第369話 我が家への帰還2

文字数 2,268文字

 隅々まで見て回った星は大きく息を吐き出してほっと胸を撫で下ろした。

 少しでも変わっていたらどうしようかと思ったからだ――星にとって、自宅とはまさに聖域と言っていい場所である。いや、誰であっても自分の留守中に家具や小物などを他人によって好き勝手に動かされるのを好む人間は珍しいだろう。

 そして長く居ることの多い自分の部屋やリビングなどよりも最も荒らされたくない場所……それは母親の部屋だった。家族である星も母親の部屋に入るのは掃除の時以外では殆どない。中に入るとクローゼットとタンス。そしてベッドと仕事用のパソコンが置かれたデスクと殆ど生活に必要なものしかない簡素な部屋の中を見渡す。

 ゆっくりと視線を動かすとそこには母親がまだ居るような錯覚に陥る。電気も付けずに部屋の中に入った星は母親の眠っていたベッドに前から飛び込むようにして倒れ込む。
 布団には温もりはなく冷たくなっていたが、そこには確かに母親の匂いが染み込んでいた。布団に顔を埋めた星はしばらくそのまま顔を埋めていたが、徐に体を回転させて仰向けになると真っ白な天井を見上げる。

 こうしていると、まるで母親が隣にいるような安心感を受ける。そして自宅に帰ってくる前に抱いていた思いが大きくなってくる。

「きっとお母さんは生きてる……」

 何の確証もないが、星はそう強く確信していたのだった……。

 その時、星のことを呼ぶ声が響く。突然のことに驚き、ベッドの上で横になっていた星は飛び起きて小走りでリビングへと走っていくと、そこには美味しそうなハンバーグがテーブルに置かれていた。

 たっぷりのデミグラスソースの入った器の中に入っているその様子は、さながらソースの海を泳ぐハンバーグの船と言った感じだろうか。
 その横にはサラダの入った器とご飯の入った器が置かれている。それを見た星はあまりのことに言葉を失ったままその場に立ち尽くしている。

 正直な話。今まで母親が作ったどの料理よりも、目の前に置かれている料理が美しく見えたからだ――今までは作られ冷蔵庫に入れられた料理を電子レンジで温めるだけだった。出来たての料理を食べたことなどなかった。

 いや、それも違うかもしれない。それだけなら、ここまでの衝撃は受けなかっただろう……幼い頃からの夢をこの短時間の内に叶ってしまったのだ、今まで母親との買い物や車でのドライブ、そして温かい出来たての手料理。この全てが短期間の間に叶ってしまった。しかし、それは母親ではない他人――。

 だが、それでも不思議な充実感が星の心を支配している。それは普段、通学時や買い物などで見ていた普通の生活。しかしそれも、星にとっては決して手に入ることがないと思っていたもの……。

 無言のまま、呆然とその場に立ち尽くしたままの星の両肩に手を置いて椅子へと導く。
 席に着いた星は少し悲しそうな表情をしている。そんな彼女を見ていた九條は微笑みを浮かべながら言った。

「料理には少し自信があるの。きっと貴方の口にも合うと思うわよ?」
「……いただきます」

 両手を体の前で合わせてペコリと軽く頭を下げると、箸を持ってハンバーグを一口大に切って口の中へと運ぶ。
 数回噛んで星は驚いたように小さく「おいしい……」と呟く。そんな星の様子に満足そうな笑みを浮かべて九條自身もハンバーグを食べ始めた。

 食事を終えると、星はお風呂に入ることなくソファーに座ったと同時に眠ってしまった。まあ、自宅に帰ってきてお腹が膨れて安心したのだろう。

「こんな場所で眠ってしょうがないわね。まあ、色々あったから仕方ないか……」

 そんな星の体を持ち上げると星の部屋のベッドの上まで運んでいく。
 星の小さな体をベッドの上に寝かせると、微笑みを浮かべて部屋を後にした。シャワーを浴びてソファーに寝転がると九條も寝息を立て始めた。
 
 
 翌日。星が目を覚ますと、見慣れたはずの自室の天井が妙に異世界にいるようなそんな感覚を受けた。
 まだどこかゲーム世界にいるような気がしてエミル達の姿を探すように、のっそりと起き上がった後リビングへと向かった。

 リビングのソファーの上で眠っている九條を見つけた。
 
(九條さんこんな場所で寝てたら風邪引きそう)

 まだ6月の半ばだと言うのに、何も体に掛けずに眠っている。星は自分の部屋に戻ると、ベッドから毛布を引っ張り出してそれをリビングまで引きずっていくと、眠っている九條の体に掛けた。するとその直後、いきなり目を覚ました九條がゆっくりと起き上がった。

「私は大丈夫。それより、昨日は良く眠れたかしら?」
「はい」

 短くそう言って頷いた星を見て微笑んで。

「せっかく毛布を持ってきてくれたんだもの。もう少し寝ようかしらねー」
「はい! ゆっくり休んでて下さい。私は学校に行ってきますから」

 そう言って部屋に戻ろうとした星を九條が止める。
 それもそのはずだ。命を狙われている身で、他の子供と同じ様な普通の学生生活を送れるわけがない。

 不思議そうに小首を傾げている星に向かって、九條が真面目な表情で言った。

「――星ちゃん。昨日も言ったし、貴方の叔父さんからも言われていると思うけど……もう一度言うわよ。貴方は命を狙われている。だから学校に行くのもダメ、私以外と外出するのもダメ、窓の近くにもなるべく近づかない。もしこの約束を守れないのなら、アメリカに戻る事になるからね」
「結構制限があるんですね……分かりました。ここに居られるのなら、言うことを聞きます」

 彼女の条件を素直に飲んだ星は自室に戻っていった。
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