第96話

文字数 4,512文字

 「…な…なんだと?…」

 と、言いたかったが、出てきた言葉は、

 「…ゲホッ…ゲホッ…ゲホッだった…」

 私は、慌てたが、それ以上に、目の前の葉尊が、慌てた…

 「…だ、大丈夫ですか? …お姉さん?…」

 言いながら、必死になって、私の背中を手で、撫でた…

 「…しっかり…しっかり…して、下さい…」

 私は、その声を聞きながら、

 「…ゲホッ…ゲホッ…ゲホッ…」

 と、繰り返した…

 しばらく、その状態が、続いた…

 それから、しばらくして、ようやく、

 「…大丈夫さ…」

 と、言った…

 「…たいしたことは、ないさ…」

 と、葉尊を安心させた…

 すると、葉尊も安心したようだ…

 私の背中を、さするのを、止めた…

 そして、席に戻った…

 私は、

 「…葉尊…オマエが、驚かすからだ…」

 と、言った…

 「…ひとが、食事中なのに、ビックリするようなことは、言っては、いかんゾ…」

 「…ハイ…申し訳ありません…」

 「…わかれば、いいのさ…」

 私は、言った…

 ホントは、驚いた私が、悪いのだが、つい夫の葉尊に八つ当たりをしてしまった…

 私は、そういう女だ(笑)…

 私は、そういう人間だ(笑)…

 だが、それ以上は、言わんかった…

 何事にも、限度があるからだ…

 さすがに、勝手に驚いた私が、悪いのにも、かかわらず、これ以上、葉尊を責めるわけには、いかんかったからだ…

 「…で、どうしてだ?…」

 「…どうして?…」

 「…さっき、オマエが言った、クール主催のパーティーが中止になるかもしれんという話さ…」

 「…実は、今、サウジで、国王陛下が倒れて…」

 「…国王陛下が?…」

 「…ハイ…」

 「…それが、今回の来日と、どういう関係がある?…」

 「…大ありです…お姉さん…」

 「…大ありだと?…」

 「…ハイ…なにしろ、国王陛下です…サウジの最高権力者です…その最高権力者が、倒れたのです…もはや、来日どころでは、ありません…」

 「…」

 「…それに…」

 「…それに、なんだ?…」

 「…もし、国王陛下に万が一のことがあれば、サウジの権力構造が、変わる危険もあります…」

 「…権力構造が?…」

 「…考えて見て下さい…お姉さん…」

 「…なにを考えるんだ…」

 「…わかりやすい例が、サッカーでも、野球でも、監督が代わるとします…すると、どうですか? 選手が、動揺します…」

 「…選手が、動揺するだと? …どうしてだ?…」

 「…監督が、変われば、選手の人選が、変わるからです…」

 「…選手の人選だと?…」

 「…ハイ…実力がある選手はいいですが、そうではない選手は、出場が、微妙になります…自分の位置が、誰かに取って代わられる危険があるからです…それと同じです…監督が代われば、選ぶ選手が、変わります…国王陛下が変われば、同じように、仕える人間が、変わります…」

 「…」

 「…だから、皆、慌てるのです…」

 葉尊が、説明した…

 たしかに、そう説明されれば、わかる…

 わかるのだ…

 たしかに、来日するどころでは、ないのかも、しれん…

 だが、

 ふと、思った…

 昼間、やって来たリンダは、その情報を知らなかったのだろうか?
 
 ふと、気付いた…

 「…リンダは、その情報を知らなかったのか?…」

 葉尊に聞いた…

 リンダ…リンダ・ヘイワースは、世界中にセレブのファンを抱えている…

 だから、情報が、速い…

 そのリンダが、そんな重要な情報を知らなかったのだろうか?

