第87話 疑惑のディーノ3

文字数 5,590文字

               * * *


 ある日の昼下がり。病室のベッドから藍色の長い髪に透き通った黄色い瞳の少女の姿が淋しげに窓を見つめていた。
 外は雨が降っているらしく、水滴の付いた窓から見える院外に生えた大木の木の葉の上から時折水滴が滴り落ちている。

「はぁー。さっきまでは降ってなかったのに、梅雨の季節は嫌だなぁ……」

 少女は小さくため息をつくと、ベッドの端に置かれた棚の上にある花瓶を見つめる。そこには、鮮やかな青い紫陽花の花が飾られていた。

 花瓶に入った紫陽花の花を見つめ、悲しそうな顔をしていた少女の表情が和らぐ。

「梅雨は紫陽花の季節だもんね。さすがは姉様」

 少女は紫陽花の花を見て微笑んだ。

 棚の上に置かれた花瓶に活けられたその花は、昨日姉が持ってきてくれたものだった。

 紫陽花の花言葉には、家族団欒などの意味がある。

 彼女の姉は季節が変わる度に、その季節の様々な花を入れてくれる。
 普段から病院の個室から殆ど出たことのない彼女にとって、この病室から見える景色とこの空間だけが唯一変化するものだった。

 毎日。特に変化のない退屈な病院生活の中で、やれることと言えば極めて少ない。 

「姉様はすごいなぁ~。自分の事だけじゃなく、あたしの事まで気にかけてくれて。あたしにはこれくらいしか……」

 すると、徐に枕の下に隠していた青いマフラーを取り出す。

 そのマフラーはもうすでに完成していた。時間がある合間に少女が縫って作っていたのだろう。
 やはり売られているものと比べるとどうしても見劣りしてしまうが、そのマフラーは彼女が毎日コツコツ編み上げた自信作だ。

 少女はそれを感慨深く見つめると、ため息混じりに呟いた。

「はぁ~。さすがに夏になるのに、これはいらないよね……」

 今の季節は梅雨。もう少病室でのし退屈な日々が過ぎれば、すぐに強い日差しが差し込める季節がやってくる。
 本当は去年の内に渡すつもりだったのだが、姉は既に新しいマフラーを買ってしまっていて、そのマフラーと自分のマフラーを見比べると、どうしても質の落ちるそれを渡す勇気が出なかった。

 自分の手の中にある行き場のなくなったマフラーを見つめていると、病室の扉をコンコンっとノックする音が聞こえた。

「ど、どうぞ!」

 焦りながらマフラーを枕の下に戻すと、平静を装って返事をする。すると、扉が開いてセーラー服姿の少女が入ってきた。

 その長くしなやかな青い髪と、透き通った青い瞳はゲーム世界のエミルの姿そのものだ――それもそのはずだ。彼女は紛れもなく、エミル本人なのだから。

「あっ、姉様。今日は早いんですね……が、学校は?」

 エミルの顔色を窺うようにそう尋ねる少女に、エミルはにこっと微笑んでその質問に答えた。

「今日は午前中で終わりだったのよ。授業が終わってから岬の顔を見たくて急いで来ちゃった」
「……姉様。急がなくても、あたしはいつでもここに居ます。それより、あたしは急いで来て、姉様に何かあったらと思うと……そっちの方が心配です」

 岬は表情を曇らせると、それを見たエミルが慌てて彼女の側に駆け寄り。

「いつも病院までは車で来てるんだから大丈夫よ」

 そう言って、エミルは岬の頭を優しく撫でた。
 それを聞いた岬は実の姉の顔を見上げ、安心したように笑う。

 ほっとした様子で立ち上がると、エミルは病室の壁に掛けられているカレンダーに視線を移した。
 カレンダーを指差しながら、エミルは岬に小さな声で呟く。

「岬も来年は高校生ねぇ~。早く制服着てる姿を見たいわ~」

 振り返り胸の前で手を合わせて、岬の顔を見て微笑んだ。

 その嬉しそうな姉の姿を見て、岬は表情を曇らせ無言のまま俯く。
 それは岬が中学に入った辺りから、一度も学校に登校できていなかったからに他ならなかった。

 生まれつき体があまり強くなかった岬は小学校に入学した辺りから、頻繁に体調を崩して学校を休むようになっていた。
 そのせいか、今では彼女自身も自信をなくし。いつの間にか、人と必要以上に接することが少なくなっていった。

 ある日。学校内で高熱が出て倒れ、不幸が重なって。結局発見されたのは、岬が倒れて数時間が過ぎた時だった。
 そのことが原因で肺炎になってしまい。その後、肺炎は治ったものの、それがきっかけで今度は喘息を発症してしまい今に至る。というわけだ。

