第378話 母として4

文字数 3,367文字

            * * *


 九條へのメールが送られる半日前のことだ――。

 星の叔父である遠藤豊は星を日本に返した後、通常通りの業務をしていた。彼が安心して普段通りの生活ができるのも、星のボディーガードに付けた九條という人物がそれだけ信頼できる人間だからだ。

 遠藤豊がいつものように忙しなくキーボードを叩いていた彼の部屋の扉が開いて武装した特殊部隊が突入してきた。
 騒々しい突然の来訪者がモニターの前でキーボードを叩いている彼を取り囲む様に素早く展開して銃を構えた。だが、それに動じることなく視線だけ向けた遠藤豊は冷静な声で言った。

「なんだい? 僕は忙しいいんだ。君達の冗談に付き合っていられるほど暇じゃない」

 彼は再びモニターを見てキーボードを打ち始めると、一人の男が遅れて部屋の中に入ってくる。

「抵抗しても無駄ですよ先輩」

 その声に驚き目を見開いた彼はその声の主の方を素早く振り向く。

 彼の視線の先に立っていたのは金髪に金色の瞳の若い男はサングラスを掛けてだるんだるんの短パンにアロハシャツを着ている。

「お久しぶりです先輩。あん時はどーも」
「……神埼。どうしてお前がここにッ!?」 

 突然のアロハシャツの男の名は神埼幸人。その登場に彼が驚きを隠せないのは無理もない。神埼幸人とは遠藤豊と同じ研究室の出身で、長い間鳴かず飛ばずだった神埼に遠藤豊が研究を譲って、その研究が学会で評価された神埼は学者の中で高い地位を手に入れた。
 
 時折交流を持っていた彼がこの場に現れたことに、遠藤豊は驚きを隠せなかったのだ――。

 驚く彼に向かって神埼が口元にニタリと笑みを浮かべると。

「――豊先輩。いや、夜空豊。今日限りで貴方にはこの研究所の所長の座を譲ってもらいます。そして貴方には、ここではない別の場所への移動を命令されている」
「……別の場所だと?」

 訝しげに眉をひそめた彼に神埼が人差し指を上げて指先をクイクイっと動かした。
 その直後、遠藤豊の周りを取り囲んでいた隊員達がモニターの前に座っていた彼の両腕を左右から挟んだ2人が掴んで無理やり立たせると、強引に神埼の前に連れてくる。

 強引に連れて来られた遠藤豊が地面に組み伏せられ両膝を突くと、自分を見下ろすようにほくそ笑む神埼が勝ち誇った様子で言い放つ。

「強者を自分の前に屈服させるのは何度経験しても飽きない。そう思いませんか? 先輩」
「――くッ!! 神埼……」

 見下ろす神埼を見上げ唇を噛み締めると、勝ち誇った笑みを浮かべた神崎がわざと左右から体を押さえ込まれている遠藤豊と視線を合わせて言い放つ。

「俺はですね。人の物が欲しくなるんですよ……物も才能も全部を奪ってやりたくなるんです。動物で例えるなら、俺はライオンから獲物を奪うハイエナですよ。機を見て強者から獲物を奪う。それが俺のやり方なんですよねー」

 そう言ってニヤリと不気味に笑うと、神崎はゆっくりと体を起こして部屋の中を歩く。

「今回の事件で世界の世論が我々を敵視してましてね。こちらも責任の所在を明らかにしないといけないんですよ。だから、開発者の貴方が責任を取って職を辞するという判断を上は決断したわけです……ああ、貴方のお姉さんの娘さん。夜空星ちゃんでしたっけ? 彼女もお気の毒に……」
「――なんだと!? 神崎! あの子になにかしたら許さないぞ!!」

 星の名前を出されて声を荒らげ鋭い視線を神崎に向けた遠藤豊。

 それを聞いた神崎は急に高笑いをして再び彼の顔を覗き込む。

「……俺は何もしないですよ先輩。ただ、世論があの子を被害者と見るか加害者と見るかは分からないけど? まあ、今は情勢が情勢ですからね。あの子への風当たりは強いでしょうねー。結局は犯人探しをしたいんですよ民衆は……悪を断罪するのは世の常です。自分達は無関係の傍観者であるからこそ全力で悪を叩けるわけで、中世の時代から断罪は娯楽だった。言うでしょう? 『人の不幸は蜜の味』って――民衆は皆、暇を持て余してるからこそ娯楽が必要なんですよ。そう、魔女狩りという娯楽がね……」

