第66話 無知は罪なり

文字数 1,505文字

 ある作品を読んで、とうに忘れていたことを思い出した。高校2年のことだったと思う。夏休み明けのことだった。教室へ行く階段で、すれ違った女子が泣いていた。教室に入ると登校していた生徒数人が泣いていた。

 クラスの男子が自殺した。同じ姓の男子がふたりいたので、Y君と呼ばれていた。

 1年から同じクラスにいながら、話をしたことのない男子だった。髪は長く直毛ではなかった。新聞部に所属していた。話したことはほとんどない。真面目な生徒、あの学校には真面目な生徒しかいなかった。

 家庭の事情、ということだった。集会では、生活指導の怖い先生が、どんなに楽しそうに見えても悩んでいる生徒がいる。家庭ではいろいろな事情があるんだ……そんな話をした。
 クラスメイトは告別式に全員参加することになった。
 私たち4人グループの女子のRが、その前にお線香をあげに行こう、と言い出した。リーダー的存在のしっかりした女子だった。活発で男子とも臆することなく話し、ふざけていた。亡くなったY君ともそうだったのだろう。

 4人で午後、家を訪ねた。牛乳屋だった。その時応対したのは父親だけだった。父親は何も知らない私たちに話した。学校のせいだと。新聞部のY君は日教組のことを書き、先生側と何かあったらしい。
 感電死? どうやって? 無知な私は聞いているばかりだった。遺書を見せてくれた。

『私が死んでも悲しまないでください。悲しみは一時的なものです』

 供養だから、と言われバナナを食べた。息子の好きだったレコードをもらってくれ、と言われチェイスの『黒い炎』のLPをいただいた。

 当時の私には理解できないことばかりだった。感電死がわからない。日教組も知らなかった。
 
 告別式は雨が強かった。
 
 何があったのか、数日後の朝、校門の前で男が印刷物を配っていた。先生はそれを止めることもできずに見ていた。書かれた内容は当時の私にはよくわからなかったが、学校側を責めていた。真面目な生徒ばかりの学校。誰も何も言わなかった。親しかった男子はいただろうに。

 グループのリーダーのRが私たち3人を引き連れ、職員室に乗り込んだ。彼女は担任に、Y君の父親から聞いた話をした。事実はどうなのか? と。担任はタバコを取り出し吸った。間を置いたのはわかった。当時はそれができたのだ。生徒の前でタバコを吸うことが。
 私はそこにいただけだ。なにが起きているのかわからなかった。表面上は穏やかだった。印刷物を配る男も数日するといなくなった。

 落ち着いた頃、私達4人の女子は警察署に呼ばれた。それぞれ別々の部屋で調書を取られ拇印を取られた。Y君の父親と何を話したのかを聞かれた。確か日当も出たと思う。

 あれはなんだったのだろう? 自殺の原因が学校側の数人の先生にあると、父親が訴えたのだろうか? 私たちの名は誰が出したのだろう? 
 無知な私は無知なまま過ぎてしまった。今さっきまで。

1973/9/3
自宅で、××高校のY・Yくん(高2・16)が感電自殺。
6/8 Yくんは、日教組批判の新聞記事を学校新聞に掲載しようとして、担任教師や新聞部 の先輩に見つかり、集団リンチを受けた。顔や背中に大けがをし、11日間の入院。それ以降登校していなかった。 遺書には「体育館で記事について責められ逃げ場がなくなった。助けてくれと叫んでも助けて くれるものはいなかった。死ねばみんなが喜んでくれるだろう」と書いていた。 学校や日教組は、リンチなどの暴力沙汰を否定。
10/11 被疑者不詳のまま、傷害罪で告発。  
   (指導死一覧より抜粋)

 検索したらヒットした。そういえば急性肺炎で入院していた。
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