第10話  ぼくのいるところ。 10

文字数 1,065文字


 丸刈りイベントは、あっという間に終わった。
「後は理容店に行って、きれいに揃えてもらえばいいよ」
 草津さんが散髪代として千円札を二枚出した。
「自分で切っても、これを返さなくていいですか?」
「いいよ」
 草津さんはヒャヒャと笑った。
「あたしが、事務所でツルツルに剃ってあげるわ」
 横から咲雪さんが口を出す。
「いや、要らないです」
「分かったわ。うたはると」
 咲雪さんは、麦わら帽子をぼくの頭にちょこんと置いた。
「試合が終わった後は、みんなでサウナに入ってさっぱりするんだ」
 草津さんに入場料は出すからと誘われた。でも、この頭では行く気がしない。
 麦わら帽子を持ち上げて頭を撫ぜる。帽子を返そうと、咲雪さんを追いかけたけど、本居先生の外車に乗って行ってしまった。

 中村橋駅近くで、ワゴン車を降ろしてもらった。
『カレーの店、エル』の建物を見るだけで、胃袋をぎゅっと掴まれる。
 ポケットの二千円を握る。スーパーナカムラ屋から買い物袋を下げたおばさんが出てきた。
 店内放送の声がぼくを誘惑する。早足で通り過ぎると、そのままランニングでマリネに戻った。

 さっそく洗面台の鏡に向かう。
 頭は頭は濃淡のつぎはぎで、パッチワーク作品が乗っかっているようだ。
 ヒゲをハサミで切り落とした。短くしたヒゲに石鹸を塗ってカッターナイフで慎重に剃った。  
 カミソリと刃先の鋭さが違うので、ゾリゾリと音がするだけでうまく剃れなかった。
 シャワーで頭を洗う。髪の毛が無くなっただけなのに、なんだか心細くなっている。
 ぼくの役目が終わったからなのだろうか?

 キッチンにいき、米を研いで炊飯器をセットする。炊き上がる間に、洗濯機を回して、バスルームとトイレを磨く。
 身体を動かしていると落ち着いて来た。
 今日は『こってり塩ラーメン』にする。腹が満たされると、幸せな気分も戻って来た。
 ソファーに寝転んで、ホワイトボードのネームプレートを読む。『本居』『草津』『小山』『藤井』『黒川』『前畑』『矢野』『広島』『吉田』『咲雪』印刷してある文字を透明なテープで貼ってある。
『宇多』は細くて汚い字だ。ボード用のペンで書いたので薄い。
 どうして咲雪さんだけ、苗字じゃなくて名前なんだろう。
 つまらないことを考える。みんなからそう呼ばれているからなんだろうな。
 アバウトなんだ。だから、ぼくだってこうしてここに居ることができる。
 履歴書も出していないぼくをひとりにするなんて、他の世界では有り得ないだろう。
 みんながいない間に、仕事場を掃除する。居心地のいい世界をきれいにした。


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