第4話
文字数 1,622文字
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高円寺駅北口から徒歩5分、中通り商店街の近くにある築年数不明のちょっと変わったアパートだった。
中通りに面した不動産会社に飛び込んで、陽当たりとか、間取りとかは全く気にしないので、寝ることができるだけでいいから家賃が一番安い部屋をと頼んだ。
壁があるというのが唯一の条件だった。
というのは、その時、私が住んでいたのは、大家さんが息子の勉強部屋として庭に建てた六畳の部屋を、ベニヤ板で区切った三畳に住んでいたからだ。
隣人は大学生で、夜の八時になると、音出し禁止でラジオを聴くことや友人を泊めることもできなかった。
水道はなくて、大家さんが毎朝バケツにいれた水を部屋の前に置いてくれた。
高円寺には同人誌の仲間が住んでいたので、部屋は寝るだけの場所だとわり切っていた。
当時はアルバイトを集中的にこなして、数カ月分の生活費を貯めると、漫画を書くためという名目で街を散策するという生活を繰り返していた。
私の要望を黙ってきいていたのは、ネームプレートに中井と刻印してある六十歳は過ぎていそうな社員だった。
「会社(うち)が管理していて一般には紹介していない物件だけど、家賃が九千円の部屋があるよ。三畳一間に台所も付いてる」
「そこに決めます」
破格に安かったので、即決した。
「まぁ、部屋を見てから決めればいいさ」
中居さんは優しそうな目付きで言った。
驚いたことにアパートは、不動産会社の裏にあると言う。
中井さんに案内されて、隣の建物の石塀との間の狭い通路を不動産会社の三カ所の窓を通り、奥にある二階建てのアパートへ行った。
この建物は倒産した会社の男子寮として利用されていたらしい。
入るとすぐに共同トイレがあり、強烈な消毒液の匂いがした。
管理をしている不動産会社が、営業成績の悪い社員の罰として、毎朝掃除をさせていたということは後で知った。
片側に十部屋並んでいて、一階でも二階でも選べるというので、迷わず一階を選んだ。
地震や火事とかがあった場合、外に逃げ出しやすいと考えたのだ。それに、二階に上がるコンクリートの階段の傾斜が鋭角になっていて、足を踏み外すと大怪我をする危険性もあると思った。
五・六・七号室が空いているというので、躊躇しないで六号室を選んだ。
両隣が空室ならどんなに音を立てても大丈夫だ。
そのころは四人集まるとマージャンをしていた。
夜になると隣室からのクレームが多く、マージャン牌の音を響かないようにマージャン台に毛布を被せて、その上でする。
声もひそめるけど、白熱すると台に牌を叩きつける音も「リーチ!」「ロン!」の声も大きくなる。
部屋を追い出されて、深夜、マージャン台と牌を持って別の部屋に移動することも多かった。
ここだと安心してマージャンが出来る。
引き戸を開けると、土間に水道がありガスコンロを置くスペースもあった。台所の裏が半畳ぐらいの押し入れになっていた。
天井の隅にクモが巣を張っていた。
戸口から入ってくる微(かす)かな風をうけて、ほんの少しだけ揺れている。
窓を開けると壁が立ちはだかり、陽当たりは望めない。見上げると細長い空、下を見るとゴミが散乱していた。二階の窓から投げ捨てているようだ。。
窓際に行くと畳が少し沈んだ気がした。
「ここ、へこみますよ」
畳がペコペコするので文句を言った。
「住めるよ」
「重いものを置かなければ大丈夫かな」
と言ってから、値段の交渉をした。
「八千五百円でいいよ」
中井さんはあっさりと値下げに応じた。
三畳ひと間、台所付き。共同トイレ。陽当たり皆無。
私はこのアパートに住み、高円寺の街を室内履きのスリッパで闊歩していた。
高円寺は私にとって出逢いの街であり、別離の街だった。
一九七六年、私が二十四歳で富田俊一が二十一歳。そして、豊橋三奈は二十歳だった。
よく覚えているのは、その年の五月に村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で衝撃的なデビューをしたからだ。
