第178話

文字数 4,515文字

 …葉敬の怒った顔…

 これを、以前、見たことが、あったのは、たぶん、一回だけ…

 それは、このバニラを殴ったときだった…

 バニラと私が、争ったことを、この葉敬に告げたら、思いがけず、葉敬が、バニラを殴った…

 私は、それを、思い出した…

 これは、以前にも、何度も、言ったが、なぜか、知らんが、この矢田は、この葉敬に好かれている…

 理由は、わからん…

 が、

 好かれている…

 誰の目にも、好かれている…

 だから、私が好かれていることだけが理由では、なかったが、この矢田に、バニラが、逆らったことを聞いた葉敬は、怒った…

 文字通り、激怒した…

 そして、あろうことか、このバニラを殴った…

 平手で、殴った…

 バニラの美しい顔が、真っ赤になった…

 葉敬の手のひらで、ぶたれて、真っ赤になったのだ…

 私は、それを、見て、慌てて、止めた…

 葉敬のカラダに、しがみつき、バニラを殴るのを、止めさせた…

 実は、この矢田は、暴力が、大嫌いだった…

 陰口や、ひとの悪口を言うのは、いい…

 まだ、許せる…

 が、

 暴力は、いかん…

 いかんのだ…

 私は、イジメを、見るのも、聞くのも、嫌…

 嫌だった…

 とにかく、嫌だったのだ…

 だから、葉敬が、バニラを殴るのを、止めた…

 文字通り、カラダを張って、止めた…

 が、

 実は、葉敬が、バニラを殴るのは、理由があった…

 その理由とは、バニラが、葉敬の愛人だったということだ…

 当時、二人の関係は、公には秘密だった…

 ごくわずかの者しか、知らなかった…

 だからだった…

 だから、真逆に、殴った…

 そうすれば、誰も、バニラが、葉敬の愛人だと、気付かない…

 むしろ、葉敬は、バニラを嫌いだと、思うだろう…

 だから、殴った…

 だから、その親しい関係を隠すために、わざと殴ったのだ…

 それは、後で、わかった…

 私は、そのときのことを、思い出した…

 葉敬の怒りは、そのとき以来だった…

 葉敬の怒りを、間近に、見るのは、そのとき以来だった…

 だから、私は、

 「…お義父さん…リンダを許してやって下さい…」

 と、頭を下げて、頼んだ…

 「…お願いだから、許して下さい…」

 と、必死になって、頼んだ…

 私は、しばらく頭を上げんかった…

 もしかしたら、私のせいで、リンダが、怒られるのは、困る…

 困ると思ったのだ…

 だから、しばらく、頭を上げんかった…

 すると、だ…

 「…お姉さん…わかりました…」

 と、葉敬が、言った…

 「…わかりましたから、頭を上げて下さい…」

 と、葉敬が、続けた…

 「…ホントですか?…」

 私は、葉敬に、聞いた…

 「…ホントに、リンダを怒りませんか?…」

 と、葉敬に念を押した…

 「…ホントです…」

 葉敬が、答えた…

 「…私は、お姉さんに、ウソを言いません…」

 その言葉を聞いて、ようやく、私は、頭を上げた…

 「…ありがとうございます…」

 と、言いながら、頭を上げた…

 と、

 そのときに、偶然、バニラの顔が、目に入った…

 葉敬の隣のバニラの顔が、目に入ったのだ…

 そして、そのバニラの顔は、なんとも、複雑な表情だった…

 困ったような表情とも、言っていい…

 なんと言っていいか、わからないような表情だった…

 そして、

 そして、だ…

 私が、そんなことを、考えていると、なにやら、ザワザワと、大勢の声が、聞こえてきた…

 私は、何事だろうと、思った…

