第116話

文字数 5,520文字

 うーむ…

 この世の中には、私にも、わからんことがある…

 これも、その一つだった…

 この世の中には、この頭脳明晰な矢田トモコにも、わからんことがあるが、これも、その一つだった…

 私は、子供たちに囲まれ、

 「…矢田ちゃん…矢田ちゃん…」

 と、呼ばれて、もはや、どうして、いいか、わからんかった…

 わからんかったのだ…

 まさか、子供たち相手に、

 「…黙れ!…」

 とか、

 「…うるさい!…」

 とか、言うことは、できない…

 いきなり、泣き出されては、困るからだ…

 だから、どうして、いいか、わからんかった…

 わからんかったのだ(涙)…

 すると、あろうことか、その子供たちの中から、

 「…さすがですね…」

 と、まるで、大人のような物言いの声が、聞こえてきた…

 子供特有の甲高い声にも、かかわらず、ゆっくりとした大人の言い方だった…

 私は、もしや、と、思いながら、声のする方向を見た…

 やはり、というか、そこには、オスマン殿下の姿が、あった…

 「…殿下!…」

 と、私は、迷わず、声をかけた…

 すると、殿下は、

 「…子供たちが、騒いでいるので、何事かと、思いましたが、矢田さんでしたか…」

 と、落ち着いた声で、声で、言った…

 自分が、子供そっくりの外見にも、かかわらず、だ(笑)…

 だから、ホントは、思わず、笑ってしまうところだったが、まさか、笑うことは、できんかった…

 できんかったのだ…

 「…以前にも、言いましたが、子供というものは、その人間の正体を簡単に、見抜きます…矢田さんほど、子供たちに好かれる人間は、これまで、見たことが、ありません…」

 と、殿下が、落ち着いた口調で、続けた…

 それから、

 「…ボクに、なにか、ご用ですか…」

 と、言った…

 私は、驚いた…

 驚いたのだ…

 「…どうして、わかるんですか?…」

 と、思わず、聞いた…

 聞かずには、いられんかった…

 「…簡単です…」

 「…簡単って?…」

 「…矢田さんが、おそらく、この保育園で、知っている人間は、ボクか、マリアだけです…そして、マリアの、母親のバニラさんと、矢田さんは、親しい…だから、マリアに会いたければ、この保育園ではなく、バニラさんの家へ、行けばいい…それをしないで、ここへ来たのは、ボクに、会うことしか、考えられない…」

 オスマン殿下が、理路整然と、言った…

 私は、唖然とした…

 やはり、このオスマン殿下…

 ただ者ではない…

 アラブの至宝と呼ばれる頭脳の持ち主であることが、わかる…

 私は、思わず、尊敬の目で、この殿下を、見た…

 外見が、3歳児そのものの、オスマン殿下を、見たのだ…

 と、ところが、

 「…なに、オスマン、偉ぶっているの!…」

 と、いう声が、周囲から聞こえた…

 これまで、私を、

 「…矢田ちゃん…矢田ちゃん…」

 と、言って、私を慕っていた子供たちだった…

 そして、その中でも、とりわけ、女のコからの声だった…

 「…オスマン…アンタ…生意気よ…」

 という声がした…

 「…な、生意気?…」

 思わず、私は、声に出した…

 アラブの至宝を相手に、生意気とは?

 「…そう、そう…いつも、偉ぶって…」

 と、他の女のコが、続けた…

 「…だから、オスマンは、ダメなの…ダメな男なの…」

 と、強烈なダメ出しだった…

 私は、驚いて、オスマン殿下を見た…

 殿下が、どういう反応をするのか、興味があったからだ…

 が、

 殿下は、笑っていた…

 ニコニコと、笑っていた…

 私は、殿下が、どうして、笑っているのか、わからんかった…

 が、

 すぐに、わかった…

 「…アンタたち…オスマンをイジメちゃ、ダメ!…」

 と、マリアが、言ったからだ…

 マリアが、いきなり、出てきて、オスマンを擁護したのだ…

 「…いい…オスマンは、子供なの…だから、この保育園のルールが、わからないの…」

 …こ、子供?…

 …オスマン殿下が、子供?…

 …い、いや、子供ではない!…

 …30歳の大人だ!…

 …立派な成人男子だ!…

 私は、思った…

 それが、こともあろうに、子供とは?

 いや、

 3歳の子供が、30歳の大人に向かって、子供扱いするとは?

 しかも、

 しかも、だ…

 オスマン殿下は、アラブの至宝と言われた人物…

 そのオスマン殿下を悪く言うとは?

 私は、驚いた…
 
 が、

 当のオスマン殿下は、ニコニコと、笑っている…

 それは、なぜか?

