第88話 『感情のないこと』の訓練

文字数 1,792文字

 隣の旦那さんが認知症になった。夜中声が聞こえる。娘さんの名を呼ぶ。住んでいるのは父と娘。80歳くらいの父親に50歳くらいの娘さん。壁が薄いのか、聞こえてしまう。娘さんはフルタイムで働いている。
 娘は父親を怒る。優しくはなれない。耳が遠い父親に大声を出して怒る。日常茶飯事になってしまった。聞いているほうもいたたまれないが、怒っている本人は……? 安らぐことはないだろう。いつ終わるかわからない親の介護。自分を思い出す。

 階下からは子供をヒステリックに怒る母親の声が聞こえたものだが、冬の間は届かず助かる。思えば私も子供を怒鳴った。上から3人順番に。窓を閉めてから。上の子と下の子は怒られても一晩寝ればケロッとして、おはよう、と言う。真ん中は少々あとを引いた。
 その娘は孫ふたりに翻弄され怒っているが、
「ママ、優しくなれ」
とおまじないをされている。

 悩みはいつも子供と父親のことだった。夫は? 
 諦めていた。子供が小さいうちは我慢した。頼れる実家はないし、生活力もない。長男が大きくなったら……
 一緒に出て行こうね、早く大きくなあれ、と思ったが……
 大きくなったら子供に、
「さっさと出ていきなさいよっ!」

 夫は喧嘩をすると1週間は喋らない。それが嫌で、喧嘩は避けた。我慢した。見ない。聞かない。相手にしない。態度には出さないが。
 うまくいったみたいだ。晩年夫は寄り添ってくる。まあまあの人生だったと思っているようだ。どうか、このまま、認知症になどなりませんように。

 コロナ禍で普段よりニュースを気にしたからだろうか? ここ2年、怒りが多かった。
 
 豪快な美容師さんは、私が安倍政権に怒りまくったときに言った。
「いいじゃん、殺されないだけ、マシ」
「!」
 確かに、よその国のように殺されたりはしないが……?
 
 某男性タレントのラジオでの発言をYahooのニュースで知ったときは、怒り心頭……

 新型コロナウイルスの感染拡大で経済的に苦しくなった女性が、性風俗業で働くことになるのを待ち望むような発言。
 女性たちのコメントはすごかった。大半の女性を敵にしましたね。
 
 それを美容師さんにぶちまけたら、
「え? なんで? いいじゃない。別に。ふーん、怒るのか?」

 思えば彼女の考えは、世の中を生きやすくするために自分を守る知恵なのだろうか? 長年の接客業。理不尽な客はいる。いちいち怒っていたらやっていけない。生き辛くなる。自分が辛くなる。だから感情をコントロールする。イヤなことは右から左。
 私も接客業についたばかりの頃、店長に言われた。
「Cさん、思い切り顔に出てる」
だって、この方、今日3度目のご来店ですよ。買いもしないのに。それも閉店間際の忙しい時間に。
 やがて身につく。営業用の笑顔。お世辞が出る。どの口から? 客が帰った途端……女は恐ろしい。きれいな服を売っているのに……

 今の仕事も怒っていたらキリがない。朝行った途端に『バカヤロー』の罵声を浴びせられる。理不尽極まりない。認知症とわかってはいても。

 昭和の終わりの、犯罪史上類をみない残虐な少年犯罪があったのは比較的住んでいるところに近かった。
 知らなければよかった。興味を持たなければよかった。怒り心頭……はらわたが煮え繰り返る……だけではない。脳みそまで煮え繰り返った。

 明け方、目が覚めてしまう。娘を持つ親だから余計に許せない。
 許せない。許さない。報復を。どうする? 
 本気で考えた。宝くじで大金が当たったら、殺し屋を雇って同じような目に合わせてやる。去勢してやる……週刊誌を買い、本名を控えた。
 新聞にも投書した。採用されなかったが。
 災害も事件も真剣に考えたら自分が病んでしまうのかもしれない。

 年月が過ぎ、出所した犯人のひとりが再犯事件を起こしたのも近くだった。主犯格もその後、再犯。更生などしない。世間が更生させないのか?
 今でも思う。宝くじが当たったら……

 日本中を震撼させた少年A。更生したAも近くの団地に住んでいたことがあった。名も変えているだろうに、なぜかわかってしまうものだ。文春さんがずっと追っていた。すぐに転居したが。見つかるたびに転居。今では結婚して子供もいるらしいとか?  

 いじめ、虐待、殺人……多すぎる報道に鈍感力(スルー力)が身についた。どんなに悲惨な事件が報道されても揺らがないように。
 

 
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