164 加藤書店は「諏訪栄」推しだった。3
文字数 811文字
*
ここで正直なことをいうと、ぼくも諏訪栄のファンなんだ。
だから、加藤大助のゴリ押しは理解できるんだよな。
謎の人だった諏訪栄の正体が、実は「小島剛夕(こじま・ごうせき)」だったと知ったのは、漫画家を目指して上京してからのことなんだ。
今の人はもう知らないかもしれないな。
「子連れ狼」を描いた人なんだよ。
*1975年「週刊漫画アクション」
知っている人は、あの荒々しい絵が頭に浮かぶと思うんだけれども、貸本時代の絵は、美男美女を描いていて群を抜いていたんだ。
長編ロマン物語なんだよ。
子ども心にもその美しい絵に心がときめいたもんだったよ。
でも、美男美女の物語では売れなくなってしまったんだろうな。
だから、ペンネームを使って絵柄を変えて、売れる忍者漫画を描いたんだと思うんだ。
白土三平が「忍者武芸帳・影丸伝」で一大ブームを起こしていたからさ。
この時、 1928年11月3日 生まれの小島 剛夕は36歳。
32歳の白土三平より4歳も年上なんだ。
画力は小島 剛夕のほうが上なだけに、複雑な心境だったと思うんだ。
そんな状況にいる小島 剛夕が、頑張っている姿を見ると応援したくなるよね。
でも、加藤大助のやりかたは露骨すぎて、白土三平との関係を壊しかねないよな。
この当時は映画のポスターの並びや名前の順番・文字の大きさで、スター同士がいがみ合うってことをよく耳にしたんだよ。
もう、60年も前のことなのに、心配してしまうよ。
そうそう、今回調べていて、「小島 剛夕」がどうして「諏訪栄」と名前を変えていたのかがわかったよ。
当時ひばり書房との専属契約があったために諏訪栄のペンネームを使ったんだってさ。
<故郷である三重県四日市市の諏訪栄町から命名した。>『ウィキペディア』
突如として現れた諏訪栄の謎は解けたんだけれど、少しがっかりしたよ。
しかし、新しい道を模索したことには間違いないよね。
ここで正直なことをいうと、ぼくも諏訪栄のファンなんだ。
だから、加藤大助のゴリ押しは理解できるんだよな。
謎の人だった諏訪栄の正体が、実は「小島剛夕(こじま・ごうせき)」だったと知ったのは、漫画家を目指して上京してからのことなんだ。
今の人はもう知らないかもしれないな。
「子連れ狼」を描いた人なんだよ。
*1975年「週刊漫画アクション」
知っている人は、あの荒々しい絵が頭に浮かぶと思うんだけれども、貸本時代の絵は、美男美女を描いていて群を抜いていたんだ。
長編ロマン物語なんだよ。
子ども心にもその美しい絵に心がときめいたもんだったよ。
でも、美男美女の物語では売れなくなってしまったんだろうな。
だから、ペンネームを使って絵柄を変えて、売れる忍者漫画を描いたんだと思うんだ。
白土三平が「忍者武芸帳・影丸伝」で一大ブームを起こしていたからさ。
この時、 1928年11月3日 生まれの小島 剛夕は36歳。
32歳の白土三平より4歳も年上なんだ。
画力は小島 剛夕のほうが上なだけに、複雑な心境だったと思うんだ。
そんな状況にいる小島 剛夕が、頑張っている姿を見ると応援したくなるよね。
でも、加藤大助のやりかたは露骨すぎて、白土三平との関係を壊しかねないよな。
この当時は映画のポスターの並びや名前の順番・文字の大きさで、スター同士がいがみ合うってことをよく耳にしたんだよ。
もう、60年も前のことなのに、心配してしまうよ。
そうそう、今回調べていて、「小島 剛夕」がどうして「諏訪栄」と名前を変えていたのかがわかったよ。
当時ひばり書房との専属契約があったために諏訪栄のペンネームを使ったんだってさ。
<故郷である三重県四日市市の諏訪栄町から命名した。>『ウィキペディア』
突如として現れた諏訪栄の謎は解けたんだけれど、少しがっかりしたよ。
しかし、新しい道を模索したことには間違いないよね。