 すぐに、わかった…

 マリアが、オスマン殿下を守っているからだ…

 それが、オスマン殿下は、嬉しいのだ…

 オスマン殿下は、殿下の悪口を言う女のコたちには、目もくれず、ただ、マリアを見ていた…

 ただただ、マリアだけを見ていた…

 そして、その目は、慈愛に満ちていた…

 マリアを可愛くて、仕方がない様子だった…

 それを、見て、オスマン殿下が、この保育園に身を隠す理由が、あらためて、わかった…

 このオスマン殿下は、マリアから離れたくないのだろう…

 そして、今、このオスマン殿下を、非難する女のコたち…

 本当は、誰でも、自分の悪口を言われるのは、嫌だが、この場合は違う…

 むしろ、殿下は、嬉しいのではないか?

 なぜなら、マリアが、自分を守ってくれるからだ…

 自分の悪口を言う女のコから、自分を守ってくれるからだ…

 だから、殿下は、そんなマリアが、可愛くて、仕方がない…

 そして、それが、殿下の表情に、よく出ていた…

 だから、あらためて、殿下が、この保育園にいる理由が、わかった…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…いい…今度、オスマンをイジメたら、ただじゃ、置かないから…」

 と、マリアが、女のコたちに凄んだ…

 すると、これまで、オスマン殿下を悪しざまに悪く言っていた女のコたちは、なにも、言わず、すごすごとその場から、去った…

 それを見た、マリアはため息を一つついてから、オスマン殿下に向き直り、

 「…いい…オスマン…アンタも、いつも、上から目線じゃ、ダメ…どうやったら、みんなと、うまくやれるか、考えて…」

 と、説教した…

 私は、殿下を見た…

 殿下が、どういう反応を示すのか、知りたかったからだ…

 「…いいじゃないか、マリア…言わせたいものには、言わせておけばいい…」

 「…オスマン…アンタね…」

 「…日本のことわざに、ひとの口に戸は立てられない、という言葉が、あります…悪口を言う人間に、悪口を言うなと、言っても、場所を変えて、悪口を言い続けるだけ…そして、そんな人間は、必ず、どこかで、自分の悪口を言われています…」

 オスマンが、至極冷静に言った…

 そして、それは、マリアに言っているわけではない…

 この矢田トモコに、言っていることは、すぐに、わかった…

 なぜなら、このオスマン殿下の言葉は、マリアには、難し過ぎるからだ…

 だから、わかった…

 「…矢田さん…ボクに、用事があるのは、わかりました…ですが、午前中は、保育園に、行かなければ、なりません…だから、保育園が、終わってから、お願いできませんか?…」