 そう言った直後に神崎は「連れて行け」と彼を両側から押さえ付けている隊員に告げると、命令に従った彼等は遠藤豊を無理矢理立たせて連れて行く。

 遠藤豊は高笑いをする神崎に彼の名前を何度も叫んで「許さないぞ!」と喚きながら連行されて行った。


             * * *


リビングに戻ると九條は笑顔を浮かべながら星の顔を見て言った。

「ごめんなさいね。お仕事の連絡が入っちゃって」
「お仕事ですか。なら、仕方ないですね」

 表情を曇らせてそう言った星に九條は笑顔を作って俯き加減になっている彼女に向かって言った。

「一緒にお風呂に入りましょうか!」
「……え?」

 突然の九條の言葉に星はただぽかんと口を開けている。

 全く状況が読み込めない星を他所に、九條が星の長い黒髪を撫でると九條は眉をひそめながら言った。

「――髪は洗っている?」
「……いえ、洗ってませんけど」

 目を伏せてそう言った星の手を取ると九條は廊下へと向かって歩き出した。

「まだ一緒に入るなんて言ってないです」
「まあまあ、それに一人で入ったらまた髪を洗わないかもしれないでしょ?」
「…………」

 九條のその質問に対して、星は無言で返すしかなかった。それは星が水を頭から被ることに抵抗があるからだ。ゲーム世界では慣れたが、それはゲーム世界での水は現実世界での水とは異なる。

 星はまだ現実世界での水を克服できてはない。以前は母親から嫌われるのが嫌で、3日に一度は髪を洗うようにしていた。だが、今はその母親もいない。それが星に髪を洗うかどうかを躊躇させている原因であり、星が九條の言葉に無言で返す理由でもあった。
 
 お風呂に着くと、未だに納得いかないといった様子で不機嫌そうな顔をしている。九條はそれを他所に服を脱ぎだしていた。不機嫌そうにその様子を見ていた星は九條が下着を外した胸にある古傷を目にして眉をひそめながら自分も渋々服を脱ぎ始めた。

 服を脱ぎ終えた2人が浴室に入ると、九條はタオルに石鹸を付けて星のことを呼んだ。こんなことが以前どこかであったとデジャヴを感じながら、呼んでいる九條の方へと乗り気ではない様子で歩いていく。

 恥ずかしそうに俯く星の体を、石鹸を染み込ませたタオルで隅々まで洗っていく。そんな星に向かって九條がそっとささやくように言った。

「女の子なんだから体はいつも綺麗にしていなくちゃだめよ?」
「…………あの」

 背中を洗っていた九條の方を突然振り返った星に九條は驚いたようで、一瞬目を丸くさせたがすぐに平静を取り戻してにっこりと微笑んだ。

「どうしたの?」
「あの……九條さんのその胸の傷……」

 すっと指差した指の先が九條の胸の下にある古傷へと向いた。

 九條がその傷跡を撫でると、物思いに耽るように考え込んでゆっくり星に告げた。

「――実はね。私には子供がいたの……女の子だったわ……」
「……いた?」

 星は九條の過去形の答えに首を傾げる。

 不思議そうに首を傾げる星を少し悲しそうな瞳で見た九條が、少し溜めて息を吸い込むとゆっくりと話し始めた。

「……私の娘はもう相当前に亡くなったの、交通事故でね。元々母子家庭だったわ……そこは貴女と同じかしら。おそらく、私がこの護衛任務を受けたのもそれがあっての事でしょうね……本当に人が悪いわ。ミスター遠藤は……でも、今は感謝してる。そうじゃなかったら私の娘を守れなかった無念を晴らす機会はなかったんだから……」
「…………ッ!?」

 そう言った九條は大きく広げた腕で星の体をしっかりと抱きしめた。驚いたように目を見開いた星は、咄嗟のことでどう反応すればいいのか分からない。
 自分を抱きしめているこの腕を振り解けばいいのか、それとも声を上げるか――だが、一つ確かなのが肌と肌を寄せ合った時にのみ得られる熱いほどの体温と心臓の鼓動に、心が満たされていく安心感。

 それは星には初めての気持ちでとても懐かしいような感覚。エミルと抱き合った時とも違う感じで、それ以上に星が求めていた感覚……。

「……お母さん」
「――私が必ず貴女を守る。だから、私を信じてくれる?」

 優しい声音で問い掛けた九條に星は静かに頷いた。
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