高円寺駅北口から徒歩5分、中通り商店街の近くにある築年数不明のちょっと変わったアパートだった。
中通りに面した不動産会社に飛び込んで、陽当たりとか、間取りとかは全く気にしないので、寝ることができるだけでいいから家賃が一番安い部屋をと頼んだ。
壁があるというのが唯一の条件だった。
というのは、その時、私が住んでいたのは、大家さんが息子の勉強部屋として庭に建てた六畳の部屋を、ベニヤ板で区切った三畳に住んでいたからだ。
隣人は大学生で、夜の八時になると、音出し禁止でラジオを聴くことや友人を泊めることもできなかった。
水道はなくて、大家さんが毎朝バケツにいれた水を部屋の前に置いてくれた。
高円寺には同人誌の仲間が住んでいたので、部屋は寝るだけの場所だとわり切っていた。
当時はアルバイトを集中的にこなして、数カ月分の生活費を貯めると、漫画を書くためという名目で街を散策するという生活を繰り返していた。
私の要望を黙ってきいていたのは、ネームプレートに中井と刻印してある六十歳は過ぎていそうな社員だった。
「会社(うち)が管理していて一般には紹介していない物件だけど、家賃が九千円の部屋があるよ。三畳一間に台所も付いてる」
「そこに決めます」
破格に安かったので、即決した。
「まぁ、部屋を見てから決めればいいさ」
中居さんは優しそうな目付きで言った。
驚いたことにアパートは、不動産会社の裏にあると言う。
中井さんに案内されて、隣の建物の石塀との間の狭い通路を不動産会社の三カ所の窓を通り、奥にある二階建てのアパートへ行った。
この建物は倒産した会社の男子寮として利用されていたらしい。
入るとすぐに共同トイレがあり、強烈な消毒液の匂いがした。
管理をしている不動産会社が、営業成績の悪い社員の罰として、毎朝掃除をさせていたということは後で知った。
片側に十部屋並んでいて、一階でも二階でも選べるというので、迷わず一階を選んだ。
地震や火事とかがあった場合、外に逃げ出しやすいと考えたのだ。それに、二階に上がるコンクリートの階段の傾斜が鋭角になっていて、足を踏み外すと大怪我をする危険性もあると思った。
五・六・七号室が空いているというので、躊躇しないで六号室を選んだ。
両隣が空室ならどんなに音を立てても大丈夫だ。
そのころは四人集まるとマージャンをしていた。
夜になると隣室からのクレームが多く、マージャン牌の音を響かないようにマージャン台に毛布を被せて、その上でする。
声もひそめるけど、白熱すると台に牌を叩きつける音も「リーチ!」「ロン!」の声も大きくなる。
部屋を追い出されて、深夜、マージャン台と牌を持って別の部屋に移動することも多かった。
ここだと安心してマージャンが出来る。
引き戸を開けると、土間に水道がありガスコンロを置くスペースもあった。台所の裏が半畳ぐらいの押し入れになっていた。
天井の隅にクモが巣を張っていた。
戸口から入ってくる微(かす)かな風をうけて、ほんの少しだけ揺れている。
窓を開けると壁が立ちはだかり、陽当たりは望めない。見上げると細長い空、下を見るとゴミが散乱していた。二階の窓から投げ捨てているようだ。。
窓際に行くと畳が少し沈んだ気がした。
「ここ、へこみますよ」
畳がペコペコするので文句を言った。
「住めるよ」
「重いものを置かなければ大丈夫かな」
と言ってから、値段の交渉をした。
「八千五百円でいいよ」
中井さんはあっさりと値下げに応じた。
三畳ひと間、台所付き。共同トイレ。陽当たり皆無。
私はこのアパートに住み、高円寺の街を室内履きのスリッパで闊歩していた。
高円寺は私にとって出逢いの街であり、別離の街だった。
一九七六年、私が二十四歳で富田俊一が二十一歳。そして、豊橋三奈は二十歳だった。
よく覚えているのは、その年の五月に村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で衝撃的なデビューをしたからだ。