第72話

文字数 4,563文字

 「…葉尊!…」

 思わず、私は、叫んだ…

 そして、一体なぜ? 葉尊が、ここに?

 と、考えた…

 すると、

 「…大丈夫…」

 と、つい、今さっき、言ったヤン=リンダの姿が、私の目に飛び込んだ…

 …それは、こういうことか?…

 私は、内心、得心した…

 つい、今さっき、ヤン=リンダが、大丈夫と言ったのは、ここに葉尊が、現れるから…

 そう、ヤン=リンダが言いたかったのかもしれない…

 が、

 一瞬、そう思ったが、考えて見れば、葉尊が、ファラドに勝てるわけがなかった…

 葉尊は、おとなしい…

 真面目だ…

 だから、ファラドに勝てるわけがない…

 いや、

 おとなしいから、ファラドに勝てる、勝てないでなく、葉尊に、ケンカは、似合わない…

 似合うのは、葉問…

 葉尊のもうひとつの人格である、葉問だ…

 私は、思った…

 そう思って、葉尊を見ると、すぐに、葉尊でないことに、気付いた…

 ファラドの前に立ちはだかるのは、夫の葉尊ではない…

 葉問だ…

 やんちゃの葉問だった…

 それがわかると、なんとなく、安心したというか、ホッとした…

 同時に、ヤン=リンダを思った…

 ヤン=リンダが、一体、この騒動の裏で、なにを画策しているのか、考えた…

 おそらくは、この騒動を事前に、察知していたに、違いない…

 どこまで、この騒動の内幕を知っていたか、わからないが、なにか、起こることを、知っていたに違いないのだ…

 そして、それは、あのバニラも同じ…

 同じだ…

 そうでなければ、リンダに化けて、真紅のドレスをまとって、この場に現れるわけがなかったからだ…

 そして、それは、あのお嬢様も同じ…

 矢口のお嬢様も同じだ…

 今も、壇上で、なにも、言わず、騒動を見守っている…

 もし、事前に、この騒動が、起こることを知らなければ、なにも、言わず、黙っているわけがない…

 つまりは、このお嬢様も事前に、なにが、起こるか、知っていた可能性が、高い…

 また、そうでなければ、壇上に、あの大型モニターを置かなかったのではないか?

 私は、ふと、気付いた…

 あの大きなモニターを置くことで、事前に、なにが、起こるか、あらかじめ、知っていた可能性が、高い…

 なにしろ、あのお嬢様は、この矢田に、

 「…AKBの恋するフォーチュンクッキーを、踊れ…」

 と、声をかけた…

 そして、その見本のAKBの恋するフォーチュンクッキーのプロモーションビデオを、あの大きなモニターで、見せると思った…

 なぜなら、いきなりAKBの恋するフォーチュンクッキーを踊ろうと言われても、誰も踊れるわけはないからだ…

 おそらく、AKBの恋するフォーチュンクッキーを踊ったAKBの当時のメンバーにしても、いきなり言われたら、踊れないに違いない…

 振り付けを忘れているに違いないからだ…

 だからこそ、あの大型モニターで、恋するフォーチュンクッキーの振り付けをみんなに、見せると思った…

 が、

 違った…

 実際に始まったのは、ファラドとオスマンのやり取りだった…

 もっと、ハッキリ言えば、ファラドを追求するきっかけの映像だった…

 この一連の騒動を振り返ってみれば、要するに、オスマンが、裏切り者のファラドを、追及する場に過ぎなかった…

 お遊戯大会という名目で、ファラドを油断させ、ファラドを追い詰める場に過ぎなかったわけだ…

 と、そこまで、考えて、ふと、気付いた…

 要するに、私だけ、この騒動の内幕を知らされてなかった…

 そういうことではないか?

 あらためて、気付いた…

 私だけ、なにも知らされず、本当に、この保育園で、お遊戯大会が、開催されると、信じてやって来た…

 そういうことではないか?