 オスマン殿下が、丁寧に、説明した…

 私は、一瞬、考えたが、その通りだったので、

 「…わかったさ…」

 と、答えた…

 ホントは今すぐにでも、オスマン殿下と二人きりで、話したいが、そんな自分に都合のいいことは、できない…

 世の中には、自分の思い通りにならないことが、ある…

 これも、また、その一つだった…

 「…では、これで…」

 オスマン殿下が、私に一礼した…

 私も、思わず、礼を返した…

 なにも、知らない人間が、見れば、驚くだろう…

 3歳の幼児と、35歳の女が、互いに、頭を下げ合っているのだ…

 つまりは、3歳の幼児と、35歳の女が、対等なのだ…

 お芝居でも、見たことがない光景だった(笑)…

 すると、

 「…さあ、オスマン、行くよ…」

 と、殿下が、マリアに手を取られて、保育園に連れて行かれた…

 「…わかったよ…マリア…」

 と、オスマン殿下は、口では、言っていたが、すでに顔は、ニヤついていた…

 嬉しくて、仕方が、ない様子だった…

 私は、そんな二人の姿を、背中から見て、

 …殿下は、楽しくて、仕方がないのだろうな…

 と、思った…

 マリアが、甲斐甲斐しく、自分の世話をしてくれるのが、楽しくて、仕方がないのだ…

 もっとも、これは、殿下だけではない…

 3歳の子供だけではなく、30歳の大人でも、同じ…

 自分の面倒を、甲斐甲斐しく、見てくれる…

 そんな人間を、間近に、すれば、誰でも、嬉しいものだ…

 しかも、

 しかも、だ…

 マリアの場合は、子供…

 まだ3歳の子供だ…

 大人の場合は、ことによると、相手が、金持ちだったりして、それをゲットしようとする下心が、男女共に、あったりする場合が多い…

 だから、ハッキリ言えば、打算がある…

 打算=下心がある…

 が、

 マリアの場合は、それがない…

 下心が、皆無だ…

 だからこそ、このオスマン殿下は、嬉しいのだろう…

 オスマン殿下のように、地位のある人間には、それを、利用して、よい地位を得ようとする、人間が、数多くいるに違いない…

 が、

 マリアには、それがない…

 まだ、3歳の子供だ…

 そんな下心が、あるはずもなかった…

 だからこそ、オスマン殿下は、嬉しいのだ…

 いわば、無私の愛…

 見返りを求めない愛だ…

 これは、オスマン殿下のみならず、誰でも、嬉しいものだ…

 同じ立場なら、誰でも、嬉しいものだ…

 私は、思った…

 
 結局、私は、オスマン殿下が、保育園から、帰るまで、近くで、時間を潰すことにした…

 いったんは、自宅まで、戻ることも、考えたが、やはり、それは、面倒くさい…

 どこか、近くで、時間を潰すのが、一番だった…

 そして、そんなとき、時間を潰せる場所といったら、大抵は、書店か、ネットカフェと、決まっている…

 これが、もっと都会に近かったら、百貨店の店内を、巡って、時間を潰す選択肢もあったが、ここでは、なかった…

 だから、どこか、とりあえず、書店か、ネットカフェを見つけて、時間を潰すことにした…

 が、

 見つからんかった(涙)…

 ちっとも、見つからんかった(涙)…

 考えて見れば、当たり前だった…

 日本にいる、外国人のセレブの子弟が、多く通う保育園が、ある場所の近くに、庶民的なネットカフェなど、あるはずもなかった…

 当たり前のことだった…

 しかし、

 そんなことも、わからんとは?

 つくづく、自分が、庶民だと、思い知った…

 頭が、いいとか、悪いとか、言っているわけではない…

 発想が、庶民なのだ…

 だから、そんな簡単なことも、わからない(涙)…

 私は、それを、思い知った…

 同時に、考えた…

 私と葉尊の結婚を、考えた…

 やはり、私と葉尊では、差があると、思った…

 差が、あり過ぎると、思い知った…

 生まれの差は、発想の差に繋がる…

 例えば、誰にでも、わかる話で、いえば、どこそこに、食べに行こうと、みんなで、言う…

 と、なると、どうだ?

 それぞれが、行きたい店を言う…

 が、

 それが、お金持ちと庶民では、行きたい店が、違う…

 そもそも、金銭感覚が、違うからだ…

 極端な話、庶民の一万円の感覚が、お金持ちでは、百円の感覚の場合もある…

 稼ぐ金額が違うから、それを、考えれば、当たり前だった…

 だから、そんな庶民と、金持ちが、いっしょにいても、話が合うはずがなかった…

 だが、

 私と葉尊が、いっしょにいて、話が合わないことは、一度もなかった…

 それは、どうしてかと、考えれば、葉尊が、うまく私に合わせてくれるからだった…

 つまりは、身分が、異なるから、話が、合わなくなるような話題は、一切、しないからだと、気付いた…

 だから、葉尊といっしょに、いても、身分の差を感じたことがない…

 生まれの差を感じたことは、一度もなかった…

 要するに、いつも、葉尊は、私に気を遣って、くれていたのだ…

 そして、それは、リンダも、バニラも、同じだった…

 同じだったのだ…

 二人とも、世界的な有名人…

 生まれは、二人とも、私と同じく庶民の出だが、今は、違う…

 二人とも、女優やモデルで、成功した…

 だから、ホントは、私と話が合うわけがなかった…

 二人とも、私が、見たことも、聞いたこともないような一流店を知っているに違いない…

 が、

 そんな話は、私の前では、一切しない…

 私が、引け目を感じると、悪いと思っているからだった…

 そんなことを、考えると、私は、知らず知らずの間に、私の周囲の人間に、気を遣われている事実に、気付いた…

 そして、それを、思うと、自分が、惨めだった…

 どうしようもなく、惨めだった…

 どうしていいか、わからないほど、惨めだった…

 …やっぱり、葉尊とは、別れた方が、いいのだろうか?…

 ふと、思った…

 私といっしょにいることで、葉尊に気を遣わせては、済まないと、思った…

 …やはり、葉尊と、別れよう…

 …これ以上、葉尊に迷惑をかけては、ダメだ…

 そう思うと、歩きながら、自然と涙が出てきた…

 知らない間に、涙が溢れてきた…

 と、

 そのときだった…

 「…お姉さん? …」

 と、どこかで、声がした…

 私は、その声に反応しなかった…

 お姉さんと呼ばれる女は、どこにでも、いるからだ…

 が、

 次の言葉は、違った…

 「…お姉さん…矢田トモコさんでは、ありませんか?…」

 間違いなく、私の名前だった…

 私は、声のする方向を振り返った…

 すると、そこには、大きな黒塗りの車が、止まっていて、窓から、一人の顔が見えた…

 私は、その顔に見覚えがあった…

 私の夫、葉尊の父…

 台湾の大企業、台北筆頭の創業者であり、現CEОの葉敬だった…

               
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