第396話 夢の国へ5

文字数 3,678文字

 ホテルの部屋に戻ると、スーツを着た白髪の男性が紅茶を入れて待っていた。

「おかえりなさいませ。旦那様とお話しして気疲れしたのではないですか? ラベンダーには気分を落ち着かせてくれる効果があり、ノンカフェインですので就寝前に飲んでも大丈夫でございます」
「ありがとう。小林」

 部屋に置かれた高級なテーブルの前に行くと、スーツを着た白髪の男性が椅子を引いてその椅子にエミルが腰掛ける。

 テーブルに置かれたティーカップに手の伸ばし、中に注がれていたラベンダーの紅茶を飲むと、エミルは深いため息を漏らした。


「はぁ……お父様は相変わらずだったわ。行動力がありすぎるのも考えものね……」
「――それが旦那様の良いところでございます。直接自分で話をしなければ、相手を理解する事はできません。直接会って言葉を交わす事で、友好な関係を築けるものです。旦那様はそれが分かっておられるのです。お嬢様は旦那様と良く似ておりますから、旦那様との会話はお疲れになるのだと思いますよ?」
「……そうかしら? でも、似た者同士なら普通は楽しくなるものじゃないの?」

 紅茶を飲み干したエミルの空になったティーカップに温かい紅茶を注ぐ。

「それは相手の事を尊敬しているからでございます。御友人ならば、相手への配慮を第一に考えるでしょう。それは相手と良好な関係を維持したいと思うからですが、しかし家族ならばまた違うものです」
「……ふーん。どう違うって言うの?」
「長年暮らしてきた家族だからこそ、なんの気兼ねもなく話せるのです。確かに旦那様も奥様もお忙しい為、なかなか御屋敷には戻られないでしょう。ですが、心の奥底にはいつも家族であるという感情があるのです。この小林も長年、御屋敷で執事をさせて頂いておりますから分かるのです。愛海お嬢様と旦那様は、本当に良く性格が似ておられる……だからこそ、気疲れするのです。誰でも己自身とは争いたくないものですからね」
「……なるほどね。まあ、小林が言うんだからそうなんでしょうね」

 執事の小林の顔を見上げて軽く微笑んだエミルは新しく注がれたラベンダーの紅茶をゆっくりと口の中に流し込んだ。

 それからしばらくイヤホンで音楽を聴きながら、フリーダムからの帰還者の新着情報を調べつつ、ゆっくりとした時間を過ごしていると執事の小林が彼女のことを呼びにきた。

「お嬢様、お風呂の準備ができました。動いて疲れているでしょうから、ごゆっくりどうぞ。バスローブしか無かった為、着替えは車の中に入れていた新しい物を置いておきました」
「分かったわ。小林ももう休んでいいわよ。また明日の朝にね」
「はい。それではお言葉に甘えて……明日の朝、またお伺い致します。では失礼致します」

 執事の小林は椅子から立ち上がったエミルに深く頭を下げると静かに部屋を出ていった。

 彼の後ろ姿を見送ったエミルは広い部屋の端にある浴室へと向かって歩き出す。

 高級ホテルのスイートルームだけあって浴室も浴槽も大きく。外が見えるようにガラスの前に円形の浴槽が設置されていて、浴室は壁も床も大理石で作られており開放的な空間になっている。

 着ていた服を脱いでシャワーを頭から浴びて、髪を濡らすと長い青い髪をシャンプーで洗うと3種類のリンスで念入りに髪を手入れする。これだけで相当な時間を費やしているのだが、今度はボディーソープを泡立てながら手の上に広げて体に塗り付けていく。手の平で体の隅々まで撫でるように塗っていき、手の届かない場所は柔らかいスポンジ製のタオルで塗っていった。

 その後。腕、胸、腹、背中、足の順番で背中以外は道具を使わずに手だけで丁寧に洗っていく。そして最後に体に付いた泡をシャワーで一気に流して、一度いつも使っている腕時計型のデバイスを取りに脱衣室に戻り、再び戻ってきて浴室内に設置されている専用の台に置いた。

 音声認識でデバイスのスイッチを入れると、白い大理石の壁に映像が表示されるのを確認して、やっとお湯の溜まった浴槽の中にゆっくりと肩まで浸かる。  
 大理石の壁に表示されている映像はさっきまでエミルが調べていたもので、大人気VRMMOで起きた大規模な監禁事件のことが書かれているネット掲示板だった。

