第4話  ぼくのいるところ。 4

文字数 1,209文字


「美味しそうに食べるから、あたしも欲しくなった」
 咲雪さんはヘルシー野菜カレーを追加注文する。
 ぼくは食べることに夢中になって、最後の一粒まで残さず腹に入れた。
「ラフでいいから、この店の中を描いてよ」
 待っていたようにスケッチブックをぼくに渡すと、革の入れ物から鉛筆を取り出した。2Bの 
 鉛筆の上に噛み跡があった。

 絵を描くのは久し振りだ。
 壁に飾ってある丸い古時計と観葉植物が置いてある辺りを描いた。
 鉛筆を走らせていると、楽しくなってくる。素直な自分でいられる。
 ヘルシー野菜カレーをテーブルに置いたウエイトレスが、ぼくの前の皿をさげようとした。
「待って」
 声をかけた咲雪さんが「半分食べてくれない」とぼくを見た。
「食べます。食べます」
 大きな声になった。
 咲雪さんはウエイトレスに「悪いわね」と言ってから、ぼくの皿に半分を移した。

 三枚描いてからカレーに向かう。
 咲雪さんが、手を前に出したので、スケッチブックを渡した。
 一枚、一枚じっくりと見ている。せっかくのカレーなのに集中出来ない。
「特別、上手いってことでもないわね」
 ヘルシー野菜カレーが口に合わなくなった。
「なんでもやるって言ったわね」
 何かを思いついたように言った。
「はい!」
「キミ、その髪とヒゲはファッションなの?」
「そうです」
「似合ってないね。それに、ずいぶんと臭い。お坊さんヘヤーにした方が、スカッとするかもね」
「丸坊主ってことですか?」
 話の流れが掴めない。
「電話してくるわ」
 立ち上がった咲雪さんは、腰を浮かせたぼくを見てクックックと笑う。
「逃げない。逃げない」
 咲雪さんがレジ横の置き電話に行くまで、ぼくは目を離さなかった。

 ぼくは、面接をしてもらえることになったようだ。
 咲雪さんは、ぼくを近くの『スーパーナカムラ屋』に連れて行った。
 ぼくにカゴを持たせると男物の下着をどんどん投げ入れた。
「これって、ぼくのですか?」
「キミが買うのよ」当然のように言った。
「サイズを確かめてないし」
「大丈夫よ。キミと同じぐらいの体型の男と付き合っていたことがあるから分かるの」
「こんなに要らないです」
 ぼくはパンツの二枚組セットだけ残して全てを戻した。
 レジで封筒から取り出した千円札を出す。交通費がパンツに変わってしまった。

 自転車を押す咲雪さんの後ろからついて行く。
 入り組んだ路地を抜けると四階建ての白いマンションがあった。一階の一〇三号室がマリネプロダクションだと教えてくれた。
「あたしが出来るのはここまでよ。あとはキミの頑張りしだい」
「ありがとうございます」
 ぼくは深々と頭を下げた。
「これ、プレゼントするね」
 咲雪さんはスケッチブックを押し付けた。
 自転車に乗った赤いリュックとスニーカーが遠ざかるのを見送ってから、一〇三号室のチャイムを鳴らす。
 しばらく待ってもう一度押す。ここまで来て、悪い冗談なのかと不安になった頃にドアが開いた。

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