、電車で、行った方が、早い…」

 「…電車で?…」

 「…そうさ…都内は、みんな、そうさ…クルマはいらん…これから、電車に乗って、ゆく…」

 私は、そう言うと、すぐに電話を切った…

 そして、まるで、神速のごとく、部屋を出た…

 すでに、服のことすら、考えなかった…

 夫の葉尊の一大事…

 そんな小さなことに、こだわっていられなかったからだ…

 葉尊が、昼間、自宅にいる私に電話をくれたのは、初めてのことだった…

 当然、私は、暇だが、だからといって、昼間から、妻である私に連絡をくれる葉尊では、なかった…

 ビジネスとプライベートを、きっちりと、わける男だったからだ…

 ひとたび仕事に向かえば、妻も家庭も忘れて、仕事に全力投球…

 葉尊は、そんな昔ながらの古風な男の中の男だった…

 が、

 そんな葉尊から、昼間、私に、連絡があるとは?…

 私は、驚くと、同時に、着の身着のままで、外に出た…

 この矢田トモコ、35歳…

 これまでの人生の、最大の危機かもしれん…

 そう、思った…

 そう、思いながら、街を歩き、地下鉄に乗った…

 と、いっても、私の服は、いつものまま…

 白いTシャツに、ヨレヨレのジーンズ…そして、足元は、スニーカー…

 すでに、中学時代から、いつも、この格好だった…

 このスタイルだった…

 それが、この歳まで、延々と続き、この矢田トモコ、35歳のスタイルになったのだった(笑)…

 別に、この歳まで、気合を入れて、化粧をしたいとも、思わなかった…

 そもそも、私は、美人でもない…

 本当に、どこにでもいる、ありきたりな女だった…

 それが、わかっているから、化粧に気合を入れるわけでもなかった…

 私は、ボンヤリと、そんなことを、考えながら、クールの本社に向かった…

 港区の芝浦に着いたのは、それから、まもなくだった…

 私は、クールの本社ビルの前に立った…

 身長、159㎝のカラダで、立った…

 すると、

 なぜか、突然、恥ずかしくなった…

 実は、いきなり、夫の葉尊に呼び出されたものだから、いつもの、Tシャツに、ジーンズと、スニーカーで、構わないと、自分自身に言い聞かせていた…

 だから、

 誰か、クールの関係者に、

 「…奥様…その恰好は?…」

 と、咎められたら、

 「…葉尊に呼び出されたから、着の身着のままで、やって来たのさ…」

 と、言い訳するつもりだった…

 が、

 さすがに、このクール本社の巨大なビルを見ると、私のその決意も揺らいだ…

 私の鉄の意思も揺らいだのだ…

 そのとき、偶然、風が吹いた…

 すると、一気に、寒さを感じた…

 ピューと、風が吹いただけで、まるで、私の心の中にも、風が吹いた感じだった…

 これから、クールの本社ビルの中に入り、受付で、

 「…私は、矢田トモコさ…このクールの社長夫人さ…さっき、夫の葉尊から、呼ばれたのさ…さっさと、葉尊に、連絡しろ!…」

 と、高飛車に言いたかったが、その決意が揺らいだ…

 やはり、陰で、

 「…なに、あの格好? …ホントに社長夫人なの? …社長は、あんなにイケメンなのに…」

 と、いう声が聞こえてきそうだった…

 いや、

 間違いなく、聞こえてくる(涙)…

 それを、考えたとき、思わず、足がすくんだ…

 どうして、いいか、わからなかった…

 が、

 グズグズしていては、いけない…

 事は、一刻を要するのだ…

 そう、思ったときだった…

 私の手前で、いきなり、大きな白いクルマが、停まった…

 正直、見たこともないクルマだった…

 外車であることは、わかる…

 私が、驚いて、その外車を見ていると、

 「…アレ、ロールスロイスじゃない?…」

 と、いう声が聞こえてきた…

 …アレが、ロールスロイス?…

 私は、間近に見ながら、考えた…

 …本当なら、クールの社長夫人なんだから、あんなクルマから、降りねばならんかった…

 そう、気付いた…

 あの白いロールスロイスから降りれば、この矢田トモコも金持ちに見えるからだ…

 この白いTシャツに、ジーンズ、そして、スニーカーの格好でも、金持ちに見えるからだ…

 私は、それを思った…

