第13話 準備は、わいがや 8 沼田清と『影』
文字数 2,455文字
2023・10・30(月)
*
浦山さん
鵜飼です。
一昨日、昨日とイベントがあり、今日は▲▲から来てくれた人を京都を案内しました。
今、新大阪駅で見送ったところです。
明日、対応しますね。
*
今晩は。
今日は■■■大学で漫画イベントがあり、それに参加していました。
夕方帰宅し、夕食・風呂をすませ、今まで書庫を物色していました。
少年キングはピンポイントなので探せませんでした。
沼田清の作品はめっけました。
また、デビュー作も表紙・目次・タイトル参照して下さい。
一応画像送ります。
明日は一日留守しますので、あと少し探してみます。
追伸です。
ビクトリー作画会は確か劇画系作家達が4・5人集まって作品を描いていたグループの名称じゃなかったですかね。先日、友人のコレクターの所でチラッと見たような気がします。
山田甲八でした。
*
二人とも忙しそうなので、ぼくに付き合わせて申し訳ない気がするんだけれど、出逢ってしまったし、始めてしまったんだから仕方ないよな。
山田さんは、ぼくが「第11話 準備は、わいがや 6」で
<これは、山田さんに書庫で『週刊少年キング』 1967年発行の
㉔は24号か、それとも<1967-6-4>を調べてもらうしかない!!>
と頼んだ「沼田清『怪獣王子』問題」の答えを見つけてくれたみたいだ。
『怪獣王子』は、園田光慶が『週刊少年キング』(1967年1号)から連載を始めたのは記録として残っている。
上段 園田光慶 表面左上に横書きで <1967-6-4> と手書きしてある。
下段 沼田清
これで、沼田清の原画の裏面に書いてあった「沼田清先生の原画 少年キング㉔ 「怪獣王子」より一号」との真実がわかるのだ!
沼田清の裏書が、単に間違っていただけだった!!
半世紀以上も闇の中にあった真実が、いま明らかになったのだ!!!
『影』114号に掲載。
目次に<今集の目次画入選者 住所・氏名 あすなろ劇画研究会>とある。
『スピリット作画会』、『ビクトリー作画会』も漫画好きが集まって同人誌を作ったり、作家集団になったりしたのかもしれないな。
『影』は、目次まで読者からの投稿イラストを掲載していたのだった。
『読者のページ』なんかもあって、読者のカット画を載せていたな。
何回も載って、名前を憶えてしまった人もいたし、どんな人かなと想像しては憧れたものだったな。
表紙に<K・元美津・山森ススム両先生推薦による新進作家 沼田清志の異色作品!!>
とある。
京都の中学校の同級生コンビが、京都出身の後輩を引き上げたことがわかる。
原田さんは、沼田清が日の丸文庫に持ち込んだ19歳でのデビュー作品「手に石」(16ページ)も探し出してくれていたた。
『影・別冊』(1962年)。
なんと、K・元美津・山森ススム・沼田清志と京都派が揃っているじゃないか!
いやぁ、嬉しいな。お宝だ~。
もう、深夜の2時を過ぎているのに、まだまだ眠らないぞ!
沼田清が、沼田清志となっている。いつから沼田清と変えたのかも興味が湧く。
たとえば、太宰治が、デビュー当時、『太宰治虫』だったとしたら、いつ『虫』を名前から外したのかで、文学部の卒論になるよね。
大学の漫画学科の卒論になるんじゃないかな。
だって、ペンネームを変えるには、それなりの理由があるんだもんね。
<表紙画 木村忠雄>とあったので、ついでに調べてみた。
『木村忠雄』で検索すると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で発見!
木村忠雄(きむら・ただお、1921年 - 没年不詳)は、島根県[1]出身のプロ野球選手。
これはちがうだろ!
