第45話 これは これは これは 30 『マリネエンプラ』 解散!
文字数 1,904文字
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まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売した1975年3月に『マリネエンタープライズ』が解散になった。
理由はよくわからないけど、牛次郎さんになんらかの事情があったんだろう。
ぼくが『マリネエンプラ』に在籍したのは、1974年11月がら翌年の3月までの5ヶ月間だけど、『マリネエンプラ』自体、1年も続かなかったように思う。
そもそも『マリネエンプラ』が、何を目的として創られたのかも知らないで働いていたんだ。
*『まんが劇画ゼミ』集英社(1979年)
当時は、『子連れ狼』で漫画原作者として有名になっていた小池一夫は、1972年、さいとうたかをプロダクションから独立して、『スタジオ・シップ』を立ち上げていたんだ。
参加した叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志たちも、さいとうプロのメンバーだったから、引き抜いたのどうのとひと騒ぎがあったみたいだ。
スタジオ・シップは、小池一夫が借りた借家で集団生活をしながら漫画を描いていたそうなんだ。もちろん小池一夫が書いた原作をだけどね。
牛次郎さんも同じように、1人の原作者を中心に、複数の作画家で構成するプロダクションを創ろうとしたんだろうな。
とにかく、解散が決まったんだけど、倒産とかじゃなくて、左近士さんもたがわさんも、牛次郎さんの原作は継続するので、それぞれ仕事場を確保すれば済むことなんだ。
ぼくも、5ヶ月生き延びることができて、20万円ぐらい手元にあるので、なんとかなるだろうと考えていた。
でも左近士さんやたがわさんは、事務所に実印を預けていたり、何かと気になることを、ぼくに訊いて欲しいと頼んでくるんだよ。
なにしろ、牛次郎さんとのしがらみがないのは、ぼくだけだもんな。
残務処理というのか、全てのことはマネージャの井上さんが対応したから、ぼくの矛先も井上さんに向かうことになる。
それほど揉めることはなかったんだけど、嫌な思いはしたはずだ。
でも、「きみが一番しっかりしている」と妙な褒められ方をした。
訊いて欲しいと頼まれたことを、訊いただけなんだよな。
この後、ぼくは漫画同人誌の仲間が住んでいる高円寺へ引っ越すんだけれど、草野球チームの一員として関係が続くんだ。
左近士さんは練馬、たがわさんはひばりが丘と、それぞれ独立して仕事場を構えて、時々遊びに行っていたんだ。
ぼくが、高円寺から、ある事情で西武新宿線の田無駅から、徒歩20分の平屋に引っ越したので、たがわさんとの付き合いが深くなっていくんだ。
というのは、谷口ジローさんの仕事場が清瀬にあって、ぼくはひばりが丘のたがわさんの仕事場に自転車を置いて、清瀬まで通ったんだ。
つまり、毎日、顔をだしてはあれこれ喋っては、たがわさんの仕事の邪魔をしていたってことなんだ。
たがわさんは、2000年9月1日に亡くなったんだけど、よくぼくに電話を掛けて来てくれたんだ。
いつも、ぼくが会社から帰宅する夜の11時ごろだった。
美人の奥さんと離婚したことや、子どもが元奥さんの恋人になついているとか、あまりいい話じゃなかったんだけどね。
ぼくがまだ帰っていない時は、妻に軽い冗談をいっていたみたいだった。
帰宅してから、ぼくが電話を掛け直しても全く出ないので、「どうしてですか?」と訊いたことがあるんだ。
「編集者から催促の電話だと思って無視していた」
ぼくは、電話口で大笑いしたよ。
「なんだか、浦山くんの笑い声を聴いていると、楽しくなる」
たがわさんから、しばらく電話が掛かってこないなと思っていたら亡くなっていた。
葬儀は、いつの間にか住職になっていた牛次郎さんの寺で行われたんだ。
不思議な縁だよな。
ここで、漫画原稿の裏に『横みち友の会』からのメッセージが書いてある話に戻るんだけど、
<横みち友の会は毎年新たに募集しております。
ただいま42年度の会員を募集しておりますので、ご入会ください。
浦山君も会員にしておきましたので、会費200円お送りください。
入会案内書は別にありませんが、同封の会誌20号をごらんいただければ、よくお解りになられると思います。>
昭和42年度を募集と書いてある。
横山プロダクションに入社した日付は、
たがわさんは、昭和40年4月、左近士さんは、昭和41年1月だから、
ぼくに届いた漫画原稿の裏に書いたのは、二人のどちらかの可能性はあるよな。
今度、左近士さんに訊いてみようと思っているんだ。