 すると、だ…

 案の上というか…

 リンダが…リンダ・ヘイワースが、背後に、大勢のこのパーティーの参加者を連れて、やって来た…

 そして、このリンダもまた、この矢田と同じく、葉敬の前に来ると、

 「…申し訳ありませんでした…」

 と、真っ先に、頭を下げて、詫びた…

 が、

 この矢田との違いは、リンダが、このパーティーの参加者を、ズラーッと背後に、従えていたことだ…

 天下のリンダ・ヘイワースが、葉敬に深く頭を下げたものだから、何事かと、リンダの背後にいる人間たちが、ざわついた…

 しかも、

 しかも、だ…

 このリンダの背後にいて、たった今、ざわついた人間たちは、この日本の政界や財界の著名人…

 いわば、日本のトップクラスのひとたちだ…

 それが、この矢田とは、違った…

 違ったのだ…

 だからだろう…

 葉敬は、

 「…リンダ…気にすることはない…」

 と、笑った…

 それから、

 「…事情は、このお姉さんから、聞いた…」

 と、葉敬は、付け加えた…

 「…お姉さんから?…」

 「…そうだ…お姉さんが、自分が、リンダ・ヘイワースと名乗れと、オマエに言ったと…その前に、私が、リンダ…オマエに、今日は、このお姉さんが、主役だから、主役以上に、目立っては、マズいから、名前は言うなと、釘を刺したが、そういう事情があったのなら、わかる…仕方がない…」

 と、葉敬が、リンダの行動に、理解を示した…

 が、

 本音は、おそらく違うだろうと、思った…

 きっと、自分の指示を無視したリンダを、許したわけではないと、思った…

 だが、ここで、葉敬は、怒ることは、できんかった…

 なぜなら、たった今、このリンダの正体が、ハリウッドのセックス・シンボル、リンダ・ヘイワースだと知れたことで、今、リンダの背後に、大勢のファンを連れて来ることになった…

 そして、そのファンは、何度も言うように、このパーティーの参加者であり、この日本の政界、財界の大物たち…

 その大物たちの前で、リンダを叱責することなど、できるわけがなかった…

 仮に、リンダを叱責すれば、日本の政界、財界の大物たちから、葉敬が非難されるのが、目に見えているからだ…

 だから、ここで、葉敬は、リンダを叱ることが、できんかった…

 つまりは、私が、頭を下げるまでもなく、この場では、葉敬は、リンダを叱ることができんかったわけだ…

 私は、その事実に、気付いた…

 その現実に、気付いた…

 と、

 そのときだった…

 リンダに背後にいる、大勢のこのパーティーの参加者の一人から、

 「…葉敬会長もひとが悪い…」

 と、いう声が上がった…

 「…ひとが、悪い?…」

 葉敬は、この言葉にすばやく反応した…

 「…リンダ・ヘイワースが、来ているなら、すぐに、紹介して、もらいたかった…」

 と、不満の声が上がった…

 そして、その言葉に、ほぼ全員が、頷いた…

 こうなると、葉敬は、なんと言っていいか、わからんかった…

 返答に、困った様子だった…

 すると、だ…

 「…皆さん…申し訳ありません…」

 という声がした…

 私は、その声のする方を見た…

 葉尊だった…

 私の夫、葉尊だった…

 いや、

 葉尊ではない…

 葉問だった…

 「…今日は、ボクと、妻の結婚半年を記念してのパーティーだったので、リンダ・ヘイワースが、来場すると知れると、リンダ・ヘイワースの方が、目立ってしまう…だから、リンダ・ヘイワースの名前を出すのを、止めたのは、父なりの、ボクたち夫婦に対する気遣いだったのです…申し訳ありませんでした…」