 そこにはIDと実名か空白の後に様々な内容の書き込みがされていた。

 西暦2036年にはネットでの様々な書き込みに書いた個人を特定できるように個人番号と実名を登録した者しか書き込みできない仕様に変わっていた。
 一時期は匿名で書き込みができなくなることへの批判を呼んだ改正案だったが、実際の書き込みに個人の情報を載せるかは任意で判断できるようにして一度は論争に終止符を打った。

 しかし、IDの登録に個人情報が必要なことに変わりはなく。一度、個人情報を入力したことで危機管理に関する意識が落ちるのか、有力な情報だと証明する為には実名を書き込みと同時に載せるのが通例となっていた。

 だが、その書き込みの多くは憶測の情報ばかりで実際に事件の被害者から書き込みは皆無だった。

 それもそのはずだ。事件後、被害者のほぼ全員が医療機関への入院を余儀なくされていた。医療機関では精密機械が多く、デバイスの使用を禁止されていて今はもうほとんど見ることのない前時代的な公衆電話が設置されていた。

 普通に病院内でも人の目を盗んで使用すればいいと思うかもしれないが、携帯電話と違って基地局を使用しないデバイスは、近くに置いてあるWiFiを経由してインターネットに接続するシステムを取っていた。

 その為、病院内は勿論。病院外からのWiFiの電波も入らず、インターネットへ接続することができないのだ――。

 病院に入っていない者はエミル達の様に親や自分が政府に強い影響力を持っている者達だけだ。その為、被害者の殆どがインターネットへ接続できないのを いいことに、ネット掲示板では報道やネットで出回っている憶測による情報で、個人でも憶測を拡大解釈していた。

 その中でも多かったのが星に対してのバッシングだ。どこからリークされたのかは分からないものの、ゲーム内での映像がメディアやネットにばら撒かれ。しかも、星の父親がゲーム開発者であるという情報が流され、それが本来ならデスゲームを終わらせたことで賞賛されるはずだった星が叩かれる理由になっている。

 チート級の武器を手にしていながら、どうしてもっと早く事件を解決できなかったのかという不満に対して、ゲーム内で家族や友人を失った被害者達が声を上げている実情がある。

 そんな被害者達に同情する民衆達が味方して、星に対しての風当たりが強くなっている。

 書き込みの中には『小学生である星の責任能力の有無に関係なく。被害者が皆、昏睡状態で死者こそ出てはいないが、これだけの被害を出した責任を追及し、裁判にかけて死刑にすべきだ!』などという過激な書き込みもある。

 そんな中でも外部から星を擁護する声もあるのは事実だが、星の父親や母親がメディアに出て謝罪や説明を行っていないことや、ゲーム内で最後のラスボス的存在に星がとどめを刺したことで、星を擁護する声を握り潰すには十分な理由になっていた。

 だが、これはあくまでもゲームに参加していなかった者達の意見に過ぎず。実際に星と生活を共にしていたエミルは、星が頑張っていたことを知っている。
 本当ならば自分がネットに書き込めばいいのだろうが、報道では被害者は全員病院や専用施設に収容されていることになっている為、ただの嘘としかとられないだろう。

「はぁ……本当はこんな状況で星ちゃんを外に連れ回すのは良くないんだろうけど……これだけ世間が騒いでいたら、あの子もきっと相当理不尽な目にあってたに違いないわ。元々、感情をあまり表に出す子じゃないし、内に溜まっているストレスを発散させてあげないと精神的に壊れてしまう。父親も事故死していて、母親もゲーム中に飛行機事故で亡くなっている。でも、星ちゃんはその母親がきっと生きてると信じてる。……いや、信じてないと気持ちが折れてしまうからでしょうね」

 表情を曇らせながら俯いたエミルは胸に手を合わせてゆっくりと目を瞑った。

 星の気持ちを考えると、胸が苦しくなる――ゲーム初心者でいきなりログアウトできないゲーム世界に閉じ込められ、頑張ってクリアーしたらしたで母子家庭で唯一の家族だった母親を亡くし、1人世間からのバッシングを受けている。もしも、自分が同じ立場に立ったとしたらと考えるだけで背筋が凍り付く。

「――今はあの子の心のケアが最優先。身寄りもないみたいだし、私があの子の支えになってあげないと…………私が落ち込んでいたら駄目よね!」

 エミルは自分の頬をパンと叩くと暗かった表情は普段通りに戻っていた。

 お風呂から上がると、執事の小林が用意してくれていたブランド物の袋に入っている新品の水色のパジャマを着てホテルのリビングに戻った。

 ベッドで寝ていた星の寝顔を見て微笑んだエミルは、眠っている星の横で眠りに就いた。
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