すっかり忘れていた漫画原稿が、縁を繋いでくれたのかもしれないな。
これは これは これは 31 に続く。
まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売した1975年3月に『マリネエンタープライズ』が解散になった。
理由はよくわからないけど、牛次郎さんになんらかの事情があったんだろう。
ぼくが『マリネエンプラ』に在籍したのは、1974年11月がら翌年の3月までの5ヶ月間だけど、『マリネエンプラ』自体、1年も続かなかったように思う。
そもそも『マリネエンプラ』が、何を目的として創られたのかも知らないで働いていたんだ。
*『まんが劇画ゼミ』集英社(1979年)
当時は、『子連れ狼』で漫画原作者として有名になっていた小池一夫は、1972年、さいとうたかをプロダクションから独立して、『スタジオ・シップ』を立ち上げていたんだ。
参加した叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志たちも、さいとうプロのメンバーだったから、引き抜いたのどうのとひと騒ぎがあったみたいだ。
スタジオ・シップは、小池一夫が借りた借家で集団生活をしながら漫画を描いていたそうなんだ。もちろん小池一夫が書いた原作をだけどね。
牛次郎さんも同じように、1人の原作者を中心に、複数の作画家で構成するプロダクションを創ろうとしたんだろうな。
とにかく、解散が決まったんだけど、倒産とかじゃなくて、左近士さんもたがわさんも、牛次郎さんの原作は継続するので、それぞれ仕事場を確保すれば済むことなんだ。
ぼくも、5ヶ月生き延びることができて、20万円ぐらい手元にあるので、なんとかなるだろうと考えていた。
でも左近士さんやたがわさんは、事務所に実印を預けていたり、何かと気になることを、ぼくに訊いて欲しいと頼んでくるんだよ。
なにしろ、牛次郎さんとのしがらみがないのは、ぼくだけだもんな。
残務処理というのか、全てのことはマネージャの井上さんが対応したから、ぼくの矛先も井上さんに向かうことになる。
それほど揉めることはなかったんだけど、嫌な思いはしたはずだ。
でも、「きみが一番しっかりしている」と妙な褒められ方をした。
訊いて欲しいと頼まれたことを、訊いただけなんだよな。
この後、ぼくは漫画同人誌の仲間が住んでいる高円寺へ引っ越すんだけれど、草野球チームの一員として関係が続くんだ。
左近士さんは練馬、たがわさんはひばりが丘と、それぞれ独立して仕事場を構えて、時々遊びに行っていたんだ。
ぼくが、高円寺から、ある事情で西武新宿線の田無駅から、徒歩20分の平屋に引っ越したので、たがわさんとの付き合いが深くなっていくんだ。
というのは、谷口ジローさんの仕事場が清瀬にあって、ぼくはひばりが丘のたがわさんの仕事場に自転車を置いて、清瀬まで通ったんだ。
つまり、毎日、顔をだしてはあれこれ喋っては、たがわさんの仕事の邪魔をしていたってことなんだ。
たがわさんは、2000年9月1日に亡くなったんだけど、よくぼくに電話を掛けて来てくれたんだ。
いつも、ぼくが会社から帰宅する夜の11時ごろだった。
美人の奥さんと離婚したことや、子どもが元奥さんの恋人になついているとか、あまりいい話じゃなかったんだけどね。
ぼくがまだ帰っていない時は、妻に軽い冗談をいっていたみたいだった。
帰宅してから、ぼくが電話を掛け直しても全く出ないので、「どうしてですか?」と訊いたことがあるんだ。
「編集者から催促の電話だと思って無視していた」
ぼくは、電話口で大笑いしたよ。
「なんだか、浦山くんの笑い声を聴いていると、楽しくなる」
たがわさんから、しばらく電話が掛かってこないなと思っていたら亡くなっていた。
葬儀は、いつの間にか住職になっていた牛次郎さんの寺で行われたんだ。
不思議な縁だよな。
ここで、漫画原稿の裏に『横みち友の会』からのメッセージが書いてある話に戻るんだけど、
<横みち友の会は毎年新たに募集しております。
ただいま42年度の会員を募集しておりますので、ご入会ください。
浦山君も会員にしておきましたので、会費200円お送りください。
入会案内書は別にありませんが、同封の会誌20号をごらんいただければ、よくお解りになられると思います。>
昭和42年度を募集と書いてある。
横山プロダクションに入社した日付は、
たがわさんは、昭和40年4月、左近士さんは、昭和41年1月だから、
ぼくに届いた漫画原稿の裏に書いたのは、二人のどちらかの可能性はあるよな。
今度、左近士さんに訊いてみようと思っているんだ。
すっかり忘れていた漫画原稿が、縁を繋いでくれたのかもしれないな。
これは これは これは 31 に続く。