第32話

文字数 922文字


 三奈が姿を見せなくなった。
 新宿の出版取次会社に就職したと言っていたので、忙しいのかもしれない。
 マージャンを打ちながら頭の中で、三奈のことを考えて、ほんの一瞬の迷いから、当たり牌を振り込んでしまった。
 役満の点棒を渡しながら、ふたたび三奈のことを思った。
 三奈とのあいだに奇妙な距離は感じていたことは確かだった。

 七月が終わろうとしていた最後の日曜日、ぼくは三奈のアパートを訪ねた。
 ドアをノックしたけど、部屋の中に人の動く気配はなかった。
 リックからノートとボールペンを出して、「連絡して欲しい。浦山」と書いて、ページを破った。
 その紙を折りたたんでドアに挟んだ。

 駅前の石のベンチに腰をかけて、太陽が沈んでいく空を見上げる。
 陽射しが残る石は暖かかった。
 目の前を行き交うさまざまな人々たちをぼんやりと眺めていた。
 どこかから『およげ!たいやきくん』の歌が聴こえてくる。
 ぼくは両手で耳を塞いだ。

 ずいぶん時間を潰してから、もう一度部屋の前に行った。
 挟んだ紙は消えていたので、ノックをしたけど出てこない。
 ドアに耳を近づけて、中の様子を窺がうが、人のいる気配はなかった。
 一度戻ってから、また出かけたのだと思った。
 
 駅まで行って、再び石のベンチに腰を落とす。
 石は冷たかった。
 拒否られているのかもしれない。
 ぼくが、三奈をひどく傷つけてしまったのだろうか……。
 何かが変わってしまって、三奈の人生にぼくの場所が閉じてしまったのか。
 もう入ることは出来ないのか。
 もう一度、最初から新しくやり直すことはできないのだろうか。
 石の冷たさが、身体の中に広がってくる。

 気が付くと世界は暗闇に閉ざされていた。
 足はどうしても三奈のアパートへ向かう。
 二階の三奈の部屋に灯りがついていた。
 窓を見上げながら思う。
 いま、部屋を訪ねると居留守を使うことは出来ない。
 それは、三奈を追い詰めることになるんじゃないか……。
 メモが届いたことは確認した。
 後は三奈がどうしたいかの問題で、押しかけて会ったところでどうしようもないんじゃないか……。

 ぼくは通りから三奈の部屋を見上げて、決着をつけなければならないと思いながら、そこに立ち続けていた。


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