第282話 憩いの時間

文字数 3,054文字

 イシェルと別れ、しばらくはギルドホールの前で立ち尽くしていたが、星を部屋に残していつまでもそうしているわけにもいかず、エミルはギルドホールの宿泊している部屋に向かって歩き始めた。

 なるべく普段通りに振る舞えるようにと、扉の前でドアノブに手を掛け、大きく深呼吸をして意を決して扉を開く。
 部屋の中に入ると、話をしていた星とレイニールの視線が一気にエミルに集中する。そんな彼女達に自然な笑顔を作ると、エミルは部屋に入った。

「星ちゃん。楽しそうに何を話してたの?」
「えっと……今日レイニールとこのホテルの中を散歩してて、その時の事を話してました」
「はっはっはっ! 我輩が主にホテルの中を案内してあげてたのじゃ!」

 誇らしげに胸を張って笑うレイニールだったが、その立ち位置は星の少し後ろの方に構えていて、エミルからは一番距離が離れている。

 もしもエミルが突然襲い掛かってきても、隣にいる星が庇ってくれるか、すぐに逃げられるようにと考えているのだろう。

 にっこりと微笑みを浮かべているエミルの顔をじっと見つめていた星が、突然眉をひそめて言った。

「……エミルさん。なんだか疲れていますか?」

 心配そうに聞いてくる星の言葉に、彼女は驚きを隠せない様子で思わず顔を仰け反ってしまう。

 それを見た星は更に心配そうな表情でエミルの顔を見つめると、内心は慌ててふためいていたが、悟られぬように星の頭をエミルの手が優しく撫でる。

「そうね。でも、星ちゃんの顔を見てたら疲れなんて吹き飛んだわ。そうだ! 星ちゃんはもうご飯は食べた?」

 話を変えようと、視線の中に飛び込んできたルームサービスのメニュー表を咄嗟に手に取って、それを広げて星の方に向けた。

 星は前にエミルが持ってきてくれたコーンスープを指差すと、差し出されたメニュー表を押し返して「今度はエミルさんが選んで下さい」と言って微笑む。
 星がメニューを早く決めたのは、帰って来たばかりのエミルに早く食べたい物を選んでほしいという思いもあるのだろう。しかし、星は別に意識しているわけではなく。これは普段からの彼女の癖と言った方がいいかもしれない。

 基本的に星から食べたい物を主張する状況がない。普段から母親が作り置きしてくれた物かお弁当で食事を取っていた。家で食べる時はもちろん1人だったし、学校での給食も周りに人がいるだけで、会話にも混ざることはない。

 家では殆どの家事を1人でやっていて買い物をするのは星の役割だが、調理するのだけは母親で、絶対に星はやらせてもらえなかった。一度だけ、自分でやろうとした時に酷く怒られた為、それ以降は買う物は母親に指定されたものと、お金が余ったら自分の食べたいお菓子を買うだけだ。

 もちろん。多忙な母親に食べたいものをリクエストする機会などはなく、確かに置き手紙などで残せばできただろうが、星もわざわざそこまでしようとはしなかった。何より星は、母親に手の掛かる子供だと思われたくなかったのだ。

 だから、作ってくれたものは苦手なものが入っていても残さずに食べたし、カレーが数日続いて不満を感じることがあったりしても、残さず食べた。いや、好き嫌いや食べ残しができる環境にいなかったという方が正しいだろう。まあ、さすがにエリエの作った激甘料理はなんとか完食したものの、具合が悪くなったが……。

 家で食事のメニューを選べなかった為か、一人の食事以外は常に相手の顔色を窺う癖が付いてしまっていたのかもしれない。 

「うーん……そうね~。なら……」
  
 一瞬でメニューを押し返されて、少し困り顔を見せたエミルがメニューに視線を落とすと、星が指差した場所と同じ場所をエミルも指差した。

「……私も星ちゃんと同じ物にするわ!」
「えっ? ……で、でも。それは……」

 動揺する星に近付くと、にっこりと微笑んで告げる。

「ふふっ、これでお揃いね。いらっしゃい……」

 エミルは星の座るベッドに腰を下ろすと、背中に腕を回してその小さな体を自分方へとゆっくりと引き寄せた。

 驚き目を丸くさせた星の耳元で、エミルがそっとささやく。

「――だめよ? 相手を大事にするのは分かるけど、あなたは少し自分を蔑ろにし過ぎだわ。星ちゃんが思ってるよりもずっと……私はあなたを大事に思っているんだから……大好きよ。星ちゃん」
「……はい。エミルさん……私も、大好きです……」

 エミルの言葉に、星の瞳には薄っすらと涙を浮かべながらすぐに言葉を返した。
 それは大事にされているというよりも、自分が必要とされていると感じたからだろう。星にとっては、誰かに求められていると感じることが何よりも嬉しかった……。

 2人が抱き合っているその横で、レイニールはベッドの上に転がっていたメニュー表を拾い上げると、それを広げてメニューを食い入るように見つめる。

 しばらくメニュー表とにらめっこしていたレイニールが深く頷くと、メニュー表を持ってパタパタと星の目の前に飛んでいく。

「主! 我輩はこれを食べたいのじゃ!」

 レイニールが指差したのは、サーロインステーキ300gという文字を指差している。

 抱き合っていた星は小首を傾げながら、レイニールとメニューを見比べると、星はさっきよりも大きく首を傾げた。

 メニューは文字しか表示されないが、文字を指でタップすると、値段と実物の写真が視界に浮かび上がって表示される仕組みになっていた。
 別に本人がやらなくてもタップして近くに持っていけば、その映像を自動で近くの者にも表示させるという便利な機能が付いている。 

 だが、星はそれで首を傾げたわけではなく、レイニールとイメージで表示されているその肉の塊の大きさがそれほど変わらなかったからだ。

 星は抱き合ったままのエミルに意見を求めるように、そっと耳元で尋ねる。

「――あの、レイがこのお肉が食べたいって言ってるんですけど……」

 星の困惑するような声音に、察したエミルは星の体を離すと、星の顔をじっと見つめる。
 さっきまで抱き合っていたのが恥ずかしかったのか、星は頬を僅かに赤らめながら視線を逸らすと、エミルの方にメニュー表を広げて「これです」と掻き消えそう声で言った。

 エミルもメニュー表から表示される映像とレイニールを見比べると、くすっと笑みをこぼした。

「心配しなくても大丈夫よ。確かに今のレイちゃんには大き過ぎるけど、元々のサイズを考えればそれほどおかしなことではないし。それに、この世界に空腹はあっても満腹でどうなるってことはないから」
「……満腹でも大丈夫なんですか?」

 不思議そうに首を傾げる星に、エミルは頷いて徐に説明を始める。

「――このゲームは食事をしないことで、空腹状態になるのは今まで生活していて分かるわね。空腹状態では立ちくらみや、酷いと動けなくなるんだけど、満腹になる分には状態異常とかのペナルティーはないの。でも、いくら食べても最初から設定されてる数値以上に回復することはないわ。だから、レイちゃんがいくら食べたところで体に異常をきたすことはないから安心して」
「へー」

 理解できたかは分からないが、星がとりあえず頷くのを確認して、エミルは手に持ったメニュー表から食事を注文する。

「それじゃー。レイちゃんは少し経ったらNPCがご飯を持って来るから、そしたら扉を開けてあげてね」

 その後、にっこりと微笑んで星の顔を覗き込むと「お風呂に行きましょうか」と言って、星の返答を待たずにその手を引いて浴室の方へと向かう。
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