第61話 父と娘

文字数 2,471文字

 心配な人がいる。21話で書いた、同じマンションに住む、空き缶集めをしているご主人。実はうちの隣に住んでいる。40年前、うちより数日遅く入居してきた4人家族のお隣さん。
「出前のメニューありますか?」
奥様と、小学校高学年くらいの息子さんとやってきた。新居で、自分の部屋もできるのであろう息子は明るかった。

 マンションにはあまり交流はない。その年、子供が産まれ、泣き声が迷惑にならないか? と心配した。住んでみれば、壁の薄いマンション。滅多に顔を合わせることもないお隣さんだった。
 少し経つと、奥様の怒鳴り声が頻繁に聞こえるようになってきた。娘を怒っている。不思議なことに隣なのによくわからない娘。エレベーターに乗り合わせなければ、顔を合わせることはない。
 奥様は働いていた。夕方帰りドアを開けるなり、
「M子、お米、といだ?」
と、大声が聞こえた。向こう隣の主婦が私に文句を言うほど、怒鳴る声は頻繁に聞こえた。
 ある日、夫がすぐそばで事故を目撃した。隣の娘が自転車を車にぶつけられ、救急車で運ばれた……隣はまだ帰っていなかった。私は紙に書いてドアに貼っておいた。
『娘さんが事故に遭い、S病院に運ばれました。隣の404号室T』

 奥様は帰ってくるなり、やってきた。夫が説明した。たいしたことはないと思うが……
「死んじゃったって、いいんだけどね」
その口調は今でも覚えている。動揺して口から出た言葉だ。
 
 ご主人はエレベーターで何度か会った。数年経ち、数回エレベーターで乗り合わせても、
「何階ですか?」
と聞かれた。
「4階です」(隣です。そんなに影が薄いですか?)
 ご主人は真面目に働いていた。1度焼肉屋で居合わせたことがある。仕事仲間と一緒だった。作業着で十数人、忘年会かなにかだったか? 私達夫婦を認識しただろうか?
 
 長い年月が過ぎ、さすがのご主人も子供が3人いる私たち家族を認識できるようになった。ある日、飼っていた猫がいなくなった。網戸が開いていた。娘はエアコンが切れると暑くて、確かめもせず窓を開けてしまったのだろう。猫はベランダに出て隣のご主人の部屋に上がり込んだ。朝になって慌てた私たち……ベランダで隣のご主人が猫を隙間から返してくれた。明け方お邪魔したネコを優しく預かっていてくださった。猫好きな方だった。それからは会うと少し話した。子供たちにも声をかけてくださった。

 奥様は乳癌だった。滅多に顔を合わせないが、うちが浴室をリフォームしているときに、廊下で会い立ち話をした。長話などしたことがないのに話した。
 リフォームしていることを羨ましがっていた。癌治療でお金がかかる。身内には仕事柄たくさん保険に入れたが、自分にはあまり掛けていなかった……
 新聞を床に広げて読むときに違和感を感じた。検査したらすでにステージ4。

 マンションでは、亡くなってもお知らせはない。亡くなったことさえわからないこともある。しばらくして、ご主人に外で会った。奥様は亡くなり葬儀も済ませていた。家に入ったこともないので線香をあげに行くのは躊躇した。向こう隣の奥様は、教えてもなにもしなかった。私は、仕事の関係でたくさん買っていたパックのご飯をひと箱持って隣へ行った。奥様を亡くし家事も大変だろうから、食べてください、と渡した。
 数日後、律儀なご主人は缶ビールをお返しに持ってきた。それ以来、心配はしていたのだ。私の父は母を亡くしてから酒浸りで仕事まで失っていたから。

 ご主人は元気だった。年月が経ち今ではおそらく80歳前後、この間まで空き缶集めをしていた。なぜ空き缶集めなど? 息子さんは結婚したのか家にはいない。いるのは、おそらく独り者の娘。この娘とはまともに顔を合わせたことも話したこともない。玄関ドアを同時に開ければ、エレベーターに乗らず、向こうの階段を降りていく。1度は家を出た娘が母親が亡くなって戻ってきたようだった。今では50歳くらいか?

 このごろ、私が眠りにつく頃、10時を過ぎた頃に頻繁に怒鳴り合う。父親は耳が遠い。もう、会っても会話にはならない。大声を張り上げなければ聞こえない。空き缶集めをするようになっていた父親は、駐車場の自分の車に大量の空き缶を保管していた。高齢になり車を手放すと、マンションの自転車置き場の隅にビニール袋に入った空き缶を置いておくようになった。苦情が出たのだろう。それからは大量の空き缶をエレベーターで自分の部屋に運んでいた。エレベーターにも廊下にも汁が垂れる。その苦情でもあったのだろうか? 大量の空き缶を何袋も置かれたのではたまらない。娘は怒鳴る。聞こえない父親に大声で夜半に。かつて自分が母親に怒鳴られたように。
「コロナなの。コロナなの」
コロナ禍でマスクもせずに、真夏の暑い中自転車で空き缶集めをしていた。言い合いをし、娘は諭すように話すのだが大声になる。終いには父親も
「親をバカにしているのか?」
と怒鳴った。

 秋になり怒鳴り合う声は頻繁になってきた。
「言ったよね、聞いてよ、だから、聞いてよ、聞いてよ」
なにかを叩く音もする。父親にはよく聞こえてないのだろう? 
「もう、迎えに行かないからね」
??
 足腰の強い父親。自転車で遠くの空き缶交換所まで日に何度も往復していたが、もしや、認知症? 保護されて迎えに行った? まったくの想像だが。

 自分の父親を思い出す。妻に先立たれた男は情けなかった。酒に逃げひどかった。真夏に酒を買いに行き、帰り道がわからなくなり保護された。早く死んでくれ、と何度思っただろう。悩みの大半が父親のことだった。いまだに思い出すのも嫌だ。

 隣のご主人は酒に逃げてはいない。ついこの間までベランダで洗濯物を干していた。空き缶が落ちていれば自転車を止め拾っていた。しかし、足腰の丈夫な人が認知症になると厄介だ。
 施設でも4ユニットを元気に歩き回る方がいた。
「息子に電話してくれない? 迎えに来てって電話して。息子に死ねって言われたの」

 娘さんの心情を思うとせつない。息子はどうしているのだろう? 
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