 要するに、除け者…

 私だけ、除け者だ…

 それに、気付いた私は、文字通り、腹の中が、煮えくり返った…

 怒りで、煮えくり返った…

 …どうして、私だけ、除け者なんだ?…

 声を出して、叫びたかった…

 リンダとバニラには、内幕を知らせることは、まだ我慢できよう…

 夫の葉尊に伝えるのも、まだ、我慢できる…

 が、

 あのお嬢様に伝えて、私に伝えないのは、我慢できん…

 あの矢口トモコに伝えて、この矢田トモコに伝えんことだけは、我慢できんかった…

 勘弁できんかった…

 私は、思った…

 なぜなら、あの矢口トモコは、この矢田トモコのライバル…

 ライバルだからだ…

 私が、なぜ、あの矢口トモコに対抗心を燃やすか?

 それは、私とあの矢口トモコが、そっくりだからだ…

 何度も言うように、私と矢口トモコは外見が、瓜二つと思えるほど、似ているからだ…

 が、本当は、私と矢口トモコが、並べば、実は、微妙に違うことが、わかる…

 あたりまえだ…

 たとえ、一卵性双生児でも、微妙に違うものだ…

 瓜二つは、存在しない…

 私と矢口トモコは、これも、何度も言ったが、身長は、私が1㎝高く、胸も私の方が、少し大きい…

 つまりは、極めて、微妙ではあるが、私の方が、勝っている…

 この矢田トモコの方が、矢口トモコに勝っている…

 そういうことだ…

 そして、なぜ、私が、矢口トモコに対抗心を燃やすか?

 実は、以前は、私は、矢口トモコに対抗心を燃やしたことなど、微塵もなかった…

 これっぽっちもなかった…

 なかったのだ…

 なぜかと、いえば、私と矢口トモコは、違い過ぎる…

 外見は、同じでも、矢口トモコは、金持ちの生粋のお嬢様…

 スーパージャパンのご令嬢だ…

 片や、

 この矢田トモコは、生粋の平民だ…

小市民だ…

 つまり、以前は、比較の対象ではなかった…

 比べることなど、できんかった…

 が、

 なぜか、今や、この矢田トモコは、台湾の大企業、台北筆頭の子会社である、日本の総合電機メーカー、クールの社長夫人になった…

 しかも、夫の葉尊は、サラリーマン社長ではない…

 オーナー社長だ…

 要するに、今や、私は、あの矢口トモコを、名実ともに、追い越し、追い抜いたのだ…

 なぜなら、矢口トモコは、たかだか、日本の安売りスーパーの創業者の娘…

 片や、

 この矢田トモコは、世界中に知られた日本の総合電機メーカー、クールのオーナー社長夫人…

 もはや、論ずるまでもない…

 すでに、この矢田トモコは、あの矢口トモコを追い抜いた…

 追い抜いたのだ…

 同じ外見を持つ、女は、この世に二人とは、いらぬ…

 いつか、あの矢口トモコと、この私は、雌雄を決するときが、来る…

 私は、そう見た…

 私は、そう睨んだ…

 私は、そう決意した…

 と、

 そのときだった…

 誰かが、カメラを回しているのに、気付いた…

 もちろん、テレビや映画で見る大きなカメラではない…

 が、

 明らかに、カメラだった…

 しかも、複数…

 園児の父兄と偽って、この場にやって来た、オスマンの護衛の何人かが、カメラを回していた…

 いや、

 カメラだけではない…

 スマホもだった…

 明らかに、スマホをカメラ代わりに、この騒動を撮影している人間もまた複数いることに、気付いた…

 私は、考えた…

 誰の指示によるものか?