没年不詳ってのは、さびしいな。
『画家 木村忠雄』で検索。
「木村忠太の世界展」
高松市生まれの木村忠太(Ⅰ917-1987年)は1953年、36歳で渡仏。南仏やパリの風景を描き続けた。風景の中の人物、家、木々、道、自転車、車などを題材に、華やかな色彩、自在な線で独自の世界を描き出した。光の中で風景の記憶が移ろうかのような画風は、「魂の印象派」とも呼ばれる。
『画像』で検索。
夫婦生活 昭和24年10月号 表紙画・寺本忠雄。
画像を拝借しました。
木村毅「坪内逍遥夫妻とバーナード・ショウ夫妻」5頁〉〈座談会「客商売の女たちが語る男の操縦法」8頁〉〈小平義雄ざんげ 淫獣に襲われた人妻 8頁〉〈佐山英太郎「文豪有島武郎と情死した妖艶な人妻波多野秋子夫人」13頁〉、三谷祥介、中村八朗、竹村文祥、西川満、丸木砂土
< 表紙画・寺本忠雄>だから、木村忠雄ではないんだけど、なんか懐かしい~。
子どもの頃に、家の片隅に隠してあった『夫婦生活』の挿絵を盗み見て、興奮したんだよな。
『漫画家 木村忠雄』で検索。
これは大収穫だ~。
『コマ漫画笑劇場 「漫画歴史館」は絶対に必要、「漫画集団物語あれこれ」』を見つけて読み耽ってしまった。
それに『manga-asia』も発見Q
※当ブログは、木村忠夫氏の許可を得て(2022年11月26日ご本人との面談により確認)記事及び画像を掲載しています。
※木村忠夫氏は、1974年〜2013年に日本漫画学院の代表を務められ、日本とアジアの漫画交流と発展に大きく貢献されてきました。
※木村氏の個人Facebookにて投稿した記事及び日本漫画学院発行の「漫画新聞」の記事を、より多くの人々へ知ってもらい、アーカイブを残しておきたいという木村氏ご本人の意向により、当ブログを投稿・管理しています。
※当ブログの管理人は、金沢大学大学院博士課程にてアジアの漫画文化を研究中の蔵田です。記事についてのお問合せはnaomi.krt@gmail.comまで
恐らく、この木村忠夫さんが、の表紙を描いたんじゃないかな。
違っていたら、ごめんなさい。
気が付くと、朝になっていた。
楽しい時間は、「あっ」と言う間に経ってしまうよな。
準備は、わいがや 9 に続く。
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浦山さん
鵜飼です。
一昨日、昨日とイベントがあり、今日は▲▲から来てくれた人を京都を案内しました。
今、新大阪駅で見送ったところです。
明日、対応しますね。
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今晩は。
今日は■■■大学で漫画イベントがあり、それに参加していました。
夕方帰宅し、夕食・風呂をすませ、今まで書庫を物色していました。
少年キングはピンポイントなので探せませんでした。
沼田清の作品はめっけました。
また、デビュー作も表紙・目次・タイトル参照して下さい。
一応画像送ります。
明日は一日留守しますので、あと少し探してみます。
追伸です。
ビクトリー作画会は確か劇画系作家達が4・5人集まって作品を描いていたグループの名称じゃなかったですかね。先日、友人のコレクターの所でチラッと見たような気がします。
山田甲八でした。
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二人とも忙しそうなので、ぼくに付き合わせて申し訳ない気がするんだけれど、出逢ってしまったし、始めてしまったんだから仕方ないよな。
山田さんは、ぼくが「第11話 準備は、わいがや 6」で
<これは、山田さんに書庫で『週刊少年キング』 1967年発行の
㉔は24号か、それとも<1967-6-4>を調べてもらうしかない!!>
と頼んだ「沼田清『怪獣王子』問題」の答えを見つけてくれたみたいだ。
『怪獣王子』は、園田光慶が『週刊少年キング』(1967年1号)から連載を始めたのは記録として残っている。
上段 園田光慶 表面左上に横書きで <1967-6-4> と手書きしてある。
下段 沼田清
これで、沼田清の原画の裏面に書いてあった「沼田清先生の原画 少年キング㉔ 「怪獣王子」より一号」との真実がわかるのだ!
沼田清の裏書が、単に間違っていただけだった!!
半世紀以上も闇の中にあった真実が、いま明らかになったのだ!!!
