第170話 四面楚歌

文字数 3,419文字

 中国の歴史など詳しくないのに、ドラマを観ただけでチャットノベルを投稿してしまった。
項羽(こうう)劉邦(りゅうほう) 呂后(りょこう)(せき)夫人 虞美人(ぐびじん)
 実はドラマを最後まで観ていないのだ。観始めたのは劉邦の奥さんの方に興味があったから。恐ろしい中国三大悪女のひとり、呂雉(りょち)、呂后。
 日本語吹き替えしかなくて、途中でやめてしまったが、調べると面白い。
 まず『四面楚歌』の歌に魅せられてしまった。漢詩など興味はなかったのだが、漢文も苦手だったが、繰り返し聴いている。合わせて歌っている。
 ()や虞や、(なんじ)をいかんせん……

「項羽の陣営を幾重(いくえ)にも囲んだ劉邦の軍から夜、()の歌が聞こえてきます。項羽は敵に投降した楚の兵が多いことを知って驚きました。
 項羽のそばには常に最愛の女性、 虞姫(ぐき)と、愛馬の(すい)がおりました。項羽は詩を詠じます。

 力は山を抜き気は世を(おおふ)。時利あらず騅逝かず。騅逝かず奈何(いか)にすべき 虞や虞や(なんじ)を奈何せん。

 自分には山を動かすような力、世界を覆うような気魄(きはく)があるが、時運なく、騅も立ちすくんでしまった。騅が走らなければ、どうしたらいいのか。虞や虞や、おまえをどうしたらいいのだろう――。
「美人(これ)に和す」
「項王(=項羽)、(なみだ)数行下る。左右皆泣き、()く仰ぎ視るもの()し」
 項羽は覚悟していました。敗れた自分は散ればいい。だが虞姫はどうなる? 項羽は虞姫ひとりを心から愛していたのだと思います。(NIKKEI STYLE キャリアより)

 個々の戦の能力という意味で、項羽は飛び抜けた存在だった。劉邦は項羽を倒した勝因について、次のように述べた。
帷幄(ちょうあく)のなかに(はかりごと)をめぐらし、千里の外に勝利を決するという点では、わしは張良(ちょうりょう)にかなわない。内政の充実、民生の安定、軍糧の調達、補給路の確保ということでは、わしは蕭何(しょうか)にはかなわない。100万もの大軍を自在に指揮して、勝利をおさめるという点では、わしは韓信(かんしん)にはかなわない。この3人はいずれも傑物といっていい。わしは、その傑物を使いこなすことができた。これこそわしが天下を取った理由だ。項羽には、范増(はんぞう)という傑物がいたが、かれはこの一人すら使いこなせなかった。これが、わしの餌食になった理由だ」(PRESIDENT Onlineより)

 鴻門之会(こうもんのかい)で、項羽側が宴に招いた劉邦を討ち取る絶好のチャンスがあったが、項羽は敢えてそうしなかった。宴の席で討ち取る等、卑怯者の所業であるという項羽の考えは、常に正々堂々と相手にも自分と同じ条件を用意してやった上で倒すという彼独自の美学に基づくものであったが、劉邦を生き長らえさせたことは、後の項羽にとって命取りとなった。 しかし、こうした項羽の生き方は、カッコいい男の生き様として中国民衆の心をとらえて離さず、今日でも項羽のファンは非常に多い。

 紀元前202年、項羽を制し天下統一を成し遂げた劉邦は、漢王朝を建国し初代皇帝(高祖)に即位した。
 しかし世は真の平和を得たわけではなかく、漢の周辺では相変わらず戦が続いていた。
 高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。2代目恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の妻呂皇后であった。
 呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意 戚夫人の子供を毒殺、更にその母の戚夫人を人間豚と呼ばれるほどの残虐な刑で殺害、恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。

