第31話

文字数 959文字


 後ろから「三奈ちゃん!」と大きな声で呼びとめられた。
 振り返ると富田が手招きをしている。
 ぼくは思わず三奈の手を握った。
 富田がもう一度三奈の名前を呼んだ。
「美沙子さんもいるし、河辺さんたちもいるから行ってくる」
 三奈はぼくが掴んだ手をそっと外して、富田のほうへ行った。

 手招きした富田が、三奈のほうに顔を近づけて耳元でささやいている。
 ぼくは、三奈を連れ戻そうと歩きだした。
 しかし、挑むような富田の視線と目が合うと足が止まった。

 小走りに戻ってきた三奈は紙袋を持っていた。
「美沙子さんに、渡してって頼まれたの」
 受け取ると、中を見ないでもスニーカーだとわかった。
「富田さんから、『あなたが逃げたことは許す』と伝えて欲しいと頼まれたの。
「……」
「逃げたって、何があったの?」
「……話せない」
 富田に頼まれて、美沙子さんと三人でセックスをすることから逃げたことを、どう言えばいいのか……。
「あなたがわからない。どうして隠すのよ」 
 三奈はそう言うと黙ってしまった。
 河辺さんに先に帰るとことわって、ぼくたちは、表通りに面した喫茶店に入った。
 椅子に座った三奈の目が話してと促す。
 ぼくは説明を試みようとするけど言葉が出てこない。
 どう伝えればいいのか。軽い調子でなら話せるかも。

「村上龍が芥川賞を取ってから、富田がちょっとおかしくなったことは感じているだろ」
「前から変わっていたから、特に思っていないけど」
「美沙子さんの家でさ」
 ぼくが言い淀んでいると、三奈がきっぱりと言った」
「この前読んだ小説のモデルは、美沙子さんでしょ」
「次の小説を書くために。一緒にセックスをしようと誘われたんだ」
 口に出してしまった。
「何を言ってるのか、わかんない」
 そう言って唇を歪ませた。それは三奈が、今まで見せたことのない表情だった。
「だから、富田は小説を書くためなら、何でもするんだ」
「あなたが断ったことを、富田さんが逃げたといってるの?」
「そうだと思う」
 三奈にわかってもらえたと思った。
「あなたは何から逃げたの?」
「……」
 意外な質問に驚いてしまった。
 いったい、ぼくは何から逃げたのだろう。
 三奈は目の前にいるのに遠くに感じる。
 息を詰めて三奈を見ていた。まるで息をしたら三奈が消えてしまうようで、ぼくは呼吸が出来なかった。


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