 と、言って、葉問が、皆に頭を下げて、詫びた…

 すると、どうだ?…

 なんと…

 なんと、皆が、沈黙して、しまった…

 「…」

 と、誰も、なにも、言わなくなってしまった…

 そして、しばらくの沈黙の後、

 「…そういうことなら…」

 と、誰かが、言った…

 「…そういうことなら、仕方がない…むしろ、息子思いの葉敬会長を褒めたいぐらいだ…」

 と、誰かが、言った…

 そして、皆、一斉にその声に頷いた…

 それは、このパーティーの参加者の大半は、皆、60歳以上…

 だから、皆、葉敬の気持ちは、わかる…

 痛いほど、わかるのだ…

 皆、成人した、子供なり、孫なりが、いる世代…

 だから、葉敬が、自分の息子と妻のために、あえて、リンダの名前を出さないと、知ると、葉敬に、同情したと言うか…

 その事情を、深く理解した…

 そういうことだった…

 それから、

 「…でも、こんな美しい女性が、目の前にいるんだから、せめて、握手してもらいたいな…それと、記念撮影も…」

 という声がした…

 私は、急いで、リンダの顔を見た…

 すると、だ…

 リンダは、リンダで、葉敬の顔を見た…

 葉敬が、どんな態度を取るのか、知りたかったのだろう…

 何度も言うように、リンダは、葉敬には、逆らえない…

 リンダは、学生時代から、モデルとしての無名時代まで、ずっと、葉敬に、金銭を援助してもらっていた…

 つまりは、リンダ・ヘイワースとして、成功するまで、ずっと、葉敬の世話になっていた…

 だから、リンダは、その恩もあり、葉敬に逆らえないでいた…

 だから、今、この瞬間も、自分が、この発言の主の言う通りにしていいのか、わかなかった…

 葉敬が、ダメだと、言えば、できんかった…

 できんかったのだ…

 だから、リンダは、葉敬を見た…

 葉敬の顔色を窺った…

 そして、葉敬もまた、そんなリンダの表情に気付いていた…

 だから、リンダの代わりに、葉敬が、

 「…どうぞ…どうぞ…」

 と、機嫌よく言った…

 「…これは、私のミスです…皆さま、申し訳ありませんでした…」

 と、葉敬は、頭を下げた…

 「…私も皆さまと、同じです…こんな美女を目にすれば、握手や記念撮影をぜひ、させて頂きたい…そう思います…」

 と、笑いを取った…

 葉敬は、どこまでも、現実主義者だった…

 ホントは、このパーティーは、名目上は、私と葉尊の結婚半年を記念して、開かれた…

 が、

 それは、名目だけ…

 ホントは、どんな名目でもいい…

 とりあえず、パーティーを開いて、日本の政界、財界のお偉いさんを、大勢招いて、この日本で、人脈を広げたかった…

 それが、葉敬が、このパーティーを開いた目的だった…

 が、

 今は、ある意味、その目的から、少々、はずれた…

 リンダ・ヘイワースが、パーティーの主役になったからだ…

 が、

 葉敬は、あっさりと、その事実を認めた…

 こうなっては、仕方がないと思ったのだろう…

 現実主義者である、葉敬らしかった…

 すぐに、考えを切り替えたのだろう…

 が

リンダが、出席した以上、こうなるのは、ある意味、わかっていたはずだ…

 私は、思った…

 葉敬がリンダとバニラを、このパーティーに同席させるのは、ある意味、目立つため…

 ハッキリ言って、長身のイケメンを連れて来るよりも、長身の美女の方が、目立つ…

 それは、女の方が、華やかだからだ…

 男が、黒いタキシードを着て、現れるよりも、女が、今日のリンダやバニラのように、赤や青のドレスを着て、現れた方が、目立つからだ…

 だから、二人を連れてきた…

 そして、そんな美女を傍らに置けば、葉敬は、このパーティー会場のどこにいても、目立つ…

 だから、葉敬は、二人を連れてきた…

 私は、そう思った…

 が、

 もしかしたら、それだけでは、ないのかもしれない…

 ふと、気付いた…

 なぜなら、今、こうして、リンダが、このパーティーの主役になる可能性が、当然、あることも、葉敬は、わかっていたに違いないからだ…

 もしかしたら…

 もしかしたら、葉敬が、このリンダとバニラをこのパーティーに連れてきた理由は、他にもあるのかも…

 ふと、思った…

 ふと、気付いた…

               
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