 岬は生まれつき体が弱いこともあり。医師に外出中に発作が起きてしまうと、命に関わるということから、今では病院で生活せざるを得ない状況になってしまったのである。

 医学が発展した今では、喘息は完治できる病気になっている。
 しかし、岬の場合。特効薬と呼ばれる薬のことごとくで発作が起こり容体が急変する為、医師も手が出せず。残る方法は人の本来持つ治癒力に託すしかないと、長い病気生活を強いられているのだ。

 そんな彼女にとって病気が完治し、また学校に通える日がくるとは考えられないのだろう。
 不安そうな表情で伏し目がちに布団の上に置いた手を見つめ、側に立っているエミルに尋ねた。

「姉様……あたし。本当に治るんでしょうか……」
「……岬」

 今にも泣き出しそうな顔で返事を待っている彼女に、エミルは何も言えなくなってしまう。
 姉としては何か声を掛けなければならない状況だが、弱気になっている人間にあまり軽率なことを口にしてはいけないと感じたのだろうが、姉としては妹が落ち込んでいるのを見て、悲しくなったのだろう。

 しかも、彼女は小学生の時から殆ど病院で生活しているのだ「きっと治る」と心の中で信じてはいても、現実は上手くはいかないもので、何度も口にしたその言葉をまた口にするのをエミルは拒んでいたのかもしれない。

 岬は色々なことを溜め込んでしまう性格な為、彼女がこういうことを言うという時は、決まって相当思い詰めている時だったからだ。
 妹の弱気な発言に、エミルは何も言わずに微笑むと「ちょっと待っててね」と言い残して、慌てた様子で病室を出ていってしまう。

「あっ……姉――」

 岬は咄嗟に右手を前に出して何か言い掛けたが、すぐにその言葉を飲み込んだ。

 エミルが出ていった扉をしばらく見つめていたが、すぐに自分の足に視線を向けた。

(……あたし。何してるんだろう……こんな事聞いたって、姉様が困るだけって分かってたのに……)

 岬はその罪悪感からか表情を曇らせると、布団を両手で強く握り締めた。

 雨が降っていることもあり。面会者の人数が少ないのか、慣れているはずの病室が普段より静かに感じてしまい、更に不安な気持ちになる。

「姉様。今のであたしのこと嫌いになったかなぁ……」

 そう小さく呟いた岬は呆れたように笑みを浮かべ、消えかけそうな声で言葉を続けた。

「……しょうがないよね。嫌われ者は最後までそうなんだもの……」
  
 岬は悲しそうな瞳で、窓の外の灰色の雲を見つめていた。それはまるで今の自分の心と同じ色をしている気がした。
 病室を出ていったエミルのことを気にかけながらも、その不安な気持ちを紛らわせる為なのか岬は本を読んでいた。

 岬が読むのは伝記やファンタジー系の小説が多い。
 その理由は『登場人物に自分を重ね合わせれば何でもできるから』というものだ――。

 すると、病室の外から慌ただしい足音と看護師の注意を促す声の後に「すみません」という聞き慣れた声が聞こえてきた。

 その直後、病室の扉が勢い良く開いた。
 岬が驚いたように目を丸くしていると、そこには雨で制服と髪を濡らしたエミルの姿があった。

「ね、姉様!? ど、どうしたんですか!? びしょ濡れじゃないですか!!」

 驚きのあまり思わず叫んだ岬にエミルが「あっ、通りで服が重く感じると思ったわ」とあっけらかんして言った。

 その返事にぽかんとて数秒の間を開けて、岬は慌ててベッドの隣にある戸棚からタオルを出してエミルの方に差し出した。

「これを使って下さい。姉様」
「うん。でも、別にこのくらいどうって事は――」

 そう口にした次の瞬間、岬の優しそうな表情が一変し彼女は声を荒げた。

「――ダメです! あたしみたいになったらどうするんですか!!」

 岬は慌てて口を覆ったが、その時にはすでに言葉が出た後だった。

 深刻そうな表情で俯いたエミルが、ゆっくりとした口調で告げる。

「……あ、そ、そうね。私ったら考えもなしに……ごめんなさい。岬」

 咄嗟に出た岬のその言葉に、エミルがしょんぼりと肩を落とす。

 そんな姉の姿を見て、岬があたふたしながら口を開いた。

「あっ……ち、違うんです。その……ご、ごめんなさい……」

 岬はエミルに謝ると、俯いたまま自分の手の甲に視線を落とした。
 それは岬が発した『あたしみたいに』という言葉が原因だったのは言うまでもない。

 こう言った時は、姉はいつでも辛そうな顔をするのを分かっていた。それでも、時折感情が高ぶると、つい自虐的な言葉が出てしまう。

 自分の最も嫌いなところだ――。

(……あたしってダメダメだ……姉様はこういう言葉を一番嫌うのに……こんなだから、あたしは病気にも勝てないんだ……)

