第181話 2人の時間2

文字数 3,226文字

 目の前のミルクを軽く飲んで、星はエミルの方をちらっと見やると、それに気付いてエミルは優しく微笑み返す。

 ほっとした様に星は息を吐くと、そんな彼女に星が疑問をぶつけてみる。

「あの、どうしてここに?」
「だって、星ちゃん。今日のお昼はなんか様子がおかしかったから……悩み事があるんでしょ?」
「……悩みなんて、ないです」

 慌てて視線を逸らすと、星は目の前のカウンターに置かれたカップを両手で持って口を付ける。
 
 だが、その言葉は嘘ではない。というより、今の星にはこの感情を悩みと呼んでいいのか、分からなかったというのが正しいかもしれない。

 現実世界では1人で居ることの多かった星にとって、特定の誰かとこれほど長い時間過ごしたことはない。
 いや、過ごしていると言えばいるのかもしれないが、この世界にきて初日は星も余裕がなく。それほどエミルのことを意識していなかったし、寝ている時も意識がないので然程長い時間とは言えない。

 同じベッドで眠って翌日の朝「おはよう」と声を掛け合う――そんな当たり前のことでさえ、母親としたのはもう遠い日の記憶でしかなく。それが、現実ではない世界でこれほど長く続くなんて考えてもみなかったことだ。

 その上。自分に対してこんなに優しくしてくれる人がいて、自分に向けられている好意が嘘かもしれないなんて考え事態が悩みでも何でもない。ただ純粋に「本当の自分を見てほしい」という感情が、ないものねだりだと分かっていた。

 エミル達の後ろを歩いているだけで『自分は1人じゃない』と実感させてくれるし、とても温かい気持ちになれる。
 ずっとこんな生活が続けばいいと、どこかで思っていて……そしていつか、この生活に終わりが来てまた前と同じ孤独な日々が待っているのだ。しかし、それは口に出してはいけないことで、口に出したところで相手が困ってしまう。

 笑顔を向けてくれるエミルの悲しむ表情を見たくない。

 星は表情を曇らせながら、ずっとカップの中のミルクを飲み続ける。これ以上言葉を続けていたら、ポロっと本音を溢してしまいそうだったからに他ならない。
 
 そんな星の姿を見つめ苦笑いを見せると、エミルも烏龍茶を飲む。

 しばらくして、マスターの男性がエミル達の前に戻ってきた。  

「さて、エミルちゃん。今日はどんな悩み事の相談かな?」

 優しく問い掛けるように、男性がエミルに微笑みを向ける。

 エミルは彼に微笑み返すと星の方を向いて。

「今日は私じゃなくてこの子なんです。ほら、星ちゃん」
「えっ!?」

 驚く星の肩に腕を回すと、エミルはグイッと自分の方に寄せた。

 すると、男性は難しい顔をしながら星の顔を覗き込んで頷く。

「なるほど、確かに何か迷っている顔をしているね」
「そ、そんな……迷ってなんて……」

 遠慮気味に小さな声で答える星を見て、男性は下顎に生やした髭を撫でる。そして、ポケットからカードの束を取り出して星の前に置く。

 それは紛れもなくタロットカードだった。

 このバーではタロット占いを売りにしているのだろう。その為、以前いったサラザの店よりカウンターの幅が大きくみえた理由も裏付ける。

 その後、そのタロットカードの束をバラしてカウンターに広げた。

「悩みがないと思うなら、それを心に願ってカードを混ぜればいい。悩みのない人間なんていないよ。君がいくら口で否定してもカードは嘘をつかない。さあ、願いたい事を心に思い浮かべて混ぜなさい」
「…………」

 無言のまま生唾を飲み込み、星はゆっくりとタロットカードを混ぜ始める。

 隣で微笑みを浮かべ見守っているエミルを横目に見て、すぐにカードに視線を落とすと。

(……私はずっと……ずっと、エミルさんと一緒に居たい。お願いカードさん。私のわがままを聞いてください)

