48 パシフィックな溟海
文字数 4,688文字
伊良賀紗助が椅子に腰かけながら言う。
「転院だ。ようやくリハビリが始まる」
清見涼が答える。
沈黙が流れる。ベッドが六床ある大部屋に移ったから、内密な話がしづらい。隣の五十代男性が空咳をする。
「撃てますかね」
伊良賀が小声で尋ねる。
「誰が相生を殺せる?」
清見も声を低くする。
「ましてや夏目だ。彼女は代案さえも躊躇しまくる。逃げ道を探しまくる。それでも最後に、すべての責任を抱えてボタンを押す。すべての責任を魔女と妹に押しつけるために、その二人を狙う。――お見舞いでいただいたものの消費期限が近づいているから食べてくれ。竹生堂の品ではない」
伊良賀は勧められた紙箱を開ける。大福を一口頬張る……。妹が倒される。本人の行為を揉み消すためだろうと相生智太が認めるはずない。
内輪もめの最後にふさわしい、陰惨な戦いが待っている。でも俺に阻止する力はない。
「俺は戦いに戻らなかったことを後悔しだしている」
伊良賀が大福をペットボトルのお茶で流し込んだあとに言う。
「今さらだから言えると分かっている。俺はカスになった。だから新しいグリーンが現れた」
清見涼は否定もせずに。
「私は逆だ。戦いから抜けだせて安堵している。だが、みんなが心配だ。もう原理主義はいないとしても。……とりわけ一人を心配している」
大福を半分に割りながら言う。
「もとの清見涼以上に戻ること。それが私のこれからの戦いだ。それが叶ったら、陸奥と交際したい」
「冗談でしょ? ……コメントは控えときますね。きれいなのは間違いないとだけ言っときます」
「そうだろ? 竹生のおかげで私にチャンスがまわってきた。いまのところライバルはいないだろうから、焦らずに強い清見涼に戻る」
「はは……」
伊良賀は茶化そうとした自分に気づく。そうだったよな。俺は楽しく生きていた。
「そしたら俺も焦らず生きますわ。もとの伊良賀紗助に戻れるように」
伊良賀が卑屈でなく笑う。
****
「お兄ちゃん! いつまで寝ているの!」
妹が怒っている。
でもお兄ちゃんは、仙台で戦って広島まで行って都心にジャージを取りに帰って琵琶湖に行って、また千代田区に帰ってスパコン壊して、瀬戸内の島に行って胸をえぐられて捕まって、琵琶湖に戻って沖縄行って、琵琶湖に戻って笹塚に行って中野区行って石和経由で松本行って、豊橋で戦って我が家まで戻ってから名古屋で戦ったんだよ。しかも一緒にラッコを見た人とだよ。だからもう少し眠らせて……。
「桧?」とがばり起きあがる。俺は空の上だった。
メイド服の妹が腰に手を当てて俺をにらんでいる。その後ろで岩飛がこそこそしている。黒いビキニ姿。なぜに?
