第1話      

文字数 1,348文字


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 二階から妻が部屋の雨戸を開ける音が聴こえてきた。
 六十歳になった八月で、滋賀県庁の煩わしい人間関係から解放された妻は、八時に始まるNHKの連続テレビ小説に合わせて起きてくるようになった。
 私は六十五歳まで働き、三年が過ぎたが、今も朝の四時半に起きている。二十四時間を自由に使えるようになったが、会社勤めをしていた時からの生活のリズムを変えることは出来ないでいた。
 映画を毎朝、一本観終えてから出勤する。そのことを自分に課したのは四十歳になってからのことだった。それは、会社人間にならないための自衛だったように思う。

 日曜日にレンタルビデオ店で、棚に並べてある映画のタイトルを眺めながら七本選ぶことが楽しみだった。
 旧作映画ばかりだったが、新作、準新作も長く待つこともなく旧作コーナーに流れてきた。
 今は動画配信サービスを利用しているので、映画よりも海外テレビドラマを観ることが多い。
 数日前から「エレメンタリーホームズ&ワトソンinNY」を見始めて、シーズン1の最終話、二十四話目を観ているところだったので中断したくない。

 もっとも、このシリーズはシーズン7まで見ることが出来るようなので、全てが二十四話だとすると、残りの6シーズンを見終わるのに144時間かかることになる。
 独りきりだと暴走していつまでも見てしまう危険性もあるので、妻によって中断される方がいいのかもしれない。
 十二月中には見てしまいたいとは思っている。

 二日後の十七日から五日間、東京の息子のところへ行くので、一日十四時間「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」を見続けなければならない。
 階段を下りてくる妻の足音が近づいてきたので、リモコンでテレビ放送に切りかえた。
「お早う」
 リビングに入って来た妻に、ソファから身を起こして言葉をかけたが、挨拶を返してこない。
 昨夜、東京へ行く、行かないで揉めたのだ。新型コロナウィルス騒動の中、妻は東京へ行くことに反対した。
 首相が昨日、Go Toトラベルを全国一時停止すると発言したことに動揺しているのだ。
 九月に『Go To対象【初泊日付】選べる新幹線&ホテル。一泊五日間・東京フリーコース』を旅行社に予約していた。
 Go Toトラベルが利用できて35%割引になる。そして、15%の地域クーポン券が支給される。
 二人で八万円の旅行代金が半額の四万円、一人が二万円で東京へ往復できる。しかもホテル一泊二食付きなのだ。
 いつものように、新幹線を使って東京往復するよりもずいぶんお得になる。
 三泊する息子家族には、地域クーポン券で大判ふるまいできるし、万々歳だと予約をした時は妻も喜んでいた。
 すでに、東京往復の新幹線乗車券と一万二千円分の地域クーポン券が書留で届いている。

 出発二日前になっての拒否は理解できない。
 私は不機嫌を隠さない妻にソファを明け渡して、朝食の用意を始めた。
 仕事を辞めた三年前から、朝食と昼食そして風呂の掃除が私の担当になっている。
 朝はトーストと目玉焼き、それにスライスしてある玉ねぎとキャベツを盛りつけたサラダ、カップヨーグルトにホットコーヒーが定番となっている。
 NHKのドラマが終わってから食べるのでゆっくりと用意する。


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