第14話  咲雪のいるところ。 1

文字数 1,039文字


 一九八一年九月、咲雪のいるところ。 

「うたはると。チェーンが外れた自転車の修理は出来るか?」
 受話器を握ったままで草津さんが声を張り上げた。
「わぁーい、でひまぁす」
 インスタントの味噌ラーメンを口いっぱいに入れていたぼくは、ちゃんと声が出ない。
「咲雪ちゃんが、駅前のデナーズで待っているから、行ってきてよ」
 時計は夜の十一時を回っている。
 二十四時間営業のドーナツ店以外は、暗闇のはずだ。
 ぼくはラーメンを流し込むと、急ぎ足で駆けつけた。

 咲雪さんは自転車を立て掛けてあるガードレールに座って、デナーズの店の中を眺めていた。
「遅い!」
 なんだか機嫌が悪い。
「あたしが呼んだら、全力疾走でくるのよ」
 ぼくの目の前に近付くと、膝蹴り攻撃をしてきた。
 予測していたので、両手でブロックする。
咲雪さんはフンッと短い髪を揺らした。
「返事が聴こえない!」
「はーい」
 相手にしないで、早く役目を終わらせて帰ろう。
 自転車をハンドルを下にして逆さに立ててから、外れたチェーンを前のギアに噛み合わせてペダルを手で回す。 
 チェーンは簡単に元のポジションに戻った。
 自転車を元にもどして、スタンドを立てた。
「修理終了しました」
 ぼくが報告すると、咲雪さんは自転車の荷台に座った。
「漕ぐのよ。うたはると」
 咲雪さんの命令に、ぼくは素直に従う。
 サドルに座ると咲雪さんが、ぼくの腰に手を回した。
 背筋が硬直したが、そのままペダルを踏み込んだ。

「マリネに行く途中にあるジュースの自販機の角を、右に曲がるのよ」
 耳元に咲雪さんの息が届く。
 パンツの中身も硬直してきたので、気を紛らわすために足をフル回転させた。
「あそこを右!」
 ぼくの前に腕を伸ばして自販機を指す。
 背中に柔らかいものが当たる。
「うわぉ」
 声を張り上げてペダルを踏む足に力を入れた。

 自販機の角を曲がって、しばらく漕ぎ続ける。
 濃い紅色の生垣を過ぎたところに、二階建ての古びたアパートがあった。
「マンションに住んでいると思っていましたよ」
「あたしは、とうふ屋の娘なの」
 数台の自転車が外階段の下に停めてある。
 荷台から降りた咲雪さんに自転車を渡すと、そこに並べた。
「部屋は二階よ。お礼にコーヒーでも入れるわ」
「夜中だし、それに……」
「うたはると、怯えてない?」
 手で腰を叩かれる。
「そんなことはないです」
「階段はそっと上がるのよ」
 咲雪さんは鉄製の階段を軽やかに昇っていく。
 形のいいお尻が目の前で揺れるのを見ながら、暗い階段を上った。

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