「私は毛皮にならせていただいております」
このタヌキじゃなくてアナグマは湖佳……。かわいい吐息がした。すぐ横で千由奈が眠っている――精霊ではないか。だったら死んでもパーキングエリアだ。まだ戦うんだ……。
えーと。
「じつは俺、ずっと夢を見ていたとか。花鳥風樹とともに戦って、俺と千由奈がやられた帰り道。で、よくない夢をずっと見せられていた。……仙台あたりから」
蔵王から夢だったら更にいい。そうでないことは分かるけど、そうであって欲しい。
俺をにらむ桧は青白く光っている。かわいい。にらんでいるつもりでも、かわいすぎる。
「お兄ちゃん! 寝ぼけないの! あと三分で到着だからしゃんとしなさい!」
「はい?」
「桧殿は兄上を赦されたのですぞ。またも理不尽に倒された大司祭長も、本部を倒すことと引き換えに、あなたも雪も赤い月も芹澤殿も赦されました。岩飛殿は当初から無罪でございます」
「はい?」
「私も陽南ちゃんも殴られてないから、がちっぽいっすよ。しかも、本部の残りを倒せば智太さんを智太さんに戻してもらえる
巨大なイワトビペンギンが現れる。
スカシバレッドである俺は、居場所を再確認する。たとえが貧弱かつワンパターンだが、我が家の敷地面積ほどのエアサーフィンボード。ミカヅキリムジンよりずっと大きい。青くて真円。
その下を覗く。雲海だ。なのに寒くない。
「これぞローリエブルーの愛機であるマンゲツですな。今夜がデビューです。空調システムがありますぞ。おお快適な乗り心地なうえに、ああ音速を越えまする」
そう言って、穴熊パックが透明になる。
「千由奈、私だよ。そろそろ起きようか」
ハウンドピンクは目を開けるなり南極トビーと目が合い悲鳴をあげる。花筏をぶつけられてトビーが落ちかける。
ハウンドは事情を聴かされて、シニカルな笑みを浮かべる。
「あの方はホットレッドに続けて殺されて方向転換した。後継者候補に智太さんが浮上したな」
「それはない。でも、あの方の予言は狂ってしまった」
見えないパックが即答する。
「最初から狂っていた。湖佳も認め……その話はいいや。ともかく、智太さんの姿に戻せるならば協力するに決まっている。嘘だったら、それ相応の仕打ちを与えるだけだ」
ハウンドが俺へと決意の目を向ける――。
コールドレッドでもさすがに老人を三度も倒せないし、俺たちの勝利の結末がこれなのかな。宗像を倒して地味男に戻ったら面々にお詫び……。
「キラメキは?」
「モスプレイに返した! 代わりにお兄ちゃんと千由奈を連れてきた!」
俺が寝ているあいだに何があったか分からないが、桧が言うならば事実だろう。
「ワタリガラスはどうしている?」
ハウンドピンクがさらに尋ねる。
「あの人は虎。機会を忍耐強く待っている」
パックが姿を見せぬまま言う。
「あと二十秒で到着。ローリエブルーは赦すまじ悪を照らしだす。宗像は終わり」
「兄はまだ生きているかもしれない。人質にされるかもしれない」
ハウンドピンクが立ち上がる。
「だけども……」
「千由奈は心配しないで。私と焼石さんで、それも想定して作戦を立てた」
「ありがとう。……原理主義が間違いなくいる。宗像はそいつに諏訪や熱田を食べさせた」
確定だ。宗像こそ悪だ。櫛引と並ぶ悪だ。いまだ状況がよく分からないけど、彼女たちとともに戦わないとならない。
スカシバレッドから痛みが消えている。桧が寝ている俺のライフ値を回復してくれたのだろう……。
「夢月は? 柚香は?」念のため聞いておく。
「全員無事! あの人たちはもう戦わない」
さすが桧。それこそ俺が望んでいたことだ。妹だって戦わしたくないけど、俺たちは練馬が誇る兄妹だ。フィナーレにケツを向けるはずない。
「原理主義は花鳥風樹で倒せ」
スカシバレッドも立ち上がる。
「俺が宗像を倒す」
「お兄ちゃんは後ろでじっとしていなさい!」
また妹に怒られる。
「到着したよ。私が突撃するからね。お兄ちゃんはいるだけ!」
マンゲツが60度に勾配する。雲海を突き抜ける。暗い海。小型フェリーにぐんぐんと近づく。
桧の手に青龍偃月刀が現れる。
「宗像の古いコードネームは“フライングオークローズナイト”。奴の特性は“
パックが教えてくれるけど、宗像は特性コレクターか? だとしても、あいつは俺と穂村に怯えていた。レベルなど目安にすらならない。悪は正義の赤に消される
「ローリエブルーといると私の技はかき消される。こんなことじゃ、自分のレベルをあげておけばよかった」
ハウンドピンクがぼやいている。
とかしているうちに、フェリーが目前に近づいた。俺は状況把握もできぬままだが、マンゲツは速度を緩めることなく甲板に着陸、しない! 突き抜けた!