 心に願いを思い浮かべ、祈るように瞼を閉じてカードを混ぜる手にも自然と力が入る。そして混ぜ終えると、カードから手を放してゆっくりと頷いた。

 男性は星の目を真っ直ぐに見つめ「本当にもういいんだね?」と言う問い掛けに、星はもう一度深く頷く。
 バラバラになったカードをまとめて、その一番上のカードに手を掛けた瞬間。ほんの一瞬だけ、世界が揺らぐ様な奇妙な感覚が星を襲う。

 視界がぐにゃりと大きく揺れて何事もなかったかのように戻る。そして、突如耳元で何者かがささやく。

「――星。お前は現実から逃げられない……いくら現実逃避しても、何も変わらない。変えられない……お前は逃げられない。絶望から――いや、逃がさない。自殺なんか絶対にさせない」
「……どうして? 私はなにもしてな――」

 胸の奥で鼓動する心臓を掴まれた感覚だった。

 だが、その声を聞いたことはない。どうして自分がそれほど恨まれるのか、どこでその恨みを買ったのか全くわからないが、それはまるで自分自身の深層心理の声にも聞こえた。

 目を見開きはっとしたようにその場に固まる星に、声の主が再びささやきかける。

「――お前の罪はこの世に生まれた事だ……そして、私から全てを奪ったお前を。私が、この手で必ず葬り去ってやる……」

 その声の主は女性なのだが、低く重たい声音が若い男性のものかと聞き間違えそうなほどだ――そしてなにより、その声は憎悪と狂気に満ちていた。

 心臓を鷲掴みにされる様な恐怖が、星の背筋を凍りつかせる。
 全身の血液が止まる様な息苦しさに、顔面蒼白で荒い息を繰り返す。下を向いて服の上から心臓の辺りをぎゅっと握り締めて。

(……誰? どうして、どうして、私をそんなに憎むの? 生まれたのが罪って……どうして……)

 動揺を隠しきれない星が胸を押さえながら、心の中で何度も問い掛けたがそれ以上、彼女が言葉を掛けてくることはなかった。

 エミルもバーのマスターもタロットに夢中で星の異変には気付いていない。
 そして出たカードの絵柄は『月』だった、そのカードの意味は【不安や焦り】など、あまりいい意味を持っていないカード。

 だが、その意味以上に。そのカードに何か深い意味がある気がして仕方がなかった。
 やっと異変に気付いたのか、真っ青な顔で俯く星のことを心配して、隣に座るエミルが声を掛けてきた。

「大丈夫? なんか調子が凄く悪そうよ。星ちゃん」
「…………」
「もう、戻りましょうか。立てる?」

 無言のまま俯き続ける星に、ただならぬものを感じたエミルが星の体を支えて立たせると、バーのマスターに挨拶をして顔面蒼白のままの星を連れて店を出た。

 店を出ると、このまま歩いていくのは不可能とエミルは考えたのか広場に設けられたベンチに腰を下ろした。
 ベンチに浅めに座らせた星の背中を擦りながら、エミルは心配そうに時折「大丈夫?」と声を掛ける。だが、星はその声が聴こえないほどに動揺していた。

 しかし、それも無理はないだろう。『自分が生まれてきたのが罪だ』と姿も見えぬ何者かも分からない人物に言われたのだ。しかも、狂気に満ちた殺気を含んだ様な声音で『この手で必ず葬り去る』とまで言われればこの反応も無理はない。

「……主。急にどうしたのだ?」

 パタパタと星の肩に乗ってきたレイニールがほっぺたをペチペチと叩く。

 しかし、その言葉にも星が答える素振りすら見せない。さすがに急な様子の変化におかしいと感じたエミルは、星の肩に乗ったレイニールを両手で掴んで引き離すと。

「レイちゃん。悪いんだけど、イシェ達に今日は近くの宿屋に泊まるからって伝えててもらっていい? それと、今日はもう2人だけにして……」
「だが、我輩も主が心配なのじゃ!」

 レイニールが不服そうな声を上げると、エミルは険しい表情で「おねがい」と小さく呟く。

 その真剣な瞳を見つめ、レイニールは渋々頷いた。
 納得してくれたレイニールに、エミルはにっこりと微笑み返す。

「それじゃ、お願いね」
「うむ」

 小さく頷いて星を気遣ってか、何度も振り返りながらもレイニールは夜空へと消えていった。
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