30 沈む太陽と昇る月
文字数 3,295文字
相生桧は努めてぞんざいに尋ねる。海が見える白亜の建物の二階。彼女は拘束されていない。
「ずいぶん良くなりました。……やはり年齢には勝てないようです。精神エナジーも老いていきます」
解放的な広い部屋で、百夜目鬼がベッドから答える。化粧をしていないやつれた顔。でも赤みが戻ったかな……。
桧は彼女が上半身を起こすのを手伝う。朝食を乗せたベッドテーブルを前に置く。
「パックはどうしましたか?」老女に聞かれる。
「湖佳と呼んでください」
「そうでしたね。湖佳はどうしましたか?」
「買い出しです。……あなたが歩けるようになったら私は帰ります。湖佳も連れていきます。だから早く元気になってください」
桧は生身の魔女をにらむ。いつまでも沖縄になんかいられない。でも……この人は寝ているとちいさくて細い。
「配下は一人だけになりました。聖戦を私の手で続けないとなりません。すこしだけゆっくりさせてください」
そしてあと二回殺されるというのか。見捨てられないけど、警察なりに連絡したい。なのに、この人の目を見ると何もできない。
米軍機が轟音をたてて飛んでいく。
「レイヴンレッドから連絡はないのですか?」
桧からも質問する。
「それと、スープだけでも温かいうちに飲んでください」
「ありがとう。あなたの手作りスープならば冷めてもおいしい。……残念ですが、焼石はまだハウンドピンクの所在を見つけていません」
「千由奈と呼びなさい!」
「千由奈を見つけてどうするの? 彼女はこの方に従わない。あなたの兄を信奉している」
しわがれ声。湖佳が戻ってきた。中年男性に変げしたままで、閉じたドアに寄りかかる。
「その姿だと話しづらいよ。私はあの子と一緒にお兄ちゃんのもとに帰る。それだけったらそれだけ!」
「本心を言ってよ」
湖佳が黒ビキニに戻りながら言う。
「ここに居続けるのがあなたの本当の心」
言い返したいけど沈黙してしまう。龍になったお兄ちゃんに百夜目鬼は殺されて、その際に兄の思念と重なり合い、私を見つけた。そして最大の悪であるテロリストを倒した私を、我が手に呼び寄せた。ぼろぼろぼろの状態で。
「南国の冬近き午前。真実を語るのにふさわしいかもしれません。二人とも私の言葉を聞いてくれますか?」
魔女が言う。湖佳はうなずく。桧はうなずかない。
「三つです。まずひとつは、私はおろかでした。人々を救うために精霊の力が目覚めることを真理とした。そのために犠牲をいとわないことを原理とした。
……しかし人の原理は欲望。おのれはいつしか物欲におぼれました。裏切り者が付け入りました。あなたの兄や偽の月など、多くの人を巻き込んだ醜い争いを起こしてしまいました」
「それも導きではないでしょうか」
つなぎ服に戻った湖佳が言う。
魔女は微笑しながら首を横に振る。
「太陽の光は強すぎます。おのれさえも焼き尽くす。それだけのことです。
……これから人々は暗く辛い時代を生きることになります。その暗黒を照らすのは月。人々を導くのは相生桧。それを輝かすために私は現れました。そして沈みます」
この人の言葉は真理だ。私は月だと思う。おのれにも他人にも哀しみをもった青い月だと思う。でも……そこまで大層ではない。生徒会活動とか興味ないし、ボランティアもえり好みする程度の月だ。
「ふたつめは真の悪のこと。
私たちを、さらに裏切り者が築いた組織を、手助けした人がいます。真理を科学で突き詰めようとした男です。千年に一度の天才は、私たちと彼らに違う技法を授けて試しました。欲にまみれた人の外面内面に興味を示さず、精霊の力の観察だけを醒めた目で続けました。
桧さんがじきに目覚めたとき、戦いを終わらせたとき、その男と、その男が生みだしたものを消し去らねばなりません」
「また私が発言してよろしいでしょうか?」
湖佳がおずおず言う。なにも言われないでいると。