瞬間、やつれた少年と目が合った。
暗い海中。今度はウミガメと目が合った。この巨大エアサーフィンボードは結界に包まれていたのか。
「初めてだから失敗だってする! マンゲツ浮上しなさい!」
青白いマンゲツが暗い海面に浮かぶ。その先でフェリーが沈んでいく。
「兄がいた!」
俺は飛び出そうとして結界に激突する。
「ハウンド消せ!」
「私ではない」
「だったら私? マンゲツ、結界を解除しなさい!」
「花筏! ……消えたな。トビー行くぞ!」
「了解っす!」
ハウンドピンクを乗せたペンギンが海面を進む。こっちだよと、パックが導く声がした。
スカシバレッドとローリエブルーが残る。見つめ合って、ローリエブルーは目を逸らす。
「俺は戦う。自分を自力で取り戻すために」
スカシバレッドである兄は宣言する。
「桧にこそ戦ってほしくない。後ろで見ていてほしい」
ローリエブルーが顔を戻す。
「そういう言葉はお兄ちゃんの姿になってから口にしなさい!」
妹の論理が炸裂する。
「だったら一緒に来なさい!」
手はつながないけど。相生姉妹が並んで飛ぶ。
大破したフェリーが海上に浮かびあがった。
甲板には、二本足で立つピンク色の巨大カピバラ。蛇の尻尾。トビウオの背びれ。腕には少年がぐったりと抱えられていた。
「あの子が千由奈のお兄さんだ。ほんとに精霊の盾しているの?」
ローリエブルーが言う。なんてことだ。兄妹揃って判別できないのか……。
ぞくり
俺はローリエブルーである桧を見る。強い目でカピバラをにらんでいる。気づいていない? 邪悪すぎる気配を。ハデスブラックどころではない気配を。
「コールドレッドだけが気づいたか。あの子には
ピンク色のカピバラがほくそ笑む。
「特性は“海竜”と“黒洞”と“虚”。お前と竹生を喰らえば最後の原理主義だ」
海面を三十メートルもあるモササウルスが跳ねる。巨大な目が相生姉妹を見る。
「ブラックホウルスよ。赤い女と青い女を食べることを認める」
ピンクのカピバラが命じる。
モササウルスが巨大な口を向ける。口を開ける。真っ暗な渦が見えた。スカシバレッドとローリエブルーが吸いこまれていく――。
妹を食べるなどとは口にするな!
「桧は逃げろ」
相生智太が相生桧を蹴り飛ばす。吸引する渦から逃れさせる。
「俺だけ食え!」
スカシバレッドの両手にソードが現れる。暗渠へとみずから飛びこみ、吐きだされる。
「あぶねえ、あぶねえ。相討ちする気だったな」
巨大な海竜が笑った。
「そんな策に乗らないぜ。じわじわと弱らせるだけだ」
「お兄ちゃん!」
ローリエブルーが飛んでくる。
「特上の餌だ」
海竜がメイド姿の桧へと欲望を向ける。
……やめろ。
妹に欲情するな! 俺ですら……俺ですらなのに!
「桧は来るな! 宗像を倒せ! モササウルスは私を追いなさい」
スカシバレッドはお尻を向ける。
「そんなマニアックな名前を知っているとは……食べたくなった」
感心した海竜が追ってくる。
スカシバレッドは海原を低く飛ぶ。みんなから離すために六十秒だけ逃げる。その後は死闘だ。最後の原理主義同士の陰惨なる殺し合いだ。俺は夢月を思う。あどけない笑み。妖精の笑み。
いつまでも女の姿ならば、ここで相討ちしてもいいかなと思う。そうすれば、この化け物は夢月を襲えない。
でも夢月の笑み。邪気なき笑顔。
生き延びて相生智太に戻るのだろ。そのために約束など何度でも反故にしろ。また血の色の龍と化せ。
「おいおい、お前は滅法強くなれるな。マジで共倒れだな」
海竜が背後で笑う。
「お前を食うために授かるぜ。青いのも食うために、宗像も食うために授かるぜ。なにより俺を作ってくれた櫛引博士のために、俺は原理を授かるぜ。どうせ俺は人じゃないからな。――原理を我が身に」