 岬は心の中でそう呟くと、膝の上で両手を強く握り締めた。

 落ち込んだ様子の岬にエミルはそっと近付き、頭を撫でながら優しく話し掛けた。

「どうしたのかしら、今日はなんだかおかしいわよ? 何か嫌な事でもあった?」
「……い、いえ」

 岬はそう言いながらも、罪悪感で姉の顔を見上げることができない。

 それはエミルがくる数時間前に、彼女の担当の医師から言われた。

『今の治療法が思っていた程。成果が出ていません』

 っという一言が原因だった。
 その時は生返事で返したが、時間が経つに連れて先の全く見えない不安と苛立ちが襲ってきて、自分でもどうしたら良いか分からなくなっていたのである。

 姉にはできるだけいつも通りに接しようと心掛けていたのだが、やはり姉妹なのか、そういう心の内を誤魔化すことはできないらしい――。

 エミルは俯き加減に口を閉ざしている妹の顔の前に、取っ手の付いた白い箱を置いた。

 岬はそれを見ると、不思議そうな顔でエミルの顔を見上げ、首を傾げている。

「……姉様。これは何ですか?」

 その問いかけに答えるように微笑みを浮かべると、ハサミを手にその箱の封を切った。

「わぁ~。これって! いつも混んでるお店の!?」

 箱の中身を見た岬は歓喜の声を上げる。

 見下ろした箱の中には、まるで宝石のように輝くいちごタルトが2つ入っていた。

「ふふっ。岬が喜ぶと思って雨の中、並んで買ってきたのよ? おかげで1時間近く雨に打たれる事になったけどね!」
「――姉様……そんな……あたしの為なんかに……」

 岬が瞳を潤ませながらそう呟くと、エミルは少し不満そうに眉をしかめた。

「もう。岬が喜ぶと思って買って来たのに。そんな顔されたらお姉ちゃん悲しいわ~」
「……は、はい。ありがとうございます。姉様」

 岬は両手で溢れそうになる涙を拭うと、にっこりと微笑んで見せた。

 エミルはそれを見て満足そうに頷くと、ベッドの脇の戸棚の奥から紙皿とフォークを取り出し、買って来たいちごタルトをその上に乗せた。

 その皿を岬の前に、出した収納式のテーブルの上に置く。
 皿の上に盛られたいちごタルトをキラキラと瞳を輝かせながら、見つめる岬が小さく呟く。

「まさかこのいちごタルトを食べれる日が来るなんて……あたし。もし今日死んでも後悔はないです」
「ふふっ。嬉しいのは分かるけど、死なれたら困るわ~。これから何回でもお姉ちゃんが並んで買って来てあげるつもりなんだから」

 エミルは手に持った皿のいちごタルトをフォークで切って、自分の口へと運んだ。

 それを見て、岬も自分のいちごタルトをフォークで切り分け同じように口に運ぶ。

「――おいしい!」

 気が付いた時には、もう口からその言葉が出ていた。

 それを聞いたエミルは満足そうに笑うと、徐ろに口を開く。

「全く。こんな美味しい物を1回食べたくらいで死んでもいいなんて――岬は本当に欲がないのね~」

 わざと大きな声で皮肉交じりにそう呟いたエミルが、更に言葉を続けた。 

「でもダメよ? そんな簡単に死ぬなんて言ったら。お母様がいつも言ってるでしょ? 試練は乗り越えるもの。生きてる限り乗り越えられない試練は神様は与えないって」
「あははっ! この頃、姉様。母様に似てきましたね」
「もう、失礼ね。私はまだあんなに目、釣り上がってないわよ~」

 そう口にしたエミルが指で自分の両目を釣り上げると、2人はくすくすと笑い合う。
 その後、2人は相当長い時間話をしていると、もう辺りはすっかり日が落ちてしまっていることに気が付いた。

 窓の外には雨の中、傘を差して帰って行く見舞い客の姿があった。

「――あら、もうこんな時間になってたのね」

 エミルはそう言って時計を見ると、身支度を整える。

 その背中を岬は寂しそうに見つめている。

 病院には面会時間がある――この病院は夜8時半には帰らなければならない。
 岬はこの時が一番嫌いだった。もし寝ているうちに発作が起きれば、明日は生きていないかもしれないと恐怖をいつも感じるからだ。

 楽しいからこそ時間は短く感じるし、夜の1人の時間は長く苦痛に感じる。

 この時ほど、時間が止まればいいのにと願う時はなかった。

「それじゃ~、私は帰るわね。また明日来るから……」

 エミルは名残惜しそうに口にして、帰る為に持ってきた荷物を持った。

 そんな姉に岬が言い難そうに口を開く。

「そんな、姉様も忙しいんですし。毎日来て頂かなくても……」  
「もう。馬鹿ね……岬に会うよりも大事な事なんて無いわよ。また明日ね!」
「はい。また明日!」

 2人はいつもの様に笑顔で別れを告げると、手を上げて応えた。
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