 そして、一体、どんな人間が、そんな高級車から、出てくるのか、考えた…

 と、

 そのときだった…

 あろうことか、ロールスロイスのドアが開いた…

 私は、なんの考えもなく、そのドアを見た…

 すると、

 な、なんと、私と同じく、白いTシャツに、ジーンズ、そして、スニーカーの女が出てきた…

 私は、ビックリした…

 まさか、こんな高級車から、そんな恰好をした女が出てくるとは、思わなかったからだ…

 私は、わずか数メートル先の距離の、その女に釘付けになった…

 それが、いけなかった!…

 な、なんと、その女は、外見も、私そっくりだった…

 その女は、私だった…

 いや、

 私に瓜二つだった…

 顔も、身長も、年齢も同じ…

 ほぼ、同じだった…

 同一人物かと、見間違うほど、同じだった…

 そして、私は、その人物に、見覚えがあった…

 かつて、煮え湯を飲まされた経験があったのだ…

 同時に、私が、この世の中で、もっとも、苦手とする女だった…

 私は、驚いて、ほぼ硬直した状態で、棒立ちで、ロールスロイスから、降りた女を見ていた…

 それが、いけなかった…

 女が、私の存在に気付いたのだ…

 ふと、私の姿を見ると、

 「…矢田…オマエは、矢田トモコじゃないか?…」

 と、気さくに、声をかけてきた…

 私は、あまりの恐怖で、

 「…」

 と、答えることが、できなかった…

 すでに、カラダが、硬直していた…

 その場で、瞬間冷凍したように、カラダが、ガチガチに固まっていた…

 「…なんだ、オマエ…」

 なおも、その女が、気安く、声をかけてきた…

 「…アタシを忘れたわけじゃあるまい? …矢田? …スーパー・ジャパンの矢口…矢口トモコさ…」

 女が、自分の名前を名乗った…

 私は、その瞬間、

 内心、

 「…忘れるわけないだろ!…」

 と、怒鳴ってやりたかった…

 「…忘れたくても、忘れられん! オマエのことを、忘れることなど、出来ん…」

 と、心の中で、怒鳴った…

 なにしろ、今を去ること、6年前、この矢口トモコに、私は、身代わりにされたのだ…

 外見が、そっくりなのを、いいことに、こともあろうに、この矢田トモコを身代わりにしたのだ…

 そんな経験は、35年、生きてきても、これまで、一度もなかった…

 一度も、だ!…

 忘れたくても、忘れられん、経験だった…

 完全な黒歴史だった…

 正直、二度と会いたくなかった…

 顔を見るのも、嫌だった…

 私は、そんなことを、考えながら、その場に、唖然として、立ち尽くしていた…

 呆然として、立ち尽くしていた…

 すると、こともあろうに、目の前の矢口トモコが、

 「…どうした? …矢田? …アタシのことを、忘れたわけじゃあるまい?…」

 と、上から目線で、聞いてきた…

 私は、ふと、思った…

 あのとき、六年前…

 スーパー・ジャパンは、倒産寸前だった…

 が、

 その後、経営再建に、成功して、業績が、回復したと、テレビや、ネットで知った…

 この矢口トモコは、そのスーパー・ジャパンの経営者の娘だった…

 いや、

 もしかしたら、今現在、この矢口トモコが、経営者かもしれなかった…

 スーパー・ジャパンのトップかもしれなかった…

 が、

 臆することはない…

 この矢田トモコは、今、日本を代表する、総合電機メーカー、クールの社長夫人だ…

 しかも、単なるサラリーマン社長ではない…

 オーナー経営者だ…

 だから、私と矢口トモコは、立場は互角…

 共に、オーナー経営者だからだ…

 ただし、

 スーパー・ジャパンは、所詮は、日本の流通産業…

 安売りのスーパーだ…

 それに、比べ、クールは、世界に知られた、日本の総合電機メーカー…

 当然、クールの方が、格が上だ…

 当たり前のことだ…

 つまりは、私の方が、今や、この矢口トモコよりも、立場が上…

 六年前とは、立場が、逆転したわけだ…

 私は、それに、気付いた…

 それに、気付いた私が、黙っていると、

 矢口トモコが、キラリと、目を光らせた…

 私同様の、細い目を光らせた…

 そして、言った…

 「…矢田…まさか、オマエ、今は、アタシより、自分が、偉くなったとでも、思っているわけではあるまい?…」

