第366話 揺れる動く心

文字数 2,921文字

 それから何時間が経ったか分からない。部屋には時計もなければ、陽の光を取り込むための窓もない。

 そんな時、ナース服の女性が食事の乗ったお盆を持って部屋の中へと入ってくる。

 膝を抱えたままベッドの上にいた星は驚いた様子で彼女の方を向いた。女性は表情を曇らせなら星の方へと歩いてきた。

「おはよう。昨日は良く……眠れるわけないわよね。朝食を食べたら早速リハビリを開始する予定だったけど、今日は止めておく?」
「いえ、大丈夫です」 
「でも……」

 表情を曇らせたまま、ベッドの横に収納されたテーブルを引き出し、その上に持ってきたお盆を置いた。
 
 心配そうに星を見つめる彼女に、星はにっこりと微笑んで周囲を見渡した。

「まあ、この部屋には何もなくて退屈なので……少しでも早く出られたらいいなって」
「そうよね。でも、もしもの時に武器になりそうな物は置いておけないのよ。貴方の安全の確保が重要だから……だから、がまんしてね」
「……はい」

 星は静かに頷くと、ゆっくりとベッドから立ち上がる。
 
 少しバランスを崩したものの、すぐに足で地面を踏ん張り体勢を立て直す。それももう大丈夫だと言わんばかりに……。

「ご飯よりも早くリハビリしましょう」

 立ち上がった星が決意に満ちた瞳でナース服の女性を見つめていた。しかし、彼女は星ほど冷静さを失ってはいなかった。

「そうね。早くやりたいのは分かるわ。でも、体は起きたばかりで栄養を求めているの。しっかりご飯を食べて、ゆっくりトレーニングしていきましょう」
「……分かりました」

 少しがっかりと肩を落とした星は仕方なくベッドに座る。

 だが、二ヶ月もの間眠り続けていた星はまだ消化機能が万全ではなく、ナース服の女性の持ってきた食事も離乳食のようなものだ――今、お盆に乗っているのも煮て柔らかくなったおかゆの様なものが入っていた。

 ナース服の女性はそれを持つと、スプーンで掬ったおかゆを冷まして星の口元に突き出した。星は仕方なく口を大きく開けてスプーンを受け入れる。
 彼女の言ったようにしっかりと食事を取った星は、今度はこっちの言い分を通すようにと促す瞳でナース服の女性の顔を真っ直ぐに見据えた。

 それを察したのか、ゆっくりと頷いたナース服の女性が星に向かって手を差し伸べた。

「それじゃー。食後の運動に行きましょうか」
「はい」

 差し出された手を取って頷くと、ゆっくりとベッドの上から立ち上がった。


 リハビリ用のトレーニングルームに連れていかれた星は左右に支えの手すりのある歩行練習用のレーンが複数並んでいるところへと誘導された。

 一番端から両手で手すりを掴みながら一歩一歩地面を踏みしめるようにゆっくりと進んで行く。筋肉を鍛えるのには速く動くよりもゆっくりと負荷を掛けた方が筋肉への刺激が大きくなり肥大化を助けるだけではなく、怪我などのデメリットも小さくすることができる。

 それから真剣な面持ちでリハビリに励む星は歩行練習、3段程の段差の上り下り、インストラクターが付いた状態で水中歩行などのメニューを熟した頃にはもう夕方になっていた。

 部屋に戻ると星はベッドの上に倒れ込んだ。疲労感が星の全身を襲う中、彼女の中でゲーム世界との肉体の変化に戸惑いが大きくなっていた。

「……疲れた。もう一歩も動けない……」

 ベッドに倒れ込んだまま、重たい瞼がゆっくりと星の意識を奪っていく。

 次に星が気が付いた時には朝になっており、若干の気だるさはあるが筋肉痛などは起きてはいない。
 それを確認してほっと胸を撫で下ろして体を起こすと、星は横の引き出し式のテーブルに昨日の夕食であろう。

 おそらく。気持ち良さそうに寝ている星を起こさない様にと置いておいてくれたのだろうが、さすがに冷たくなってしまっている。
 その冷たい容器を持ち上げてどうしたものかと首を傾げていた。するとその時、部屋のドアが開いてそこからご飯をお盆に乗せたナース服の女性が入ってくる。

「あら、昨日は良く眠れたようね。夕食も食べないでぐっすりだったものね」
「……あのこれ」

 星は冷めてしまった器の中の野菜の入ったおかゆを見せる。すると、彼女は持っていたお盆をテーブルに置いて星の持っている冷めたおかゆを受け取る。
 テーブルに置かれたお盆の上に置かれているおかゆは前と同じく野菜が入っているが、それだけではなく今度はとろとろに混ぜられ黄色く輝く卵も入っていた。

 それを見た星が不思議そうに首を傾げていると、ナース服の女性がにっこりと微笑む。

「リハビリも始まって筋肉を作る動物性タンパク質も重要だからね。もうしばらくはおかゆだけど、明日の夜にはもう少し固形物を取れるように考えているわ。さすがにおかゆだけで元の食生活に戻ったら、体がびっくりしちゃうから」

 頷く星に微笑みを浮かべた彼女は、お盆の上の卵と野菜のおかゆとスプーンを手に持つといつものように冷まして星の口の前へと持ってくる。

 だが、星は口を開くことなく。今度は彼女の持っていた器へと手を伸ばして言った。

「大丈夫、もう一人で食べれます。他にやることもあると思うし、私に構わなくても大丈夫です」
「……そう。なら、少ししたらまたリハビリをするから、その時に呼びに来るわね」
「はい」

 少し寂しそうに眉をひそめたナース服の女性は星におかゆの乗ったスプーンを器に戻して手渡すと部屋を後にした。

 微笑みを浮かべた星は彼女を見送ると、渡された器の中のおかゆをスプーンで掬ってゆっくりと食べ始めた。

 星にとって最初こそ厚意に甘えていたものの、それをずっと続けるのは星には申し訳ないという思いが強くなっていた。
 それもそのはずだ。星は本来ならこんな場所にいるはずの人間ではなく、本来ならば年相応に小学校に通っているはずなのだ。

 ナース服の女性達も本来ならば、施設の中でしっかりとした役割があってそれを毎日熟している。しかし、星がきたことで彼女達にいらない仕事を押し付けてしまっている。そのことが、星にとっては心の重荷になっていた。

 そしてもう一つ。星には思うところがあった……それは、もうしばらくしたらこの施設から離れることになる。そうなってから、未練が残るのを少しでも避けたかったのだ――。

 今の星は自宅に帰るか、叔父を名乗る男性のところに行くかの二択で、未だにどちらにするか決め兼ねていた。
 朝食で持ってこられた野菜と玉子のおかゆを食べながらも、今後のことを考えていたのだがどうしても決めきれずにいる。

 星が取れる選択は二つ。一つ目は住み慣れた家に帰ること、二つ目は叔父を名乗る男性と新生活を始めるか……だ。

 そうこうしているうちに、ナース服の女性がリハビリの為に部屋に呼びにきた。

 食べ終えた食器をテーブルの上に置くと、ナース服の女性に連れられて昨日も行ったメニューをこなしたら既に体力の限界で部屋に帰ったら、ベッドに倒れ込んで電池が切れた様に眠ってしまった。

 それからは同じような日々が数日続き、気が付いた時には星の筋力も日常生活に支障がないほどまでに回復していた。しかしそれはまた、星の今後の生活に対する決断を迫られるということでもあった……。
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