第376話 母として2

文字数 2,572文字

 星の母親は元々大空博士の助手をしていた人物であるが、わざわざ夫と長女を殺されてそれを生まれた娘に教えるはずがない。教えれば次女である星にも危険が及ぶのは分かりきっているからだ――。
 
 九條はデスクと部屋の中のダンボールを別の部屋に全て押し込むと、もう夜になってしまっていた。作業中も時折、九條の様子を見に来ていた星だったが、その都度心配そうに見てくる星に九條が「大丈夫だから待ってて」というやり取りをしていた。

 だが、しばらく前から九條の様子を見に来なくなった星の様子を見にリビングにいくと、リビングに置かれているソファーの上で眠っている姿を見つける。
 まあ、朝早く起きて九條を起こさない様にと慎重にダンボールを地面を引きずりながら押して運んでいたのだ。その繊細な作業で相当疲れていたのだろう。小さな寝息を立てて気持ち良さそうにぐっすりと眠っていた。
 
 九條はそれを見て思わず笑みをこぼす。そんな星の額にそっと手を乗せながら小さく呟く。

「……良かった。おでこの腫れは引いたみたいね……私の為に頑張ってくれてありがとう。ゆっくりとおやすみ」

 九條はそう言って星の額から手を放してソファーの前を後にしてキッチンへと入った。

 エプロンを付けた九條は手際良く冷蔵庫の中から食材を取り出してにんじんをトントンと軽快なリズムで切り始めた。すると、その音で星が目を覚ましてキッチンへと歩いてきた。
 
「九條さん料理ですか?」
「あら、起こしちゃった? まだ掛かるから眠ってていいわ。できたら起こしてあげるから……」

 そう言った九條の顔を見上げ、星は体の前に組んだ手をもじもじとさせて少し言い難そうに尋ねた。

「……あの。九條さんが良かったら、私にお料理を教えてくれませんか?」
「お料理に興味があるの?」
「……はい。やっぱりダメですか?」

 断られると思っているのか、不安そうに眉をひそめながら尋ねた星に九條は笑顔で返した。
 
 それを見た星は嬉しそうにぱぁーっと表情を明るくさせる。すると九條は「ここで待っててね」とだけ言い残して自分はリビングへと向かっていく。
 リビングに置かれた衣服の詰まったトランクケースから子供用のエプロンを取り出している。その様子を見ていた星は少しわくわくしながらキッチンで落ち着かない様子で九條が戻ってくるのを待っている。
 
 星は家事の殆どを熟すことができる。それは自主的に行っていた。しかし、母親から何故か料理だけは堅く禁止されていた。

 その料理を星はやっとできるのだ。星は料理に憧れがあった。テレビなどで見る料理は様々な食材を混ぜ合わせて美味しそうな料理になる。それはまるで魔法のようで……現実世界で魔法使いになった気分を味わえる唯一のものだろう。

 九條がキッチンに戻ってくると、星の体にエプロンを付けてすぐに再びどこかへ歩いて行ってしまう。
 それを目で追いかけると九條は廊下へと出て行ってしばらくして踏み台を持って戻ってきた。それは星がいつも洗濯機に洗濯物を入れるために用意していた踏み台だった。

 キッチンに戻ってきた九條は持っていた踏み台を地面に置いて、星にその上に乗るようにと促す。

 言われるがままに踏み台の上に乗った星は横に立つ九條の顔を見る。

「料理の前は手を洗わないといけないの。こんな風に……」

 九條はハンドソープを手に取って爪の中までしっかりと念入りに洗っていく。

 それを見た星も九條を真似るように手を洗い始めた。

 泡だらけの手をぬるま湯で洗い流すと、まな板の前に移動して横に立っていた九條が星の後ろに回って覆い被さるようにして星の右手を掴む。

「まずは包丁の持ち方から始めるわね」
「はい」

 少し緊張した様子で強張った手で包丁を握るとまな板の上に置かれたにんじんの上に押し付ける。更に力を入れようとした直後、九條の手が星の手を止めた。

「待って、包丁を握る手はもう少し力を抜いて。にんじんを押さえる手はねこの手にするの」
「……ねこの手ですか?」

 不思議そうに首を傾げる星の顔の前に九條が指を丸めた状態の左手を出した。

「こうやって、にゃんにゃんってするのよ?」

 丸めた左手を招き猫の様に動かしてそう言った九條に釣られるように、小首を傾げた星も左手の指を丸めて「にゃんにゃん」と手を動かす。
 
 その手を九條の手の平が優しく包み込んでまな板の人参の上にそっと置く。

「料理は力を込めると怪我をするわ。ゆっくり深呼吸して……」
「は、はい」

 言われた通り深呼吸した星の体から力が抜けたのを見て、包丁を持った手に重ねていた右手を九條が動かし、先程ねこの手でにんじんを押さえた手の前に持ってくる。

 その直後、再び体を強張らせた星の耳元でそっと九條がささやく。

「――大丈夫。心配しなくていいわよ? 私が手を動かすから星ちゃんは力を抜いて包丁を握ってるだけでいいわ……」

 星は無言のまま頷く。だが、まだ体の強張りは取れない。まあ、殆ど初めて包丁を手にしているのだから仕方がないだろう。

 九條は重ねていた星の手を動かしてにんじんを刻んでいく。
 少しずつだが星も慣れてきたのか、九條が手を動かさなくても自らの意思で切れるようになってきた。
 
 それを感じた九條は星の手に重ねていた自分の手を放した。すると、今まで軽快に切っていた星のその手がピタッと止まった。振り返った星は手を放した九條の顔を見上げた。

 そんな星に向かって「今度はひとりでやってごらん」と優しい声で九條が告げるが、さすがに九條のサポートなしで包丁を使うのは怖いのか、せっかく緊張が解けてきていた肩に再び力が入る。

 包丁を強く握り締めた星は震えた手で必死に左手でまな板に押さえ付けているにんじんに狙いを定めるが、震えた手がなかなか治まらずにいつまでもにんじんに包丁の刃を入れることができない。

 心臓が激しく鼓動するのを感じながら、星はなんとか落ち着かせようと細かく息を吸って吐いてを繰り返すがそれが余計に星の肩を震わせて包丁の狙いを定めさせてくれない。

 そんな様子の星の耳元で優しい声音でささやくと、星の震える肩にそっと手を乗せた。

「――大丈夫。自信を持って、さっきまで普通にできたんだから……」
「…………はい」

 自信なさげに答えた星だが、その表情は心なしか落ち着いているように見える。
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