第5話  ぼくのいるところ。 5

文字数 1,376文字


 ぼくよりもヒゲ面の男に招き入れられた。
 玄関に乱雑に脱いである履物の中に、ぼくの汚れた靴が加わる。
 廊下の右側にふたつのドア。バスとトイレのようだ。突き当たりと左側にもドアがある。
 ヒゲ面の男は左側のドアを押した。
「入れよ」
 不機嫌そうな声で言った。

 恐る恐る中に入る。
 右側にキッチン、左側に応接セットが置かれている。
 奥の広い部屋に並べられた机から、ぼくを見ている顔、顔、顔。
 数えるとヒゲ面を入れて六人だ。

「宇多春仁です。十九歳。身体はいたって健康。なんでもやります」
 応援団のノリで腹から声を出した。
 壁際の大きなデスクにいた短髪の男が立ち上がった。
 近付いてくると、「草津です」手でソファーに座るように促した。
 端に積み重ねられているTシャツやジャージを避けて沈み込む。すでにヒゲ男は、机に向かっている。
 草津さんは、向かいの一人掛に腰を落とすと身を乗り出した。
「一週間、ただ働きでいいんだね」
「はい」
「丸坊主もOKってことも間違いないのかな」
「えっ? 丸坊主ですか……」
「咲雪ちゃんから話がついたって聞いているんだけど」
「しました。しました。お坊さんヘヤーですね。OKです」
「どうやら、きちんと説明していないようだな」
 二日後に草野球の試合があって、負けたチームのひとりが丸坊主にならないといけないのだと言った。ぼくは生贄として連れてこられたようだ。
「この前は僕が責任を取った。ようやくここまで伸びたよ」
 頭の後ろを手で押さえてヒャヒャと笑った。
 一週間後には、丸坊主で追い出されることになるのか……。
 それでも、今のぼくにとってはありがたい。
「それ、洗濯してから着るといいよ」
ぼくの横の古着を指した。
「これ貰ってもいいんですか?」
「急だったので、そんなものしかないんだ」
「ありがとうございます」
 草津さんは、横の窓を塞いでいる大きなホワイトボードを指した。
「きみの名前も書いて貼っておけばいいよ」
 月間予定表と印字してある枠内に日付と曜日、その下に数カ所『〆切り』と赤い文字で乱暴に書かれていた。右側の欄に『草津』を始め名前がマグネットプレートで貼り付けてある。
『咲雪』のプレートもあった。
「お米とインスタントラーメンは、自由に食べてもいいよ」
「本当ですか?」
 夢のような話だ。
「出前が多くて、あまり作らないんだ。炊くときは、一応みんなに声をかけること。それと、冷蔵庫に入れる食料には名前を書くこと」
「わかりました」
「じゃあ、みんなに紹介するよ」
 立ち上がって仕事場に入ったので、ぼくも後ろに付いた。
「今日から、一緒にやってもらうことになった……」
 言葉が途切れて振り返る。「名前、なんていったかな?」
「宇多春仁です」
 大きな声を出した。
 それぞれ座っている場所から顔を上げて名前を言った。
 覚えきれない。
「寝るところは、ここなんだけどね」
 仮眠に使っているという仕事場の押入れの上の段。
「このシーツも洗濯すればいい」
草津さんが引き抜いた。
 ヒゲ男、たしか、黒川という名前だーーの背中越しに見える漫画の原稿に眼を奪われた。
 ケント紙に走らせているペン先の音。鉛筆の下書きの線に沿ってGペンの黒いインクが重なっていく。
「おい、俺より臭いぞ」
 黒川さんに近寄り過ぎたようだ。慌てて離れた。
 ぼくの最初の仕事は、自分の身体を洗うことだった。


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