第43話 これは これは これは 28 『マリネエンプラ』マネージャ

文字数 1,754文字


 井上 良さんという人がマネージャだったんだけど、とにかく有能なひとだったんだ。
 なにしろ、ぼくに『週刊プレイボーイ』のイラストの仕事を取ってきたんだもんな。





 ぼくがどんな絵を描くか知らなかったとおもうんだけどね。
 頑張って描いたんだけど、いま見ても下手な絵だ。
 編集者がよく採用したと思うよ。





 だから、ぼくは漫画より、イラストデビューのほうが早いんだ。

 そのほかに、レタリングの仕事とか、細々としたものをいろいろ取ってきてくれたんだ。
 でも、 いわゆる固定給だったので、それらはぼくの収入には反映されなかった~。





 牛次郎さんとはバンド仲間だったみたいなんだ。
 DJ風の喋り方でスマートなんだ。
 奥さんは、元歌手だったと聞いたことがある。
 ぼくは、どこか危ない感じがして、なんだか近寄りがたかったんだよな。

 ギターが上手くて、どんな曲も弾けるみたいで、牛次郎さんの家で忘年会をしたときに、みんなが歌う曲の伴奏をしたんだ。
 ぼくは、あがた森魚「乙女の儚夢(ろまん)」を熱。。





「変な歌をうたうんだな」
 半ば呆れたようにいっていたよ。

 ぼくは、この歌を深夜、事務所から牛次郎さんの2階の部屋へ帰る時に、寝静まった練馬の住宅街を大声でうたっていたんだ。1人の時も大勢の時もね。
 中野くんが一緒に帰るときは、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ」と間奏を口ずさんでくれたよ。


 1975年3月5日のことなんだけど、夜、ラジオで、アパートの外から、毎晩決まった時間に女性の歌声が聴こえてくるという物語が始まったんだ。
 その歌声に惹かれた主人公が……。
 あれ、こんな風に物語を展開することができるのかと感心しながら聴いていたんだ。
 調べてみると、午後8時からNHKで放映された『落下傘の青春』
 気に入ったので、原作が山川方夫の『軍国歌謡集』ということだけは頭に残っていたんだ。





 数日後、高円寺のガード下にある古本屋で『山川方夫全集 全5巻』江藤淳他編 冬樹社(1974-1975 ・昭和49-50年 )を発見してしまったんだ。 
 1万円近くするんだけど、思い切って買ったんだよ。
 食事の回数を減らしても、活字を求めていた時期だったんだよな。
 こうしてぼくは山川方夫に出逢った。
 この全集は今も手元にあるので、50年近く親しい友だちで居てくれているんだ。





 今は『青空文庫』で読むことも出来るし、『 YouTube 軍国歌謡集(山川方夫)』で聴くこともできる。

 https://www.youtube.com/watch?v=FYJT3RSEePQ

 便利な時代になったなぁ。

『山川方夫(やまかわ・まさお)』
 1930年(昭和5年)~1965年(昭和40年)。東京都生まれ。
 慶應義塾大学仏文科卒。父は日本画家山川秀峰。
「三田文学」を編集し、その後自らも筆を執り『日々の死』『その一年』『海岸公園』などの短編集を発表。繊細で都会的な作風によって、敗戦後の青春と死の不条理を自伝的に描いた。『お守り』の翻訳が米「LIFE」誌に掲載されるなど将来を嘱望されたが、交通事故により34歳で死去。没後『愛のごとく』などが出版された。
 ショートショートでも活躍し、『お守り』のほか、国語教科書に採用されることの多い『夏の葬列』がとりわけ知られている。

 1975年の正月のことなんだけど、牛次郎さん家族が旅行へいくということで、留守番を頼まれたんだ。
 2階のぼくの部屋は外階段で出入りができるので、ぼくにカギを預けなくてもいいのになと思ったんだけど、留守番を引き受けたんだ。
 その時に、「友だちを呼んでもいいですか?」と訊いて了解をしてもらったので、高円寺に住んでいる漫画同人誌仲間を呼び集めて、年末からマージャンをしたんだよ。

 元旦の朝に、井上さんが玄関のドアに飾るしめ飾りを持ってきて、1階で雑魚寝をしていたぼくたちを起こして叱りつけたんだ。





 こっちは牛次郎さんにはOKをもらっているし、井上さんに文句をいわれる筋合いはないと強気だったけど、みんなはシラケて帰ってしまったんだ。
 あれれ、ぼくの中でのバンドマンのイメージは、いいかげんで融通のきく人なんだけど、けっこう律儀な人だったんだなと思ったよ。
 

 これは これは これは 29 に続く。
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