「それはマントや端末を捨てることを意味するのですか? 私たち選ばれた人間も、精霊になってはいけないのですか?」
「湖佳! 私たちが選ばれたはずないでしょ! 逆だよ!」
みんな傷つき散々な目に遭わされている。選ばれた訳がない。……その根源は倒さないとならない。
「それこそが真なる月の役割です。……その強い感情を保ちなさい。自分の力で真理に届きなさい」
百夜目鬼大司祭長が頼もしそうに、桧をじっと見つめる。
「三つめの事実を教えます。
善と悪は表裏ではありません。善すなわち悪、悪すなわち善です。悪である私は裏切り者に罰を与えました。先頭で戦った敵にも罰を授けました。月に憧れた惨めな鳳にもっとも重い罪を与えようとして、あなたの兄が被りました。
……それこそが導きでした。彼が現れなければ、布理冥尊は勝利で終わっていたからです。私はさらに富を得ていたからです。それに溺れられたからです」
「お兄ちゃんを苦しめたのか?」
桧は老女をにらむ。かってにマントが手に現れる。
「だったらすぐにお兄ちゃんのもとに行く。私が救う!」
「罰と言えないかもしれません。真理が導くままに、あの男には、あの男が欲した姿を――求めてきた姿を授けました。義理の妹への陰なる欲望。それを我が身にした彼は、その姿でいずれ永遠の闇へと去ります。ほほほほほ……」
魔女が高笑いする。桧を見つめなおす。
「さあ、二度目の死を私に授けなさい。あなたはさらに強くなれる」
この女が言っていることは、なんとなく分かる。でも私は理解しようとしない。すれば三度目の死、生身の死さえも与えてしまうから。こいつはそれを待ちわびているから。だから。
「スープが冷めます。早く食べなさい!」
その手からマントを消す。
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「すべてが台無しだ。お前を引き入れたことも意味なくなった」
また禿げた親父が喚いている。
春木千由奈は殴られて腫れた頬をさすることもできずに、住吉という
「兄はどこだ。兄を返せ」
なおもそれだけを言う。
「兄を返したら、ホットレッドに命乞いしてやる」
「未確認情報だが教えてやる。スカシバレッドは精霊のマントで変身して、婆さんの仕業で欲望に呑みこまれたようだ。死ねば永遠の闇だが……あの男は怖くないらしい」
父親と同じ年頃で、父親と同じように横柄な男が言う。見下す目線。コードネーム宗像。あっちにいたものは誰もが知っている。
智太さんの身に何があろうと、あの人は想定外をする。だから心配しない。だから春木千由奈の望みはひとつ。
「兄を返せ。そしたら私から龍に頼んでやる。貴様らを食わないでくれと。腹を壊すぞと」
住吉が酒が入ったグラスを春木に投げる。マントを奪われ後ろ手に縛られた彼女は避けようがない。ガラスの破片は刺さらない。濃いアルコールが顔を濡らすだけ。
その酒を舐めながら春木は住吉をにらむ。兄を返せとにらむ。
「前線で戦う連中の偶像であり人質として、テロリストどもの一部を私たちの仲間にした」
宗像が寄ってくる。父親と同じ冷めた目。人を蔑む目。
「赤い馬鹿どもがひと晩で全員倒した。奴らは偶像でなくなった。その裏から支配する試みが瞬時に消えた」
割れたグラスの破片を拾う。
「利権のために世界を水平にしようとする組織がある。赤い連中はその日本支部にも喧嘩を売った。……恐るべき組織が敵になった。櫛引も逃げたみたいだ。魔女の布理冥尊と我々の布理冥尊。どちらも終わりだ」
破片を春木の目の前に持ってくる。彼女はそれでも顔を背けない。
「だが可能性はある。賢い顔をしていても中学生では分からないだろうがな」
住吉が新たなグラスに酒を注ぎながら言う。
「その組織に身売りする。私と住吉は生き延びる」
宗像が破片越しに春木を見つめる。
「兄は返さない。兄であった廃人の前で、お前は大人にいたぶられ、化け物の餌になる。その後に廃人も楽にしてやる。嫌ならば協力しろ」