第375話 母として

文字数 2,826文字

 翌朝。九條が目を覚ますと、星が既に起きていてバタバタと廊下を忙しなく行き来していた。
 星に気が付かれないように薄っすらと目を開けてその様子を窺っていると、なにやら重そうなダンボールを引きずってせっせと別の部屋に運んでいる。

 かと思うと、今度は毛布やシーツなどを頭から被ってまるで肝試しのお化け役のように脱衣室に入っていく。おそらくは自分の身長よりも大きい毛布などを洗濯機に詰め込んでいるのだろう「うーん」と力を振り絞って必死に詰めている姿が容易に想像できる声が聞こえてきた。

 洗濯機の回る音が聞こえてきた直後、星が脱衣室から出てきて廊下に置いていたダンボールに足をつまずいて派手に転んだ。
 リビングまでドン!という鈍い音が聞こえてきて、堪らず九條がソファーから起き上がって廊下を見ると、星が両手を上げた状態で顔をフローリングの床に着けたまましばらく微動だにしない。

 九條が慌てて駆け寄ると、星がむくっと起き上がっておでこを押さえながら瞳に涙を溜めている。だが、泣き出すことなく九條の驚く顔を見て苦笑いを浮かべる。

「ごめんなさい。起こしちゃいましたよね……」
「そんなのいいわ! 凄い音がしたけど大丈夫!?」

 心配そうに星を見ている九條に苦笑いを浮かべたまま立ち上がって言った。

「大丈夫です。たまにあることですから……」

 おでこをさすりながらそう言った星の体を強引に抱きかかえた九條は、星をソファーに寝かせて冷蔵庫の冷凍室から保冷剤を取り出してそれをタオルで包むと、寝ている星のおでこにそっとあてがう。

 そんな彼女に星が小さな声で言った。

「ちょっとぶつけただけなのにこんな……おおげさですよ」
「ダメよ! 女の子なんだから、顔に傷が残ったら大変でしょ?」

 おでこに当たるひんやりとした感触に表情を緩めた星の手がタオルで包んだ保冷剤を当てる九條の手に重なる。

「九條さんは優しいですね……冷たくて気持ちいい――こうしてると、なんだか落ち着く気がします……」

 そう呟く星に眉をひそめた九條が尋ねた。

「いつもはどうしているの? 星ちゃんのお母さんはこうしてくれないの?」
「いつもは転んで頭をぶつけても特に何もしません。腫れたら湿布を貼るくらいですね……それに、ちょっと転んだくらいでお仕事で忙しいお母さんに心配かけるわけにはいかないですよ。自分の事は自分でするのが当たり前ですから」

 そう言って微笑む星に、九條は短く「そう」とだけ言葉を返した。
 いや、それ以上の言葉が出てこなかった。9歳で、まだ小学四年生の子供の言葉とは思えない。いくら母親が仕事で忙しいからと言っても、この歳ではっきりとそれを割り切れる星が健気に思えて仕方なかったのだ。

 10分ほど無言の時間が部屋の中に流れる中で、九條が徐に星に尋ねた。
 
「――そう言えば、私が寝ている間になにかしてたの?」

 そう尋ねられた星は視線を逸らして少し恥ずかしそうに言った。

「九條さんがずっとソファーで寝ているので、バラバラのベッドがあるので組み立てようと思って……」
「……星ちゃん」

 それを聞いた九條は瞳に涙を浮かべていたが、それを星に悟られまいと視線を廊下の方へと向けた。

「星ちゃんがあまり家の中を好き勝手にされるのが嫌だと思ってソファーを使っていたのだけど。もしも、星ちゃんがいいなら私が部屋の片付けをするわ。子供の手でやるより大人の私がした方が早いからね」
「はい。でも、私も手伝います」

 起き上がろうとする星の肩を押さえた九條が起き上がろうとする星をソファーへと押し戻す。

「大丈夫! 最初にやってもらったので十分よ。貴女はおでこを冷やして待ってなさい。頭をぶつけて激しく動くのは良くないわ」
「……はい」

 素直にそう言った星は九條から保冷剤を包んだタオルを受け取って、それを額に当てて廊下の方へと歩いていく九條の後ろ姿を見送った。

 九條が星が廊下にダンボールを出していた部屋に入ると、中には山のようにダンボールが積まれていた。それだけを見れば、間違いなく不要な物を押し込んでおく倉庫の様な部屋なのだが、不思議なことに奥の方には古い鉄製のデスクが置かれ、その上にはまるで昨日まで使っていたかのように筆記具や本や書類が残されている。

「……これってまさか……」

 ほこりは被っているものの、使用感のあるそのデスクを隠すように積まれているダンボールを避けると、九條はデスクに備え付けられている引き出しを開けた。

 中には茶封筒が入っており。表紙にはFREEDOMの後ろに右矢印、続いてHUMAN ETERNAL PROJECT『REMAKE』と書かれている。

「――フリーダム……ヒューマンエターナルプロジェクト……リメイク? ――中身はッ!?」

 茶封筒を手に取った九條が中身を確認すると中にはなにも入っておらず、逆さまにしてみて中に手を入れて弄ってみてもなにも確認できなかった。

 つまり、その茶封筒は偽装工作した何かではなく、以前なにかを入れていた言わば抜け殻のようなものだ――。

 だが、これは間違いなく星の父親の『大空融』のもので間違いないだろう。何故なら、大空博士がVRMMORPG『FREEDOM』の生みの親であるからである。

 しかしながら、世間一般に知られている同ゲームの開発者は『遠藤豊』星の叔父である彼だ――だとしても、事実を知っている者達からすれば、基礎システムを確立した大空博士が開発者というのは九條でも知っている周知の事実である。そしてその彼が不慮の事故で亡くなったことも……。

 しかし、不可解なのはどうして星の母親がこの部屋に大空博士のデスクを置いているのかということだろう。しかも生前彼が使っていた状態のままでだ。

 彼の死後。生まれたばかりの星を連れて星の母親が引っ越したのは、その護衛を任されていた九條達も無論知っている。だが、その前に夫が使っていたデスクをわざわざ持って新居に引っ越し、しかも生前に彼が使っていた状態のままで保存しておくだろうか?

 それを未練だと言ってしまえばそれまでかもしれないが、普通なら遺品は残しておくがそれを生前の状態で保存しておく理由はない。本来ならば嫌なことは忘れたいと思うのが人間の心情だからだ。だから九條には、星の母親の取ったその行動だけが理解できなかった。だがなんにせよ、今の状況下では大空博士が使っていたデスクの存在を外部の人間に知られるわけにはいかない……。

「……あの子には悪いけど、これも整理しましょう」

 九條はほこりが被ったデスクの上を整理し始めた。

 今の星が命を狙われている恐れがある状況下で、このデスクの存在は星の父親と彼女自身を結びつける手掛かりになりかねない。星がこれまで誰にも命を狙われなかった理由はただ単に彼女が生まれる前に父親である大空博士が亡くなっていたことが理由だ。簡単に言えば、星と大空博士は血縁関係があるだけの他人ということだ……。
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