第37話 

文字数 1,210文字


 ラタイ館から出て、外を見渡しても美沙子さんの姿は無かった。
 待つ時間が長くて、帰ってしまったのかもしれない。 

 ぼくは高円寺へ向かって歩きながら、富田がいなくなって、大切なものを失ったのではないかと考えていた。
 ぼくを支えていた何かを……。

 部屋に戻るとすぐにスニーカーに履き替えて、三奈のアパートへ行った。
 窓の灯りを確かめると、迷うことなくドアをノックした。
 ドア越しに聴こえてきた声は、三奈ではなかった。
 越してきたばかりだと言う女性は、部屋の中を確認したいと頼んだぼくに、すぐに立ち去らないと、警察を呼ぶと言った。
 きっとこの人は、三奈が部屋に残していったさまざまなものを消してしまっただろう。
 三奈はもうこの部屋には住んではいない。

 ぼくは疲れ果てていたけど、あの場所に三奈がいなくなったということがぼくの心を穏やかにしていた。
 それは三奈がぼくの前に姿を見せなくなってしまっていらい久しく感じたことのなかった安らぎだった。
 三奈がいなかったからこそ終わりにすることができたのかもしれない。
 もしも三奈がいたなら、何かをしなければならなかっただろう。
 すべては続くはめになっていただろう。
 これでもう、みじめな自分を晒すことをやめられる。
 とうとう三奈と別れたのだという実感が訪れてきた。

八月に入ると、みずみずしかった三奈という部分を、ぼくの中から乾かしてしまうような暑い日が続いた。
来る日も来る日もテーブルに向かってマージャンをした。
四人のメンバーが集まらないときは三人で牌を積んだ。
不思議なことだけど、マージャンは勝ち続けた。
「女性のオッパイよりも、マージャンパイを触るほうが快感だ」とうそぶいた
友人たちが、数日とか一週間とか帰省したり、旅行へ出かけたりしてパーティやマージャンをする回数が減って来た。
夏が過ぎていき、不動産会社の中井さんに勧められて、同じ会社の池袋支店で働くことになった。
ある日、十号室の上条さんが部屋にやってきて「オヤジの世話で仕事やってんだってな。やっぱ、若者は勤労しなきゃな。日本の繁栄のために頑張れよ」と、ぼくを励ましてくれた。そして、「千円ぽっちでいいから、回してくんねえかな」と話を切り出した。
ぼくは断った。「酒なしのご飯ならいつでもおごります」と言って、二人で長井食堂へ行った。上条さんは「おれは食が細いんだ。半分やっから食べな」とライスをぼくにくれた。それ以来、時々二人で長井食堂へ行くようになった。
秋になり、ぼくは高円寺で六畳の陽当たりのいい部屋へ引っ越した。そして、室内履きのスリッパで高円寺の街を闊歩することをやめた。

ぼくは、三奈を忘れることが出来なかった。
三奈に目を向けられた瞬間、ぼくはぼくであると自分で思いこんでいたものから飛翔して、才能溢れる特別な何者かになった。いや、何者かであるかのように思わしてくれたのだ。
その、三奈を失うことなんか出来ない。
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