第17話 

文字数 1,110文字


 今日は文芸地下の藤田敏八監督特集を観にきた。
『八月の濡れた砂』と『赤い鳥逃げた? 』を上映している。
 文芸座の右側の地下へ行く階段を降りる。
 上映中なので廊下で待つ人が大勢いた。
「このままだと座れないかもしれないから、座席を確保しに行くよ」
 ぼくは三奈を連れて、館内の横のドアから入った。
 場内は暗いので、三奈の手を掴んで一番前まで移動した。
 ここで映画を終わるのを待って空いた席を探す。

 後ろで待っていると、場内から出る人を通してからでないと動けない。
 それに、音は聴こえてしまうけど、映像は観にくいので記憶に残らない。
 映画が終わってスクリーンに監督の名前がクレジットタイトルされると、拍手が沸き起こった。
「異議なし!」の言葉がほうぼうから上がった。
「俳優特集の時はもっと凄いよ。字幕に名前が出た時だけじゃなくて、スクリーンに登場した時とか、危機に陥った時なんかも声援するんだ」
 場内の照明がついて、ぼくは三奈と手を繋いでいたことに気がついた。
 見終わった人たちが出口へ向かう。
 ぼくは、手を離すか繋いだままでいるかを迷っていた。

 地上に出るとまだ明るかった。
 池袋駅までの道も手を繋いでいた。
 三奈から映画の感想を聴き、ぼくも話す。新宿駅までの車内でも、電車を降りたホームでも手を繋いだまま話し続けた。
 次は三奈が会社を辞めた後の平日に、高円寺で会うことにした。
 二時に駅での待ち合わせではなくて、部屋にくることになった。
 それからぼくは総武線、三奈は新宿駅を出て西武新宿線に乗り換えて帰った。

 今日は、ずっと三奈が現れるのを待ちかまえている。
 ぼくの思考の半分はつねに部屋の外にあって、高円寺駅の北口から中通りに向かって歩いてくる三奈を想像していた。
 残りの半分で、映画雑誌の目次を名刺の大きさのカードに書き写していた。

 編集長が小川徹の『映画芸術』、佐藤重臣の『映画評論』や松田政男の『映画批評』などから、好きな批評家や面白い記事を書く筆者を選んで、カードを作っている。
 古本屋で、映画雑誌を買うと、必ずカードを作っていた。
 名前を知らなかった筆者名を、このカードの枚数が増えることで覚えていくことは楽しいことだった。

 これらの映画雑誌は正統派の『キネマ旬報』や『シナリオ』が取り上げない前衛的な作品を多く取り上げて評価している。
 ぼくは三誌の中で『映画芸術』が好きだ。
 この雑誌の執筆者カードには、『三島由紀夫』『武田泰淳』『吉本隆明』『埴谷雄高』等、文学者や評論家の名前がある。作品の評価を巡る紙上論争も面白い。
 とにかく、政治性や取り上げる作品への愛が過激なのだ。

 ドアをノックする音で手を止めた。

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