 映画『鴻門の会』のラスト。
「だが知る由もない。我が妻が息子たちを殺したことを。
 さらに知る由もない。400年後、我が帝国が地上から消え失せることを」

 項羽軍との戦争中、己の生き残りを図るために手段を選ばないという劉邦の冷酷さと卑劣さを語るエピソードが一つある。
 劉邦軍は一度、項羽のつくった西楚国の首都である彭城(ぼうじよう)に攻め込んだことがある。項羽の率いる主力部隊の留守を狙った奇襲だったのだが、戻ってきた項羽軍が一挙に反撃すると、劉邦軍はたちまち雪崩を打って彭城から敗走した。
 全軍敗退のなかで誰よりも早く逃げ出したのは、ほかならぬ総大将の劉邦である。彼は息子と娘の二人を引きつれて馬車の一台に乗って一目散に逃走していた。その後をすぐ、項羽軍の騎兵が追ってきたのである。
 そのときのことである。馬車の乗せる「荷物」の量を減らして馬を少しでも速く走らせるために、劉邦はなんと、わが子二人をいきなり車から落としたのである。
 それを不憫に思った馭者の夏侯嬰(かこうえい)が飛び降りて拾い上げると、劉邦はふたたび突き落とした。このようなことが三度も繰り返されたと、『史記』が記している。
夏侯嬰が劉邦を怒鳴りつけたので、劉邦は夏侯嬰を斬ろうとまでしたが、よくよく考えてみれば御者がいなくなっては逃走もできなくなるので、ようやく子供を捨てるのをやめにしたという。 この後、一行はなんとか逃げ切り、劉邦は再起することが出来た。 この一件を戦後に聞いた呂后は、劉邦に捨てようとした自分の子をかならず後継者にするように迫り確約させる一方で、夏侯嬰は後々まで、劉氏一門や呂后から絶大な信頼を得たという。

「悪いやつほど天下を取れる」中国史の起源
 この人はいったい、どういう人間性をもっているのだろうか。
 劉邦のもとに集まってきた武人や策士たちも、じつは彼と同類の人間が多い。策士の一人である陳平(ちんぺい)という者が親分の劉邦に対して、項羽軍と比較して「わが陣営の特徴」について語るときにこう述べたことがある。
「大王(劉邦)の場合、傲岸不遜(ごうがんふそん)なお振る舞いが多く、廉節(れんせつ)の士は集まりませんが、気前よく爵位封邑(ほうゆう)をお与えになりますので、変わり者で利につられやすく恥知らずの連中が多く集まっております」
 いってみれば、自分の生き残りのためにわが子の命を犠牲にするのに何の躊躇いも感じない劉邦という「人間失格」の無頼漢のもとに、「利につられやすく恥知らずの連中」が集まってできあがったのが、すなわち劉邦の率いる人間集団の性格である。
 そして、結果的にはやはり、この「恥知らず」の人間集団が、あの豪快勇敢にして気位の高い英雄の項羽を打ち負かして天下を手に入れた。
 歴史によくあるような無念にして理不尽な結末であるが、いわば「悪いやつほど天下を取れる」という中国史の法則がここから始まったのである。
 このような法則が生きているなか、項羽のような貴族的英雄気質と高貴なる人間精神の持ち主は往々にして歴史の闇のなかに葬り去られて、劉邦のごとき卑劣にして狡猾な無頼たちが表舞台を占領して跳梁(ちょうりょう)することが多くなってくる。
 その結果、中国史が下っていくにしたがって、項羽流の人間精神は徐々に死滅していき、劉邦のような「嫌なやつ」たちがますます繁殖していく勢いとなっているのである。

 国家そのものを私物化した劉氏一族の独占的利権を守るために、劉邦は皇帝になった後に、もう一つ大きな仕事を成し遂げた。それはすなわち、かつての功臣たちに対する血塗れの大粛清である。
 皇帝即位後の紀元前202年から前195年までの短いあいだに、彼は漢帝国の樹立に功績があった韓信、彭越(ほうえつ)英布(えいふ)などを、騙し討ちや噓の罪名を被らせるなどの汚い手段を使って、次々と殺していった。
 そのなかで、三族まで処刑された韓信の場合もあれば、惨殺後の屍が塩辛にされた彭越の場合もあるという。
 劉邦ならではの卑劣さと残虐性がここにも現れているのだが、天下取りの戦いにおいて彼のもとに集まってきた「恥知らず」の人間たちは、今度は一番恥知らずの親分である劉邦の謀略にしてやられたわけである。
 こうして基盤を固め得た漢帝国は、その後もまさに劉邦流の「国家理念」と政治手法をもって天下を治め、前漢・後漢を合わせた四百年間にもわたって中国大陸を支配した。そのなかで、皇帝を中心とする家産制(かさんせい)国家と専制独裁の政治体制が完全に定着させられた。
 漢代以後の歴代王朝も当然、国家の私物化と独裁政治の強化を図るのに余念がなく、そのために恐怖の政治粛清を断行することもしばしばあった。無頼漢皇帝劉邦の残した「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」という二つの遺産は、そのまま中国の長い歴史の悪しき伝統となったわけである。(web Voiceより)

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