 「…それは、無理です…」

 「…どうして、無理なんだ?…」

 「…たぶん、昼間、この家にリンダがやって来たときには、まだ国王陛下は、倒れてません…」

 「…なんだと?…」

 「…今回、サウジの王族が、来日する音頭を、我がクールが、取ることになったので、特別なルートを持つことになりました…そのおかげで、誰よりも、速く、国王陛下が、倒れたことが、わかったのです…」

 「…そうか…」

 「…だから、来日どころでは、なくなりました…」

 葉尊が、語る…

 たしかに、それでは、来日どころでは、ないかも、しれん…

 私は、思った…

 と、同時に、オスマン殿下のことが、脳裏に浮かんだ…

 もし、

 もし、

 現在の国王陛下が、逝去したら、オスマン殿下の立ち位置に変化があるのだろうか?
 
 ふと、気付いた…

 いわゆる、国王陛下が、亡くなることで、王族のパワーバランスが、崩れる危険があるからだ…

 だから、

 「…オスマン殿下は…」

 と、つい聞いてしまった…

 すると、

 「…オスマン殿下? …誰ですか? …それは?…」

 と、葉尊が、真顔で、聞いた…

 「…オスマン殿下は、オスマン殿下さ…アラブの至宝と呼ばれた…」

 「…アラブの至宝と呼ばれた?…」

 葉尊が、首をひねった…

 それを見て、もしかしたら、葉尊は、オスマン殿下を知らないのでは?

 と、気付いた…

 オスマン殿下の存在は、サウジでも、秘密中の秘密…

 トップシークレットだ…

 だから、葉尊が、知らなくても、驚かない…

 それに、以前は、葉尊と、葉問は、記憶を共有すると、思っていたが、違った…

 どういうことかと、言うと、葉尊でいるときは、葉問は、すべて、まるで、隣で、見ているように、葉尊の行動が、わかると思っていたが、違った…

 つまりは、葉尊も、葉問も、相手に見せたくない場面は、相手に見せないようにすることが、できるのかも、しれないと、気付いた…

 そう、考えを変えたのだ…

 だから、あのセレブの保育園のお遊戯大会で、葉問が、ファラドと、格闘したときの記憶がないのかもしれない…

 記憶があれば、当然、オスマン殿下のことを、知っているに、違いないからだ…

 私は、思った…

 「…オスマン殿下?…」

 相変わらず、葉尊は、首をひねったままだった…

 だから、私は、

 「…忘れろ…」

 と、言った…

 「…私の記憶違いかもしれん…」

 「…お姉さんの記憶違い?…」

 「…そうさ…」

 私が、そう言うと、葉尊は、

 「…」

 と、黙った…

 納得が、いかないかもしれんが、それ以上は、なにも、言わなかった…

 ただ、

 「…これが、我がクールに逆風にならなければ、いいのですが…」

 と、だけ言った…

 「…逆風だと? …どういう意味だ?…」

 「…最近になって、我がクールと、台湾の台北筆頭が、アラブ世界で、進めていた商談が、劇的に、進みました…原因は、わからないのですが、とにかく、有利になりました…」

 私は、それは、

 「…オスマン殿下の力だ…」

 と、言いたかったが、言わんかった…

 なぜか、言えんかった…

 言えば、あのセレブの保育園で、起きた騒動を、葉尊に説明しなければ、ならなくなる…

 私は、それが、嫌だった…

 なんというか、恥ずかしいというか…

 なにより、私が先頭に立って、3歳の幼児たちと、いっしょに、AKBの恋するフォーチュンクッキーを踊っていたのを、知られるのが、嫌だった…

 誰だって、夫に知られたくない、秘密の一つや二つは、あるものだ…

 私にとっては、これが、その一つだった(笑)…

 そんなことを、考えていると、

 「…とにかく、お姉さん…」

 と、葉尊が、いきなり、言った…

 「…パーティーは、中止です…残念ながら…」

 葉尊が、気落ちして、言う…

 私は、そんな葉尊を見たことがなかったから、驚いた…

 驚いたのだ…

 「…葉尊…どうした?…」

 と、つい、聞いてしまった…

 「…パーティーが、中止になったのが、そんなに、ショックなのか?…」

 「…いえ…」

 と、だけ、短く答えた…

 「…ホントは、パーティーは、どうでも、いいんです…」

 「…どうでも、いい? どうして、どうでも、いいんだ?…」

 「…今回、パーティーをする目的は、我がクールと、台北筆頭が、アラブ世界で、商談をうまく進めるためです…ですが、すでに、なぜか、アラブ世界の商談が、劇的に進んでいます…だから、本当のことを、言えば、あえて、パーティーをする必要は、すでに、ありません…」