 グサリと、私の本音を突いた…

 「…勘違いは、いかんゾ…」

 …勘違い?…

 …なにが?…

 今は、私の方が、立場が上のはずだ?…

 と、一言、言ってやりたかったが、言えんかった…

 目の前に、この矢口トモコを見ると、言えんかった…

 あの一度だけだが、矢口トモコの住む豪邸に招かれた光景が、脳裏に受かんだ…

 正直、これまで、見たこともない、豪邸だった(涙)…

 それを、思い出すと、とてもではないが、この目の前の矢口トモコに、デカい態度など、取れなかった…

 取れなかったのだ(涙)…

 だから、

 「…いえ、とんでも、ありません…この矢田トモコ、35歳…お嬢様に、お世話になった御恩は、忘れません…」

 と、頭を下げた…

 …本当は、お世話をしたのは、私だ!…

 …この矢田トモコが、お世話したんだ!…

 …アンタが、私を世話したわけじゃない!…

 と、声を大にして、言ってやりたかった…

 が、

 言えんかった(涙)…

 とてもじゃないが、口に出せなかった…

 なぜだかは、わからない…

 外見は、私そっくり…

 なにも、変わらない…

 でも、

 言えんかった(涙)…

 ひょっとすると、これが、格の違いかもしれんかった…

 人間の格の違いかも、しれんかった…

 突如、私は、思った…

 この、私そっくりの矢口トモコを、目の前にすると、どうしても、一度訪れただけの、矢口トモコが住む、豪邸が、脳裏に受かんだ…

 そして、それを、思い出すと、この眼前の私そっくりの六頭身の女が、まるで、皇族かなにかのように、光って見えた…

 輝いて、見えた…

 所詮は、私とは、身分違い…

 古い言葉で、言えば、殿上人…

 天皇のお側に仕える人間だ…

 私とは、身分が、違う人間だ…

 私は、それを身に染みて、悟ったのだ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…矢田…」

 と、矢口トモコが、上から目線で、私に声をかけた…

 「…なんでしょうか?…」

 「…一度、世話になった人間の恩義を忘れては、いかんゾ…」

 と、矢口トモコが、またも上から目線で言った…

 …世話になった恩義だと?…

 …一体、どの口が言うんだ?…

 …何度も言うが、世話をしたのは、私だ!…

 頭に来たが、やはり、言えんかった(涙)…

 真逆に、

 私の口から出た言葉は、

 「…お嬢様に受けた恩義は、この矢田…決して、忘れません…」

 と、まるで、家臣のような言葉だった…

 自分でも、情けなかった(涙)…

 実に、情けなかった(涙)…

 でも、逆らえんかった(涙)…

 その私に、

 「…矢田…いい心がけだ…その心を忘れるで、ないゾ…」

 と、矢口トモコが、声をかけて、その短い足で、スタスタと、目の前のビルに入った…

 私は、ホッとした…

 矢口トモコがいなくなったからだ…

 誤解があるかもしれんが、私は、この矢口トモコが、嫌いなわけではない…

 ただ、苦手なのだ(涙)…

 目の前にすると、まるで、蛇に睨まれたカエルのように、足がすくむ…

 緊張で、カラダが、ガチガチになる…

 なまじ、外観が、そっくりなだけに、余計に、生まれの差…

 身分の差を痛感するのだ…

 私は、矢口トモコがいなくなったことから、安心して、頭を上げた…

 目の前に矢口トモコがいるだけで、怖くて、頭も上げれんかった…

 私は、ホッとして、頭を上げると、ふと、誰か、こちらを見る視線を感じた…

 思わず、私は、その視線の主を振り返った…

 それは、まだ若い長身のブロンドの美女だった…

 白人の美女だった…

 私は、矢口トモコ同様、その顔に見覚えがあった…

 よく知っている女だったからだ…

 その女は、バニラ…

 バニラ・ルインスキーだった…

 私が、もっとも忌み嫌う、生意気な女だった…

 もっとも、見られたくない姿を、こともあろうに、バニラに見られた瞬間だった…

 私の弱みを握られた瞬間だった(涙)…

               
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