第26話  ぼくと咲雪のいるところ。 4 

文字数 1,012文字


 しばらくすると咲雪さんは眠りに落ちた。
 悪い夢でも見ているのか、眉をしかめている。
 目を覚ますと、いきなり憎まれ口をたたいた。
「いままで寝たり愛したりした男が出て来たの」
「それにしては、楽しそうじゃなかったよ」
「愛は一瞬しか存在しないのよ。もう、帰っていいよ」
 咲雪さんが、お母さんに迎えを頼んだと言った。
「いつでも咲雪さんのいちばん近くに居たいんだ」
「ありがとう。でも、学校の先生が黒板に書くことを書き写していれば、まっとうな人生を送れるって考えるひとなのよ。母に色々と説明しなきゃならなくなるから、あたしが、迷惑なのよ」
 そうまで言われて残ってることは出来なかった。

 病院の玄関先で、和服姿の上品なおばさんがタクシーから降りて来るのを見た。
 もしかして、あの人が咲雪さんのお母さんかなと想像した。
 もう一度、ベッドまで戻ろうかと思ったけど、その勇気は無かった。

 いつの間にか、ホワイトボードから「咲雪」のネームプレートは消えていた。
 草津さんから説明はない。
 ぼくも訊かなかった。
 あれから、ぼくは何度か咲雪さんのアパートまで行った。深夜にその窓に灯りがともることは無かった。

 十月三十一日、今夜のテアトル東京の最終興業に行けば、咲雪さんに逢えるだろう。
 しかし、徹夜が続いていた。
 また三人の先生の締め切りが重なった。
 今回も藤井さんの単発、三〇ページ読み切り作品を優先で終わらせた。
 小山さんの二十四ページも終わって、草津さんの三十二ページが落ちそうだ。
 二ヶ月前にベタ塗りしか出来なかったぼくも、それなりの戦力になっている。

 ぼくは午後の八時を指している時計を気にしながら、コマに効果線を描いていた。
 このまま朝までペンを握っていれば迷うことはない。
 気持ちも落ち着く。

 電話の呼び出し音が鳴った。
 完成した原稿にネームを貼り付けていた担当の編集者が顔を上げた。
 ぼくも手を止めたくないけど、仕方なく出る。
「今夜、テアトル東京のオールナイトだよ」
 咲雪さんの声が聴こえてきた。
「約束を……覚えていたんだね」
 声をひそめた。
「地下鉄銀座線、京橋駅の一番出口で待ってるから」
 電話が切れても、しばらく受話器を見ていた。
 編集者が「オレに電話じゃなかったのか?」と訊く。
 手を横に振って、違うと応えた。
 イスに座ってペンを握る。

 咲雪さんの気まぐれに付き合うと、全てを失うことになる。
 しかし、声を聴いてしまった。


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