第85話 寄付

文字数 1,962文字

 30年前の正月は落ち込んでいた。
 暮れの3ヶ月検診で次女が重い心臓病だろうと言われ、すぐに大学病院に行った。夫は仕事を休めない。報告したときの第1声は「嘘だね」だった。当時は紙おむつの性能もよくはなかった。ミルクと魔法瓶に湯を入れ、大荷物。タクシーを呼びひとりで病院まで連れて行った。
 それからが長かった。生後3ヶ月の重い心臓病がある子供だろうが、待たされた。混んでいた。古い建物の中を行ったり来たりあやしながら、ほぼ昼近くまで待ちようやく呼ばれた。
 先生はすぐに検査が必要だからと、いっぱいのところに午後予約を入れてくれた。ずっと抱っこ。昼食を食べたかどうかは記憶にない。

 検査では睡眠薬を渡され、眠らせるよう言われたが、なかなか飲んでくれず困った。
 検査の後、すぐにも入院が必要だったがベッドが空いていない。空き次第連絡が来る。そうしたら入院。そして手術……

 暗い暗い正月。年始の客は断った。次女は熱を出した。大学病院まで連れて行く。夫と車で。長男長女はふたりで留守番したのだろうか? 記憶がない。小2の息子と幼稚園年長組の娘。

 夫は治療費と葬式の心配をした。子供の医療費はまだ無料ではなかった時代。
 母はいざとなると強い。マンションを売ればいい。借金は残るだろうが。たくさん残るだろうが。
 ところが、治療費はタダだった。書類をいただき、保健所へ手続きに行った。封はされていなかったので見てしまった。手術代400万円。それが無料に!
 だから、私は健康保険はいくら高くても文句は言えない。

 手術前はICUで昼夜10分の面会しかできなかった。昼の面会の後、夜の10分の面会まで6時間ロビーで待つ。そういう親が何人もいた。成功率は調べたら90パーセント。でもこの子にとっては0パーセントかもしれない。
 そしてふたりの子供の待つ我が家へ帰った。往復3時間。毎日。

 夫は酒を飲むと弱気になった。この男はいつでも最悪を考える。
「手術しないでこのまま死なせてやりたい」
 母親は前しか向いていないのに……母は気丈だったが、弱みは髪に出た。まだ30歳過ぎたばかりなのに白髪が。

 手術の日、生後5ヶ月の次女はワゴンのような物に乗せられエレベーターで降りていった。見送りはエレベーターまで。娘はキョロキョロしていた。
 夫と私はずっとロビーで待った。10時間くらいかかったのではないだろうか? 

 手術が成功すると、回復は速かった。術後は何かあればすぐに駆けつけられる近くの旅館に泊まった。回復は速かった。体に付いた管がどんどん外されていく。汚い旅館には1泊するだけですんだ。
 
 全国から子供が集まってくる病院だった。大勢の子供が手術の順番を待っていた。娘は待てない病気だったので手術も早かった。動脈と静脈が逆になっていた。全身に血液がいかない。肺と心臓の往復で肺が3倍くらい肥大していた。

 ミルクを飲んでも吐いた、体重が増えたら危なかったのだろう。飲むたび吐いた。それを3人目の子の母親は、兄姉もそうだったから、と呑気で検診まで放っておいた。
 放っておいてよかった。いくらかでも月数が増えたから逆によかったかも、と女医が慰めてくれた。入院中、産まれたばかりの子が運ばれてきた。産んだばかりの母親は気丈だった。しかし、術後少したち、泣き喚く声が部屋まで響いた。

 難病の子供たちの母親は意外にも明るい。いろいろな情報を教えてくれた。
 教授に謝礼を包む……今はどうなのだろう? 手術の説明は個室で教授と私たち夫婦だけ。知らなかった私たちは用意もしていなかった。知らなくてよかった。包まなくても手を抜かれるわけではない。
 聞くところによると、現金は手渡し。品物は郵送するのだそうな。悪しき慣習。税金の掛からない金がいったいどのくらい? 教授の腕にはロレックス。
 対照的に担当していただいた助教授は親身な男性で救われた。朝も昼も夜も夜中も見かけた。家に帰らないのだろうか? この助教授には退院の時、謝礼を包んだ。以後毎年1度検診でお会いした。今では偉くなられたようだ。

 落ち着いてから、いくらかの寄付をするようになった。400万の手術が無料だったのだ。感謝します。社会貢献します。少しでも。必ず……
 阪神淡路大震災。映像を真剣に見ていたら……それまではせいぜい2、3千円の寄付しかしなかったが……
 以降、災害がありすぎてお金も気持ちも続かない。喉元過ぎればなんとやら。調べてユニセフの銀行引き落としにした。毎月少額だが。あれは世界の子供達への寄付だけど……他のことは他の人にお任せ。
 娘は言った。
「ブラックだよ。やめなよ。子供に服買ってよ」
 人件費や宣伝費はかかるだろう。実質の寄付は何パーセントに?

 それが10年続いたと、小さな賞状が送られてきた。



 


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