第57話 片想い

文字数 1,606文字

 ユニークな人だった。知り合いの弟で、映画がなにより好きで週に何本も観に行っていた。当時は名画座で2本立てで300円だった。
 短い付き合いは映画の話題から始まった。私の中でいまだに一番の映画『ベニスに死す』
 Kは私以上に詳しかった。脚本の学校に通っていた。 
 Kは初めてその映画を観て、終わったあと感動でブルブル震え、しばらく立てなかったという。表現が面白いのだ。私も何度か観に行き、詳しいつもりだったが……
「最初に出てくる船の名前がエスメラルダ、あとで出てくる女の名前もエスメラルダなんだ……」

 私はOL。初めてふたりで観に行った映画は『フォロー・ミー』
 ミア・ファローが魅力的。なんということもない、平和な映画だったのか?
 覚えているのは上流階級の夫が、妻になった、ヒッピーだった気ままな女にいろいろ教える。マーラーの交響曲は……
 覚えているのは、上流階級の男女の集まりの会話。減らない泥棒をどうしたらいいか? 野蛮な時代は手を切り落とした。では、減らない性犯罪はどうすればいい? ミア・ファローが言う。切っちゃえばいいのよね……

 隣で観ていて恥ずかしかった。
 そのあと、食べたのはラーメン。Kは学生。ご馳走してくれたけどね。私のボーナスの額を聞くと驚いていた。
 Kの一番の映画は『突然炎のごとく』
 そのタイトルは知っていた。『巨人の星』で不良少女のお京さんが飛雄馬に会って口にする。そういえば、左門の境遇を思い、飛雄馬が泣きながら投げるシーンでは、Kも泣けた、そうだ。

 のちに、娘が高校でフランス映画部なんてのに入り、フランス映画を観て感想を書く羽目になったときにビデオを観た。想像していた女性とは違った。ジャンヌ・モローが演じるような、開放的で奔放な女が好きだったのか? 何度かKは言った。
「愛する女が死んでくれてホッとした」

『突然炎のごとく』
 今調べたら、カトリーヌのモデルはアポリネールの恋人のマリー・ローランサンだそうだ。アポリネールの小さな太陽、マリー。マリーと別れてあの有名な『ミラボー橋』が誕生した。

 私が『わが青春のとき』を観たい、と言ったら、コマキストなの? と聞いた。好きだったのは山本圭。この映画は誰と観に行ったのか? Kではない。誘ってはくれなかった。

 当時は固定電話。Kからかかってくることはなかった。いつも私からかけた。女からかけるなんて……我慢して我慢して……かけた。巨人戦、見てるときはかけないでね、と言われていた。ほとんど毎日だろうに。

 本をたくさん読んでいて、話題にしたものは読んでみた。トーマス・マンの『魔の山』ゲーテの『ファウスト』それを熱く語るのだ。リルケの『秋』を教えてくれたのもKだった。
「ただひとり この落下を 限りなく優しくその両手に支えている者がある」
ひどく感動していた。
 1冊だけ私も勧め、熱く語った。本も貸した。江戸川乱歩の『孤島の鬼』

 歌ではないが、電話してるのは私だけ。あの人からくることはない……
 消滅。


 結婚して子供ができて、知り合いの家で再会した。数人が集まった。少しドキドキした。夫がKと飲んでいた。
「Cちゃん、いい人見つけたね」
……そうですか? Kは私の息子にせがまれ絵を描いた。しつこくせがまれいくつも描いた。うまい……なんてものではない。知り合いの家にはKの描いた大きな油絵がかけてある。

 Kは絵を描いていた。定職に付かず近所の葬儀屋で仕事があるときだけ働いていた。運もよかった。小さな家がO駅のすぐ近くにあって、地下鉄が通るのでとてつもなく高く売れたのだ。現金は多くはないが、跡地に建てるマンションを兄弟で2戸もらった。その1戸にひとりで住み、絵を描き、葬儀屋でバイトをして、1度も結婚しなかった。映画の女優と比べられたら無理だろう。
 今、いくつ?

 知り合いの弟だから情報は入ってくる。絵の展覧会で入選した。売れているのだろうか?
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