第175話 残念なリーダー

文字数 1,622文字

『三国志』を調べていたら劉備(りゅうび)諸葛孔明(しょかつこうめい)の面白い記事を見つけた。

三顧(さんこ)の礼」とは、諸葛亮が劉備サイドに「重用する姿勢」を求め、劉備がそれを示した、いわばデモンストレーションだという。
 それは劉備にとっても重要なことだった。関羽(かんう)張飛(ちょうひ)に対して、「これからは知識人を重んじていくのだ」と示すと同時に、荆州(けいしゅう)の知識人たちの支持を得るためにも、「自分は知識人を重んじる」とアピールしなければならなかったのだ。

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「三顧の礼」とは故事成語のひとつ。目上の人が格下の者の許に三度も出向いてお願いをすること。中国で劉備が諸葛亮を迎える際に三度訪ねたとする故事に由来する。
 黄巾の乱の鎮圧で関羽・張飛とともに天下に名を揚げていた劉備に対して、諸葛亮は一部の人にしかまだ名前を知られていなかった。
 しかも劉備が40代に対し諸葛亮は20代であり社会通念上、明らかな上下関係があるにも関わらず、それに捉われない応対をしたことから有名になった故事である。(Wikipediaより)

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 漢の高祖劉邦(りゅうほう)には、宰相の蕭何(しょうか)、軍略を立てる張良(ちょうりょう)、そして戦場で指揮を執る韓信(かんしん)がいた。「漢の三傑」と呼ばれる彼らの支えがあってこそ、劉邦は漢を建国できたのだ。
 その3人の役割を、諸葛亮はただひとりでこなさなければならなかったのだから、抱えたものが大きすぎた。宰相としての諸葛亮は蕭何に匹敵し、歴代の名宰相に引けを取らない。中国史上、最も優れた宰相といって良いだろう。

 劉備はどう評価できるのか。度量が大きいという昔のアジア的君主の典型であり、優れた君主だった。現代では曹操のように、トップ自らが変革を推進していく人が求められ、劉備のようなタイプは流行らないのかもしれない。
 しかし情があって、部下の進言通りにやらせ、うまくいかなければ自分が死ねばいいという覚悟のあった人だからこそ、関羽や張飛も最後まで劉備に従い、諸葛亮も劉禅(劉備の息子)を支え続けたのではないだろうか。

 三国志の英雄、劉備は、関羽や諸葛亮など、有望な人材を集めて活躍した「仁義の人」として知られている。まさに英雄中の英雄と言われる劉備だが、晩年は「三国一の残念リーダー」と言えるくらい、大きな過ちを犯してしまう。
 最も大きな過ちが、義兄弟の関羽が呉の武将に殺されたために決行した、呉への復讐戦だ。劉備軍は無理な行軍を行ったため大敗し、自らも死んでしまう。
 この戦いの前夜では、右腕の武将である張飛が、今でいうパワハラに苦しんだ部下たちによって殺されてしまう事態まで起こっている。劉備は、張飛のパワハラを長年放置したため、戦いの前に貴重な戦力を失ってしまった。
 劉備は子育てにも失敗している。嫡男の劉禅(りゅうぜん)は完全な「お金持ちのドラ息子」で、諸葛亮が病死するとあっさりと魏に自国を明け渡すと、自らは生き残り、生涯遊んで暮らした。

 諸葛亮は、部下に仕事を任せることができず、何でも自分でやらなければ気が済まないリーダーだった。優秀な人材はいたが、彼らが成長する機会を与えず、埋れさせていた。
 諸葛亮は一度、愛弟子の馬謖(ばしょく)にある戦いを任せたが、命令違反をした馬謖は大敗してしまう。(泣いて馬謖を斬る)
 それ以降、諸葛亮は人材を用いることをやめ、後継者を育てることをしなかった。
 君主である劉備亡き後、尊敬すべき君主も頼りになる部下もいなかった諸葛亮は、蜀のほぼすべての公務を自分で決裁し、こなしていたのだ。
 魏の軍師・司馬懿(しばい)は、陣中に諸葛亮の使者が来訪した際に、諸葛亮の食事や仕事量、生活の様子などを尋ねた。
 使者は、諸葛亮はほとんど睡眠をとる時間もなく、食事は数升しか召し上がりませんと正直に答えた。それを聞いた司馬懿は、諸葛亮が過労でまもなく死ぬと予測する。
 司馬懿の予想はすぐに的中し、諸葛亮はその後まもなく病で倒れ、人材が育たなかった蜀はあっさりと魏に征服されてしまった。
(web歴史街道および東洋経済オンラインより)
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