 たしかに、葉尊の言う通りだ…

 葉尊は、知らないが、すでに、私が、オスマン殿下の信任を得られたおかげで、クールと、台北筆頭のアラブ世界での知名度が、抜群に良くなったに違いなかった…

 だから、今さら、パーティーをする必要は、ないかもしれない…

 サウジの王族を招いて、クール主催で、パーティーをするのは、あくまで、アラブ世界で、商売を有利にするためだ…

 アラブ世界で、信頼と信用を得るためだ…

 すでに、それが叶ったのだから、今さら、パーティーを開く必要は、ないのかもしれん…

 私は、思った…

 「…ボクが、パーティーを開きたかったのは、お姉さんのためです…」

 「…私のため?…」

 仰天の言葉だった…

 「…ハイ…」

 「…どうして、私のためなんだ?…」

 「…お姉さんの息抜きになると、思ったんです…」

 「…私の息抜き?…」

 「…お姉さんは、今、家にいますが、お姉さんは、ひとの輪の中にいて、光るひとです…」

 「…ひとの輪の中に、いて、光るひとだと?…」

 「…そうです…お姉さんは、誰からも、好かれ、愛されます…だから、今、家に閉じこもっている、お姉さんの息抜きになればと、思ったんですが…」

 葉尊が、悔しそうに、言う…

 …そうか…

 …そういうことだったのか…

 私は、考えた…

 まさか…

 まさか、

 葉尊が、私を思って、パーティーを開くとは、思わんかった…

 まさに、想定外…

 想定外の答えだった…

 パーティーを開くのが、私のためとは、思わんかったのだ…

 だから、

 「…葉尊…」

 と、呼びかけた…

 「…それは、余計なお世話さ…」

 「…余計なお世話ですか?…」

 「…私は、今、家にいても、決して、閉じこもっているわけではないさ…いや、百歩譲って、家に閉じこもっているとしても、リンダやバニラが、家に遊びに来てくれるさ…だから、全然、寂しくなんてないさ…」

 「…」

 「…オマエの考え過ぎさ…」

 「…ボクの考え過ぎ?…」

 「…そうさ…それに…」

 「…それに、なんですか?…」

 「…オマエさえ、良ければ、私は、スタバでも、マックでも、なんでも行って、バイトを始めるさ…」

 「…お姉さんが、バイト?…」

 「…そうさ…オマエが、私が、家に閉じこもっているのが、心配なら、明日からでも、そうするさ…」

 私の言葉に、葉尊は、

 「…」

 と、黙った…

 考え込んだ…

 それから、

 「…そんなことは、ないです…」

 と、葉尊は、弱々しく言った…

 「…なにより、クールの社長夫人が、スタバやマックで、バイトされては、世間体というものが…」

 葉尊が、歯切れ悪く言った…

 たしかに、言われてみれば、その通りだった…

 日本を代表する企業の社長夫人が、スタバやマックで、バイトをするわけには、いかんだろう…

 すぐに、フライデーが、飛んでくる…

 写真週刊誌が、飛んでくる…

 私は、思った…

 だから、そんなことは、できん…

 できんのだ…

 が、

 一方で、実は、そんなことを、してみたい、誘惑に駆られた…

 誰でも、そうだが、しては、いけないと言われると、したくなるものだ…

 私も例外ではなかった…

 この矢田トモコも、例外ではなかったのだ…

               
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