 考えたのだ…

 撮影しているのは、オスマンの配下…

 そして、映しているのは、この騒動だ…

 つまりは、この撮影は、オスマンの指示の元、サウジ本国の国王陛下に、見せるものだと、私は、思った…

 一体、なにがあったか、国王に報告するものだと、思った…

 なにより、口で、説明するよりも、一連の騒動をカメラに収めて、説明するのが、一番だ…

 その方が、ウソがつけないし、相手も、信用する…

 私は、そう思った…

 しかも、一台だけのカメラでは、心もとない…

 失敗する可能性もあるからだ…

 だから、複数のカメラで撮影するのだろう…

 その方が、仮に、一台、撮影に失敗しても、問題はない…

 他のカメラが、撮影しているからだ…

 私は、そう思った…

 と、

 そのときだった…

 ドタンと、大きな音がした…

気が付くと、ファラドが、床に倒れていた…

 おそらくは、葉問にやられたに違いなかった…

 一方の葉問は、無表情で、床に倒れたファラドを見ていた…

 それを見て、私は、驚いた…

 と、

 同時に、ガッカリした…

 私が、肝心のファラドと葉問のバトルを見損なったからだ…

 一体、なぜ、見損なったのか?

 考えた…

 すると、あっけなく、その答えがわかった…

 つまりは、私は、それほど、葉問を信頼している…

 信用している…

 葉問が、ファラドごときに、負けることはないと、信じていた…

 確信していたということだ(笑)

 だから、私は、勝った葉問に、

 「…葉問…オマエ…強いな…」

 と、声をかけた…

 葉問が、私の声で、私を振り向いた…

 「…お姉さん…まだ、終わってません…」

 葉問が言った…

 「…終わってないだと?…」

 私は、オウムのように、葉問の言葉を繰り返した…

 私は、驚いて、葉問を見た…

 と、

 そのときだった…

 なんと、ファラドが、私の目の前にやって来たのだ…

 おそらくは、マリア同様、私を人質に取ろうとしているに違いなかった…

 と、

 これは、後で、冷静になって、振り返ってから、わかったこと…

 このときは、目の前に、ファラドが、やって来たことで、慌てて、言葉も出なかった…

 恐怖で、言葉も出なかったのだ…

 万事休す…

 本当なら、恐怖で、私の細い目をつぶるところだが、それも、できんかった…

 とにかく、予想外…

 私の想定外だったからだ…

 だから、とっさに、どうすれば、良いのか、わからなかった…

 誰でも、そうだが、後から、考えれば、あのとき、こうしていれば、良かったとか…

 ああしていれば、良かったと言えるものだ…

 が、

 それは、あくまで、後からだから、言えること…

 そのときは、わからない…

 いや、

 できない…

 私も同じだった…

 この矢田トモコも同じだった…

 私は、ただ、ビビッて、目の前に現れたファラドを見た…

 ただ、ビビッて、ファラドを見た…

 もはや、なすすべもなかった…

 私は、ただ、ビビッて、ファラドを見るだけだった…

 逃げることも、できんかった…

 恐怖で、カラダが、金縛りにあったように、動かんかったのだ…

 私は、ただ、ただ、その場に、棒のように、立ち尽くしていた…

 まるで、スローモーションの映像を見るように、ファラドが、私に襲いかかって来るのが、見えた…

 それでも、私は、どうすることも、できんかった(涙)…

 が、

 そこまでだった…

 ファラドの動きが、いきなり止まったのだ…

 背後から、葉問と、バニラが、それぞれ、ファラドに、殴りかかったのだ…

 それで、ファラドは、まるで、ボクシングかなにかの試合で、見るように、ゆっくりと、膝から、ガクンと、崩れ落ちた…

 まるで、ボクシングの試合のKОシーンを見るようだった…

 私は、一瞬、なにが、起こったのか、わからなかった…

 が、

 終わってみて、わかった…

 物事は、なんでも、そうだ…

 渦中では、なにが、起こっているか、わからない…

 後になって、わかるのだ…

 後になって、このとき、命拾いしたことが、
わかったのだ…

 バニラと葉問が、ファラドを背後から、殴りかかって、倒したのは、一瞬のことだったので、なにが、起こったのか、わからなかった…

 私は、ただ棒のように、その場に、突っ立っていた…

 何の感情もなく、ただ突っ立っていた…

               
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