『影』114号に掲載。
目次に<今集の目次画入選者 住所・氏名 あすなろ劇画研究会>とある。
『スピリット作画会』、『ビクトリー作画会』も漫画好きが集まって同人誌を作ったり、作家集団になったりしたのかもしれないな。
『影』は、目次まで読者からの投稿イラストを掲載していたのだった。
『読者のページ』なんかもあって、読者のカット画を載せていたな。
何回も載って、名前を憶えてしまった人もいたし、どんな人かなと想像しては憧れたものだったな。
表紙に<K・元美津・山森ススム両先生推薦による新進作家 沼田清志の異色作品!!>
とある。
京都の中学校の同級生コンビが、京都出身の後輩を引き上げたことがわかる。
原田さんは、沼田清が日の丸文庫に持ち込んだ19歳でのデビュー作品「手に石」(16ページ)も探し出してくれていたた。
『影・別冊』(1962年)。
なんと、K・元美津・山森ススム・沼田清志と京都派が揃っているじゃないか!
いやぁ、嬉しいな。お宝だ~。
もう、深夜の2時を過ぎているのに、まだまだ眠らないぞ!
沼田清が、沼田清志となっている。いつから沼田清と変えたのかも興味が湧く。
たとえば、太宰治が、デビュー当時、『太宰治虫』だったとしたら、いつ『虫』を名前から外したのかで、文学部の卒論になるよね。
大学の漫画学科の卒論になるんじゃないかな。
だって、ペンネームを変えるには、それなりの理由があるんだもんね。
<表紙画 木村忠雄>とあったので、ついでに調べてみた。
『木村忠雄』で検索すると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で発見!
木村忠雄(きむら・ただお、1921年 - 没年不詳)は、島根県[1]出身のプロ野球選手。
これはちがうだろ!
没年不詳ってのは、さびしいな。
『画家 木村忠雄』で検索。
「木村忠太の世界展」
高松市生まれの木村忠太(Ⅰ917-1987年)は1953年、36歳で渡仏。南仏やパリの風景を描き続けた。風景の中の人物、家、木々、道、自転車、車などを題材に、華やかな色彩、自在な線で独自の世界を描き出した。光の中で風景の記憶が移ろうかのような画風は、「魂の印象派」とも呼ばれる。
『画像』で検索。
夫婦生活 昭和24年10月号 表紙画・寺本忠雄。
画像を拝借しました。
木村毅「坪内逍遥夫妻とバーナード・ショウ夫妻」5頁〉〈座談会「客商売の女たちが語る男の操縦法」8頁〉〈小平義雄ざんげ 淫獣に襲われた人妻 8頁〉〈佐山英太郎「文豪有島武郎と情死した妖艶な人妻波多野秋子夫人」13頁〉、三谷祥介、中村八朗、竹村文祥、西川満、丸木砂土
< 表紙画・寺本忠雄>だから、木村忠雄ではないんだけど、なんか懐かしい~。
子どもの頃に、家の片隅に隠してあった『夫婦生活』の挿絵を盗み見て、興奮したんだよな。
『漫画家 木村忠雄』で検索。
これは大収穫だ~。
『コマ漫画笑劇場 「漫画歴史館」は絶対に必要、「漫画集団物語あれこれ」』を見つけて読み耽ってしまった。
それに『manga-asia』も発見Q
※当ブログは、木村忠夫氏の許可を得て(2022年11月26日ご本人との面談により確認)記事及び画像を掲載しています。
※木村忠夫氏は、1974年〜2013年に日本漫画学院の代表を務められ、日本とアジアの漫画交流と発展に大きく貢献されてきました。
※木村氏の個人Facebookにて投稿した記事及び日本漫画学院発行の「漫画新聞」の記事を、より多くの人々へ知ってもらい、アーカイブを残しておきたいという木村氏ご本人の意向により、当ブログを投稿・管理しています。
※当ブログの管理人は、金沢大学大学院博士課程にてアジアの漫画文化を研究中の蔵田です。記事についてのお問合せはnaomi.krt@gmail.comまで
恐らく、この木村忠夫さんが、の表紙を描いたんじゃないかな。
違っていたら、ごめんなさい。
気が付くと、朝になっていた。
楽しい時間は、「あっ」と言う間に経ってしまうよな。
準備は、わいがや 9 に続く。